短い答え
創造主についてのジャイナ教の問いは、私たちのような造り手を思い描いており、クルアーンはそのようではないお方を描いています。ジャイナ教の教師たちは、なぜ完全な存在が創造するのか、材料はどこから来たのか、なぜ慈悲深い造り手が苦しみを許すのかと問います。それぞれの問いは、必要と動機と材料の蓄えを持つ造り手を前提にしています。神は何ものにも依存されず、かれが造られるものから何も必要とされません。かれはかれの命令、「あれ」によって物事を存在させられます。ジャイナ教は創造主を否定し、白衣派の聖典はそれが挙げる創造の記述を退けています。クルアーンは造り主について異なる記述を与えています。イスラームは、それがかれについて言っていることを量るようあなたを招いています。
詳しい説明
ジャイナ教の論拠はどこから来るのか
ジャイナ教は創造主を否定しています。それは、世界には始まりがなく、輪廻から解き放たれた魂は神的であると教えています。二つの大きな伝統、白衣派(白い衣をまとう者たち)と裸行派(空をまとう者たち)はどちらもこれを保っているので、このページはそのたびに伝統の名を挙げます。『スートラクリターンガ』は白衣派の文書です。それは、世界は神々によって、ブラフマン(ここでは創造神ブラフマー)によって、あるいはイーシュヴァラ(支配する主)によって造られたという見方を挙げています。他の者たちは、それはスヴァヤンブー(自ら存在する者)によって造られた、あるいは世界卵から出てきたと言っています。それは、自分自身の論拠に基づいて世界は創造されたと主張する者たちは真理を知らないと言っています。その節はそれらの記述を退けているのであって、論拠を与えているのではありません。論拠は、九世紀の裸行派のジナセーナのような教師たちから、その『マハープラーナ』の中で来ています。
“われわれはまた一部の(哲学者)の別の誤りについても聞く。ある者は世界は神々によって創造された(あるいは治められている)と言い、他の者はブラフマンによってと言う。ある者はそれはイーシュヴァラによって創造されたと言い、他の者は、生きている存在と生命のないものを伴い、快楽と苦痛の多様性を伴うこの世界は、混沌などから生み出されたと言う。”
“自分自身の論拠によって世界は創造されたと主張する者たちは、真理を知らない。また(世界)は決して滅びないであろう。”
その『マハープラーナ』(第4章)で、空衣派の師ジナセーナは創造主に反対して論じている。もし創造主が完全であるなら、なぜ創造を望むのか。もし彼が戯れのために世界を作ったのなら、それは子どもじみている。もし彼が原料を必要としたのなら、それはどこから来たのか、そしてもし彼がまずそれを作ったのなら、何からか。もし彼が憐れみから世界を作ったのなら、なぜ存在たちは苦しまされるのか。そして身体を持たない存在が、いったいどうして物質に働きかけることができようか。
ジナセーナの問い
ジナセーナは、なぜ完全な存在がそもそも創造することを望むのかと問います。もし彼が戯れのために世界を造ったのなら、それは子どもじみていた。もし彼が原料を必要としたのなら、それはどこから来たのか、そしてもし彼がそれを先に造ったのなら、何からか?もし彼が慈悲から行ったのなら、なぜ生き物は苦しむのか?そして体のない存在が、どうして物質に働きかけることができるのか?これらは真剣な問いであり、退けられるよりも答えられるに値します。
その『マハープラーナ』(第4章)で、空衣派の師ジナセーナは創造主に反対して論じている。もし創造主が完全であるなら、なぜ創造を望むのか。もし彼が戯れのために世界を作ったのなら、それは子どもじみている。もし彼が原料を必要としたのなら、それはどこから来たのか、そしてもし彼がまずそれを作ったのなら、何からか。もし彼が憐れみから世界を作ったのなら、なぜ存在たちは苦しまされるのか。そして身体を持たない存在が、いったいどうして物質に働きかけることができようか。
その問いが前提としていること
それぞれの問いは、創造主をより大きな規模の職人として扱っています。陶工には必要と動機と粘土と手があります。もし神がそのようであったなら、その問いは強いものだったでしょう。クルアーンは、かれはそうではないと言っています。かれに似たものは何もなく、かれは最初のお方であり、お産みにもならず、お産まれにもならない永遠なるお方です。ですからその問いは、クルアーンが描いていない造り手に向けられているのです。
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
“かれは最初のお方、最後のお方、(最も)外なるお方、(最も)内なるお方。そしてかれは、全てのことをご存知のお方であられる。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
かれが何も必要とされないのなら、なぜ創造されるのか?
目的を持つことは、必要を持つことと同じではありません。満ち足りたところから贈り物をする人は、欠乏からではなく寛大さから行っています。クルアーンは、神を必要としているのは私たちであり、神はあらゆる必要から自由であると言っています。それは、かれはジンと人をかれに仕えるために創造されたが、彼らから何の糧も求められないと言っています。努める者は、自分自身の魂のために努めるのです。それはまた、世界は戯れに造られたのではないと言っています。
“人々よ、あなた方はアッラーなしではいられない貧者であり、アッラーは満ち足りておられるお方、称賛されるべきお方なのである。”
“われがジンと人間を創造したのは、彼らがわれ(のみ)を崇拝するために外ならない。”
“われは彼らから糧が欲しいわけでもなければ、彼らがわれに食べさせてくれるのを欲しているわけでもない。実にアッラーこそは糧を授けられるお方、強力さの主、力みなぎるお方なのだから。”
“そして(アッラーゆえに)奮闘する者は誰でも、自分自身のために奮闘しているに過ぎない。本当にアッラーはいかなる創造物(の行いや崇拝行為)からも、まさしく満ち足りておられるお方なのだから。”
“われらは、天と地とその間にあるもの全てを、ふざけ半分に創ったのではない。”
材料はどこから来たのか?
その問いは、材料の蓄えを必要とし、さらにその蓄えのための造り手を必要とする労働者を思い描いています。けれども材料のどんな蓄えも、最も小さな原子に至るまで、一つの状態から別の状態へと変わるので、何か他のものに依存しています。すべてのものが依存しているものは、それ自体が蓄えを必要とすることはありえません。クルアーンも同じことを言っています。アッラー(﷾)はすべてのものの創造主です。天と地の最初の始まりはかれに帰し、かれが一事をお取決めになれば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在するのです。ですから何があるにせよ、かれがそれを造られたのです。
“アッラーは全てのものの創造主で、かれは全てのことを請け負われるお方であられる。”
“(かれは)諸天と大地の独創者。かれには伴侶もないのに、どうしてかれに子供などあり得ようか?そしてかれが全てをお創りになり、かれは全てのことをご存知のお方だというのに?”
“(アッラーは)諸天と大地の独創者。そして、かれが一事をお取決めにな(り、お望みにな)れば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
なぜ苦しみがあるのか?
善い造り主は苦しむ生き物を造りはしないだろう、とジナセーナは論じます。クルアーンは、神は私たちの誰が行いにおいて最もよいかを試すために死と生を創造されたと答えています。それは、かれは悪によっても善によっても私たちを試されると言っています。すべての魂はかれのもとに帰るので、勘定は死で閉じられるのではありません。試練の世界は報いではありません。ジャイナ教の読者は、なぜある人は他の人より多くを持って生まれるのか、そしてもし神が結果を知っておられるのなら、なぜそもそも試すのかと問うかもしれません。クルアーンは、神は人々をかれが彼らに与えられたものによって試すために、位において高められたと言っています。それは、かれはどの魂にもその能力を超えて負わせられず、その日にはどの魂も少しも不正に扱われないと言っています。かれが結果を知っておられることは、誰の選択も強いません。試練は一つひとつの行いを本当に私たちのものにするので、裁きは公正であると見られるのです。「なぜ神は苦しみを許されるのか?」のページが詳しい答えを示しています。
“(人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびないお方、赦し深いお方であられる。”
“全ての者は、死を味わうのだ。われらは悪と善という試練で、あなた方を試す。そしてわれらの御許にこそ、あなた方は戻されるのである。”
“かれは、あなた方を地上の継承者とされ、かれがあなた方にお授けになったものであなた方を試みられるべく、あなた方の内のある者を別の者よりも高く位置づけられたお方。本当に(使徒よ、)あなたの主は、即座に懲罰を下されるお方。そして、実にかれはまさしく、赦し深いお方、慈愛深いお方である。”
“アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない。人は自ら得たもの(善行)によって自らを益し、自ら稼いだもの(悪行)によって自らを損ねる。(こう祈るがよい。)「我らが主よ、私たちをお咎めにはならないで下さい。もし私たちが忘れたとしても、また過ちを犯したとしても。我らが主よ、また、あなたが私たち以前の者たちに課されたような厳しいご命令を、私たちには課さないで下さい。我らが主よ、そして、私たちが担いきれない重荷を、私たちに負わせないで下さい。また、私たちを大目にご覧になり、私たち(の罪)をお赦しになり、私たちにご慈悲をおかけ下さい。あなたは私たちの庇護者なのですから。ゆえに不信仰者である民に対して、私たちを勝利させて下さい」。”
“われらは復活の日に、公正な秤を設ける。誰一人、僅かたりとも不正を受けることはない。そして、たとえ(現世での行いが)からし種一粒きりの重さであったとしても、われらはそれを(勘定に入れるべく)持って来るのだ。われらだけで、清算者は十分なのである。”
自らの意志によって行う造り手についてのジャイナ教の詩句
『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』は、ヒンドゥー教(アドヴァイタ)の著者マーダヴァによる、十四世紀のジャイナ教の体系の要約です。それはジャイナ教の文書ではありません。それは『ジナ讃』と呼ばれる讃歌を引いています。その要約は、讃歌の作者も伝統も挙げていません。その詩句は、自らの自由な意志によって行う造り手はいない、さもなければ彼の影響は筵を作ることにまで及ぶだろうと言っています。それから、もしイーシュヴァラが三界を造り上げたのなら、職人たちは何の役に立つのかと問うています。
“ここには自らの自由意志によって行う作り主はいない。さもなければその影響は筵を作ることにまで及ぶであろう。もしイーシュワラが三界を作り上げるのなら、あなた自身やすべての職人に何の役があろうか。”
神が造られた原因も、やはり原因である
その詩句は、職人の代わりに職人の仕事をする造り手を思い描いています。クルアーンはそうは言っていません。それは、アッラー(﷾)があなた方とあなた方の手仕事を創造されたと言い、かれは天から雨を降らせ、それによって果実を生み出されたと言っています。織り手も、機も、糸も、すべてかれの被造物です。すべてのものの造り主であることは、世界の働きを無用にはしません。それは、それらがすべてかれに依存しているという意味なのです。
“アッラーがあなた方と、あなた方が行うものをお創りになったというのに?」”
“あなた方のために大地を敷物とされ、空を屋根とされ、天からは(雨)水をお降らしになり、あなた方の糧とすべく、それにより(様々な)果実を実らせられたお方を。ならば(アッラーが唯一の主であり、崇拝すべきお方だと)知りつつ、アッラーに同位者を設けて(崇拝して)はならない。”
“アッラーは全てのものの創造主で、かれは全てのことを請け負われるお方であられる。”
聖典が退ける記述と、始まりのない世界
『スートラクリターンガ』は、神々、ブラフマン、イーシュヴァラ、スヴァヤンブー、あるいは卵による創造を退けています。クルアーンは造り主について異なる記述を与えています。かれは唯一であり、お産まれにならず、かれに似たものは何もなく、かれは最初のお方であり最後のお方です。その聖典はまた、世界は決して滅びないと言っています。永遠に続く世界でさえ、変わり互いに依存する部分から成っています。クルアーンは人々に、彼らは何もないところから創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのかと問いかけています。同じ問いは、変わるすべてのものに当てはまります。「もしすべてのものに創造主が必要なら、誰が神を創造したのか?」と「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のページがこれを取り上げています。
“われわれはまた一部の(哲学者)の別の誤りについても聞く。ある者は世界は神々によって創造された(あるいは治められている)と言い、他の者はブラフマンによってと言う。ある者はそれはイーシュヴァラによって創造されたと言い、他の者は、生きている存在と生命のないものを伴い、快楽と苦痛の多様性を伴うこの世界は、混沌などから生み出されたと言う。”
“自分自身の論拠によって世界は創造されたと主張する者たちは、真理を知らない。また(世界)は決して滅びないであろう。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
“かれは最初のお方、最後のお方、(最も)外なるお方、(最も)内なるお方。そしてかれは、全てのことをご存知のお方であられる。”
“いや、彼らはいかなるものもなしに、創られたというのか?それとも彼らが創造者なのか?それとも、彼らが諸天と大地を創ったのだと?いや、彼らは(アッラーの懲罰を)確信していない。”
創造主はどなたか、そしてその主張をどう量るか
ジャイナ教徒はすでに三つのことを保っています。どの像もどの神も魂を救うことはできない。各魂は自分自身の行いについて答える。生き物への自制と慈悲は大切である。イスラームは責任と自制を保ち、すべての行いをご覧になり、近くにおられるお方の名を挙げます。神は、かれは呼びかける者に応えると言われます。かれはまた、かれのメッセージをどう量るべきかを私たちに告げておられます。注意深くクルアーンを考え、それが筋が通っているかどうかを確かめよ、と。それは、全人類に遣わされたムハンマド(ﷺ)によってもたらされました。ムスリムはジャイナ教徒も含めてすべての読者に、その書物とそれをもたらした人を量るよう招いています。イスラームは、信仰、崇拝、品性が一つになった完全な生き方です。
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
“一体彼らは、クルアーンを熟慮しないのか?もしそれがアッラー以外のものに由来するものであったなら、彼らはその中に沢山の相違点を見出したであろうに。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
答えられた七つの応答
『全哲学綱要』第3章(アルハタの体系) — 45ページ
“ここには自らの自由意志によって行う作り主はいない。さもなければその影響は筵を作ることにまで及ぶであろう。もしイーシュワラが三界を作り上げるのなら、あなた自身やすべての職人に何の役があろうか。”
引用の目的
自らの意志によって行う造り手は、筵に至るまですべてを造らなければならないだろう。そうなれば職人たちは無用になるだろう。
応答
クルアーンは、神が織り手の代わりに働かれるとは描いていません。それは、アッラー(﷾)があなた方とあなた方の手仕事を創造され、かれは雨を降らせ、それによって果実を生み出されると言っています。織り手も、機も、糸もかれの被造物であり、かれが造られた原因もやはり原因なのです。すべてのものの造り主であることは、世界の働きを無用にはしません。それは、それらがかれに依存しているという意味なのです。その詩句自体は、ジャイナ教の文書の中ではなく、ジャイナ教の見方についての十四世紀のヒンドゥー教の要約の中で私たちに伝わっています。
結論 — その詩句は、職人に取って代わる造り手に答えています。クルアーンは、職人とその仕事の造り主を描いています。
ジナセーナ『マハープラーナ』4 — 第4章、創造主に反対する一節
その『マハープラーナ』(第4章)で、空衣派の師ジナセーナは創造主に反対して論じている。もし創造主が完全であるなら、なぜ創造を望むのか。もし彼が戯れのために世界を作ったのなら、それは子どもじみている。もし彼が原料を必要としたのなら、それはどこから来たのか、そしてもし彼がまずそれを作ったのなら、何からか。もし彼が憐れみから世界を作ったのなら、なぜ存在たちは苦しまされるのか。そして身体を持たない存在が、いったいどうして物質に働きかけることができようか。
引用の目的
完全な存在は何も必要としない。だから彼には創造する理由がないだろう。彼は何かを欠いていたか、戯れたかのどちらかだ。
応答
目的を持つことは、必要を持つことと同じではありません。満ち足りたところから与えられる贈り物には理由があり、与える者は何も失いません。クルアーンは、神を必要としているのは私たちであり、神はあらゆる必要から自由であると言っています。それは、かれはジンと人をかれに仕えるために創造されたと言い、次の節で、かれは彼らから何の糧も求められないと言っています。努める者は、自分自身の魂のために努めるのです。そしてそれは、世界は戯れに造られたのではないとはっきりと言っています。
結論 — 寛大さから創造することは、欠乏から創造することではありません。崇拝は崇拝する者のためのものであり、神はそれから何も得られません。
ジナセーナ『マハープラーナ』4 — 第4章、創造主に反対する一節
その『マハープラーナ』(第4章)で、空衣派の師ジナセーナは創造主に反対して論じている。もし創造主が完全であるなら、なぜ創造を望むのか。もし彼が戯れのために世界を作ったのなら、それは子どもじみている。もし彼が原料を必要としたのなら、それはどこから来たのか、そしてもし彼がまずそれを作ったのなら、何からか。もし彼が憐れみから世界を作ったのなら、なぜ存在たちは苦しまされるのか。そして身体を持たない存在が、いったいどうして物質に働きかけることができようか。
引用の目的
もし創造主が原料を必要としたのなら、それは創造されなかったものであり彼はすべてを造ったのではないか、あるいは彼はそれを何か他のものから造ったかのどちらかだ。そうなると同じ問いが果てしなく戻ってくる。
応答
その無限後退は、粘土の蓄えを必要とする労働者に属するものです。材料のどんな蓄えも、最も小さな原子に至るまで、一つの状態から別の状態へと変わるので、何か他のものに依存しています。すべてのものが依存しているものは、それ自体が蓄えを必要とすることはありえません。クルアーンは、アッラー(﷾)はすべてのものの創造主であると言っているので、どんな材料があるにせよ、かれがそれを造られたのです。それは、かれが一事をお取決めになれば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在すると言っています。かれが依存されるどんな蓄えもないので、問いの連鎖が始まる場所はどこにもないのです。
結論 — もしかれがすべてのものの創造主であるなら、どんな材料もかれの創造の外には立っていません。
クルアーン 41:11 — 詳細にされた章、第11節
“それから、かれは煙状であった天(の創造)をお望みになり、それ(天)と大地に向かって、(こう)仰せられた。「従順にであろうと、嫌々であろうと、(わが命令へと)来たれ」。それら(天と大地)は、申し上げた。「私たちは従順に、参りました」。”
引用の目的
あなた自身のクルアーンが、天が形づくられる前の空を煙として語っている。だから材料はすでにあったのだ。
応答
その節は、かれが煙であった天に向かわれたと言っています。かれはそれと地に、共に来るよう告げられました。それは、その煙に造り主がなかったとは言っていません。同じ書物が、アッラー(﷾)はすべてのものの創造主であると言っています(39:62)。それはまた、天と地の最初の始まりはかれに帰すると言っています(2:117)。後に形づくられた材料も、やはりかれによって造られたのです。
結論 — その節は天の創造における一つの段階について語っています。それは神から離れて何かが存在したとは何も言っていません。
クルアーン 67:2 — 王権章、第2節
“(人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびないお方、赦し深いお方であられる。”
引用の目的
もし神が慈悲から世界を造られたのなら、苦しみはないはずだ。そうでないなら、かれは慈悲深くない。
応答
クルアーンは、世界が報いであるとは言っていません。それは、神は私たちの誰が行いにおいて最もよいかを試すために死と生を創造されたと言っています。それは、かれは悪によっても善によっても私たちを試されると言っています。すべての魂はかれのもとに帰るので、勘定は墓で閉じられるのではありません。不平等な誕生については、クルアーンは、神は人々をかれが彼らに与えられたものによって試すために、位において高められたと言っています。それは、かれはどの魂にもその能力を超えて負わせられないと言っています。それは、どの魂も少しも不正に扱われないと言っています。かれが結果を知っておられることは、誰の選択も強いません。試練は一つひとつの行いを本当に私たちのものにするので、裁きは公正であると見られるのです。「なぜ神は苦しみを許されるのか?」のページが詳しい答えを示しています。
結論 — 試練の世界における苦しみは残酷な造り主を示してはいません。勘定はかれのもとで清算され、どの魂も負担を超えて負わされることはないからです。
『スートラクリタンガ』1.1.3.9 — 第1巻、第1講、第3章、第9偈
“自分自身の論拠によって世界は創造されたと主張する者たちは、真理を知らない。また(世界)は決して滅びないであろう。”
引用の目的
ジナ自身の聖典は、自分自身の論拠に基づいて創造を論じる者たちは真理を知らないと言っている。世界は決して造られず、決して滅びない。
応答
これが聖典の言っていることであることは認めましょう。決して滅びない世界も、やはり変わり互いに依存する部分から成っています。そのようなものの連鎖は、なぜ連鎖があるのかを説明しません。クルアーンは人々に、彼らは何もないところから創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのかと問いかけています(52:35-36)。同じ問いは、変わるすべてのものに当てはまります。
結論 — 聖典は、世界は創造されていないと述べています。イスラームは、変わる世界が何に依存しているのかを問い、何ものにも依存されないお方の名を挙げます。
アル=ガザーリー『哲学者の自己矛盾(タハーフト・アル=ファラースィファ)』、第一討論
『哲学者の自己矛盾』の第一討論で、アル=ガザーリーは、世界は神の意志と同じく永遠でなければならないという論証に応じている。彼は、永遠の意志は、世界がある期間存在しないこと、そしてそれが特定の瞬間に始まることを求めうるのであり、それは神に何の変化も必要としないと答える。
引用の目的
もし神の意志が永遠なら、世界も永遠であるはずだ。もしかれの意志が始まったのなら、神は変わったことになる。
応答
これは古い問いであり、ムスリムの神学者たちはそれに答えました。ガザーリーは『哲学者の自己矛盾』の中で、永遠の意志はあるものが始まる瞬間を選ぶことができると論じました。その選択は永遠であり、その対象だけが始まるのです。ですから世界が始まるために、かれの中の何も変わる必要はありません。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」のページが、より広い問いを取り上げています。
結論 — 永遠の意志は、意志するお方に何の変化もなく、世界がいつ始まるかを定めることができます。
さまざまな視点
ジナセーナ(裸行派)
九世紀の裸行派の教師ジナセーナは、完全で、慈悲深く、体のない創造主はありえないと論じている。彼の問いは、創造への望み、材料、苦しみ、そして体なしの行いに関わっている。
完全な存在は何も必要としない。だから彼には創造する理由がない。もし彼が戯れのために創造したのなら、それは子どもじみているだろう。
反論
かれが何も必要とされないことは認めましょう。クルアーンは、アッラー(﷾)はあらゆる必要から自由であり、何の糧も求められないと言っています。満ち足りたところからの贈り物は、必要なしに目的を持っており、クルアーンは創造は戯れではないと言っています。
創造主には原料が必要だ。もしそれがすでにそこにあったのなら、彼はすべてを造ったのではない。もし彼がそれを先に造ったのなら、何からか?
反論
材料のどんな蓄えも、最も小さな原子に至るまで、一つの状態から別の状態へと変わるので、何か他のものに依存しています。すべてのものが依存しているものは、蓄えを必要としません。クルアーンも同じことを言っています。かれが一事をお取決めになれば、それに「あれ」と仰せられる、と(2:117)。
慈悲深い創造主は、苦しむ生き物を造りはしないだろう。
反論
苦しみが本物であることは認めましょう。クルアーンは、神は私たちの誰が行いにおいて最もよいかを試すために死と生を造られ、すべての魂はかれのもとに帰ると言っています。試練の世界の痛みは、残酷な造り主を示してはいません。
体のない創造主は物質に働きかけることができないだろう。
反論
体それ自体が造られた、依存するものなので、すべてのものの根拠が体を必要とすることはありえません。クルアーンは、かれに似たものは何もないと言っています(42:11)。
白衣派の聖典(『スートラクリターンガ』)
白衣派の文書『スートラクリターンガ』は、世界は創造されたという記述を挙げ、それらを誤りと呼んでいる。それは、世界は決して滅びないと言っている。裸行派は白衣派の聖典を受け入れていないが、どちらの伝統も創造主を否定している。
ある記述は、世界は神々によって、ブラフマンによって、あるいはイーシュヴァラによって造られたと言う。そのような記述は誤りである(『スートラクリターンガ』1.1.3.5-6)。
反論
聖典がそれらの記述を退けていることは認めましょう。クルアーンは異なるものを与えています。唯一であり、お産まれにならず、かれが造られた何ものにも似ていない造り主です。
創造を論じる者たちは真理を知らず、世界は決して滅びない(『スートラクリターンガ』1.1.3.9)。
反論
これが聖典の言っていることであることは認めましょう。永遠に続く世界も、やはり変わり互いに依存する部分から成っています。クルアーンは人々に、彼らは自分自身を造ったのかと問いかけています(52:35-36)。同じ問いは、変わるすべてのものに当てはまります。
ヒンドゥー教の著者が引くジャイナ教の讃歌
『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』は、ジャイナ教の見方についての十四世紀のヒンドゥー教(アドヴァイタ)の要約である。それはジナを讃える讃歌を引いている。その讃歌は、自らの自由な意志によって行う造り手は、筵に至るまですべてを造り、職人たちには何の役目も残さないだろうと言っている。
自らの自由な意志によって行う造り手はいない。さもなければ彼の影響は筵を作ることにまで及ぶだろう。職人たちは無用になってしまうだろう。
反論
クルアーンは、神が職人の代わりに働かれるとは描いていません。それは、アッラー(﷾)があなた方とあなた方の手仕事を創造され、雨が果実を生み出すと言っています。かれが造られた原因も、やはり原因なのです。
イスラームの視点
ジャイナ教の問いは、必要と動機と材料の蓄えを持つ、職人のような造り手に向けられています。クルアーンは、何ものにも依存されず、かれが造られるものから何も必要とされないお方を描いています。かれはかれの命令によってすべてのものを創造され、命を試練とされました。かれは近くにおられ、聞き、裁かれます。信仰、崇拝、品性は一つの生き方として結びついています。
ジャイナ教の問いは、陶工のように、必要と動機と材料の蓄えを持つ造り手を前提にしています。
クルアーンは、最初のお方であり、お産まれにならず、かれに似たものが何もないお方を描いています。
神はかれの創造から何も必要とされません。目的は必要ではなく、努める者は自分自身の魂のために努めるのです。
神はすべてのものの創造主であり、かれの命令「あれ」によって創造されます。ですからどんな材料もかれによって造られたのです。
命は試練であり、勘定は死で閉じられないので、苦しみは残酷な造り主を示してはいません。
変わり互いに依存する部分からなる世界は、たとえ始まりがなくても、自分自身を説明しません。クルアーンは人々に、彼らは何もないところから創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのかと問いかけています。
クルアーンは注意深く量られることを求めています。それは、全人類に遣わされたムハンマド(ﷺ)によってもたらされました。