短い答え
善くあることは必要ですが、それは私たちが負っているものの全体ではありません。孔子は、仁とは人を愛することであり、己の欲せざる所を人に施すことなかれと教えました。イスラームも親切を命じています。親、親族、困窮者、近い隣人と遠い隣人に対してです。すべての人に対する正義を命じています。また、イフサーン(卓越)を求めています。アッラー(﷾)を見ているかのようにかれを崇拝することです。善だけでは抜け落ちてしまうのは、私たちを造られ、私たちがそのもとへ帰るお方です。クルアーンは神とその使徒への信仰を求め、他のどの宗教も受け入れられないと述べています(3:85)。また、使徒が来るまで神は怒りを下されないと述べています(17:15)。ですから信仰は、メッセージがその人に届いたときに求められるのです。
詳しい説明
善くあることについて孔子が教えたこと
孔子は、人の完全な善である仁を教えました。英語ではしばしば humaneness(人間らしさ)と訳されます。ここで引用する1861年の英訳のレッグは、それを benevolence(仁愛)や perfect virtue(完全な徳)と訳しています。仁について問われて、孔子はそれは「人を愛す」ことだと言いました(12.22)。完全な徳について問われて、彼は他のことと並んで、己の欲せざる所を人に施さないことを挙げました(12.2)。生涯を導く一つの言葉を求められて、彼は中国語で恕と呼ばれる思いやりで答えました(15.23)。立派な人柄の人は君子、レッグの言う superior man です。その人の心は利益ではなく義に向けられています(4.16)。また、天(ティエン)の命を畏れます(16.8)。天は孔子の言葉であり、このページはそれをアッラー(﷾)の別名としては扱いません。
“樊遅、仁を問う。子曰く、「人を愛す」。”
“仲弓、仁を問う。子曰く、「門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭を承くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し」。”
“子貢問いて曰く、「一言にして以て終身之を行うべき者有りや」。子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」。”
“子曰く、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」。”
“君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。”
イスラームも親切と正義を命じている
クルアーンは、アッラー(﷾)への崇拝を、親、親族、困窮者、遠い隣人に善を行うことと結びつけています(4:36)。憎む人々に対してさえ正義を命じています(5:8)。アッラー(﷾)は、信仰のことでムスリムと戦わず、彼らを追い出さない者たちに、親切に公正に接することを禁じておられません(60:8)。預言者(ﷺ)は、あなた方の誰も、自分のために愛するものを自分の兄弟のために愛するまでは、本当に信じたことにはならないと言いました。伝承者は、彼が「兄弟」と言ったか「隣人」と言ったか確かではありませんでした(ムスリム 45a)。彼はまた、あなた方の中で最もよい者の一人は、最もよい人柄を持つ者だと言いました(ブハーリー 3559)。クルアーンは、彼は崇高な人柄の基準に立っていたと述べています(68:4)。
“アッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも並べてはならない。そして両親に孝行し、親戚、孤児、貧者、近い隣人、遠い隣人、道連れの仲間、旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)にも(、善行を尽くせ)。本当にアッラーは、尊大ぶった者、高慢ちきな者をお好みにはならない。”
“信仰する者たちよ、アッラーのためによく(権利を)履行する者、正義の証人であれ。そしてある民に対する憎しみが、あなた方を公正の不履行へと向けてしまうようではならない。公正に徹するのだ。それがより敬虔さに近いのだから。そしてアッラーを畏れよ。本当にアッラーは、あなた方の行うことに通暁されているお方。”
“アッラーは、宗教においてあなた方と戦ってもおらず、あなた方をあなた方の家から追い出してもいない者たちに、あなた方が善行を施し、公正に接することを禁じていらっしゃるわけではない。本当にアッラーは、公正な者たちをお好みになるのだから。”
アナス・イブン・マーリクによれば、預言者(ﷺ)は、あなたがたの誰も、自分のために愛するものを自分の兄弟のために愛するまでは、真に信じてはいないと言った。文言は「彼の兄弟」であり、伝承者は、預言者(ﷺ)がその代わりに「彼の隣人」と言ったかもしれないと付け加えている。
アブドゥッラー・イブン・アムルによれば、預言者(ﷺ)は決して言葉が下品でなく、そうしようとする者でもなく、あなたがたの中で最も良い者の中には最も良い品性を持つ者がいると言うのが常であった。
“また本当に(使徒よ)、あなたこそは、この上ない(よき)品性を備えている。”
誰かがあなたに不正をしたとき
孔子は、徳をもって怨みに報いるべきかと尋ねられました。彼は、直きをもって怨みに報い、徳をもって徳に報いると答えました(14.36)。クルアーンは、傷害に対して同等の報いを許しています。そして、赦して和解する者には、その報いがアッラー(﷾)のもとにあると付け加えています(42:40)。また、よりよいもので悪を退けよ、そうすればあなたを憎んでいた者が親しい友のようになると述べています(41:34)。
“或ひと曰く、「徳を以て怨みに報いば何如」。子曰く、「何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」。”
“一つの悪の報いは、それと同様の一つの悪。それで(悪を行った者を)大目に見、(その者との関係を)改善するならば、その褒美はアッラーの御許で確定する。本当にかれは、不正者たちをお好みにはならないのだから。”
“善と悪とは同じではない。(使徒よ、あなたに悪くする者にも、)より善いものでもって、返してやれ。そうすればどうだろう、あなたとの間に敵対心がある者も、あたかも親しい味方のようになるのだ。”
イフサーン:崇拝における卓越
イスラームは正しい行為以上のものを求めます。有名な伝承(ハディース)の中で、天使ジブリールが見知らぬ人として来て、預言者(ﷺ)にイフサーンについて尋ねました。預言者は、それはアッラー(﷾)を見ているかのようにかれを崇拝することだと言いました。そして、あなたはかれを見ていなくても、かれはあなたを見ておられると付け加えました(ムスリム 8)。よい人柄はそこから育ちます。クルアーンは、正しさとは顔を東や西に向けることではないと述べています。それは、アッラー(﷾)、最後の日、天使、啓典、使徒たちを信じることです。また、かれへの愛から施すこと、礼拝、喜捨、約束を守ること、そして忍耐です(2:177)。クルアーンはまた、あなた方がどこにいてもアッラー(﷾)はあなた方と共におられ、あなた方のすることをご覧になると述べています(57:4)。
ウマル・イブン・アル=ハッターブによれば、真っ白な衣をまとった見知らぬ男が、預言者(ﷺ)にイスラーム、信仰、イフサーン(至善)について尋ねた。イフサーンについて尋ねられると、預言者は、それはあたかもかれを見ているかのようにアッラーを崇拝することであり、あなたがかれを見ていなくても、かれはあなたを見ておられるからであると言った。後で預言者はウマルに、その見知らぬ男はジブリールであり、彼らに彼らの宗教を教えるために来たのだと告げた。
“善とは、ただあなた方の顔を東や西に向けることではない。しかし(真の)善(行者)とは、アッラー、最後の日、天使、啓典、預言者たちを信じ、財産を近親の者、孤児、貧者、旅路(で苦境)にある者、物乞い、首のために、自らの(それに対する)愛着に関わらず施し、礼拝を遵守し、浄財を支払い、約束すればそれを果たす者たちで、困窮と災難、戦いの時に忍耐ある者たち。そのような者たちこそは、(信仰に)正直な者。そしてそのような者たちこそは、敬虔な者なのである。”
“かれは諸天と大地を六日間でお創りになり、それから御座に上がられた。かれは大地の中に入り込むものも、そこから出てくるものも、天から落ちてくるものも、そこへ昇っていくものも、ご存知である。また、かれはあなた方がどこにあろうとも、(その御知識と共に)あなた方と共にあるのだ。アッラーは、あなた方が行うことに通暁されたお方である。”
善だけでは抜け落ちてしまうもの
孔子もまた天への畏れを教えました(16.8)。けれども彼は、天が言葉でメッセージを送ったとは教えませんでした。あるとき、もう語りたくないと言ったとき、彼は「天何をか言うや」と問いました(17.19)。イスラームは、私たちを造られたお方が、使徒を遣わすことによって語られたと言います(42:51)。親切についての節は、かれの権利を最初に置いています。アッラー(﷾)に仕え、かれに何ものも並べるな、そして親や他の人々に善を行え、と言っているのです(4:36)。クルアーンは、真心からの献身を捧げて、アッラー(﷾)に仕えよと言います(39:2)。また、すべての魂は死を味わい、私たちはアッラー(﷾)のもとへ帰ると述べています(21:35)。イスラームは、他の信仰の人々や信仰を持たない人々が善を行えないとは言いません。善い行いと信仰は共に進むと言います。信仰を持って善い行いをする者は楽園に入り、少しも不正に扱われることはありません(4:124)。
“君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。”
“子曰く、「予言うこと無からんと欲す」。子貢曰く、「子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん」。子曰く、「天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや」。”
“アッラーが人間に語りかけ給うことなどは、あり得べくもない。しかし啓示によるものか、または覆いの向こうから(語りかけられるもの)、あるいは御使いを遣わせて、かれのお許しと共に、かれがお望みのことを啓示し給う場合は別である。本当にかれは、至高のお方、英知あふれるお方であられる。”
“アッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも並べてはならない。そして両親に孝行し、親戚、孤児、貧者、近い隣人、遠い隣人、道連れの仲間、旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)にも(、善行を尽くせ)。本当にアッラーは、尊大ぶった者、高慢ちきな者をお好みにはならない。”
“(使徒よ、)本当にわれらはあなたに、真実と共に啓典を下した。ゆえにアッラーを崇拝せよ、かれだけに真摯に崇拝行為を捧げつつ。”
“全ての者は、死を味わうのだ。われらは悪と善という試練で、あなた方を試す。そしてわれらの御許にこそ、あなた方は戻されるのである。”
“そして男性であれ女性であれ、誰であろうと信仰者で正しい行いを行う者、それらの者たちは天国に入る。彼らは、斑点一つほども不正に扱われることはない。”
イスラームが求めること、正確に述べると
クルアーンは、もし誰かがイスラーム以外の宗教を望むなら、それは決して受け入れられないと述べています。来世で、その人は損失者の一人となります(3:85)。また、アッラー(﷾)は使徒を遣わされるまでは、怒りを下されないと述べています(17:15)。ですから神とその使徒への信仰は、メッセージがその人に届いたときに求められるのです。ムスリムは、イスラームの外で亡くなった人々のために赦しを乞いません(9:113)。けれども、特定の人の行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。それは、決して少しも不正をされないアッラー(﷾)に属することです(4:40)。メッセージを聞いたことのない人々についてのページで、さらに取り上げています。
“誰であれ、イスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。また来世において、その者は損失者の類となるのである。”
“導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ。また(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。そしてわれらは使徒を遣わすまで、(いかなる民も)罰することなどないのである。”
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
“本当にアッラーは、ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない。そして(その僅かなものが)善行であるならば、それを何倍にもされ、そしてその御許から、偉大なる褒美をお授けになるのだ。”
イスラームの答え:生き方そのもの
イスラームは生き方そのものです。信仰、崇拝、法、家族、人柄が一つになっています。クルアーンは、アッラー(﷾)が宗教を完成させ、あなた方のためにイスラームを選ばれたと述べています(5:3)。信仰者に、心を尽くしてイスラームに入るよう呼びかけています(2:208)。「イスラームとは何か?」というページがその全体を示しています。信頼できる翻訳でクルアーンを読み、それを試してください(2:23)。そのうえで、ムハンマド(ﷺ)は神が遣わされた最後の預言者なのかどうかを問うてください(33:40)。
“この日われはあなた方のために、あなた方の宗教を完成させ、あなた方へのわが恩恵を全うし、イスラームがあなた方への宗教であることに満足した。”
“信仰する者たちよ、余すことなく平安の内に入れ。そしてシャイターンの歩みに従ってはならない。本当に彼はあなた方にとって、紛れもない敵なのだから。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“ムハンマドはそもそも、あなた方の男性の内の、誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒、預言者たちの封印なのだ。そしてアッラーはもとより、全てのことをご存知のお方。”
一つずつの答え
クルアーン 3:85 — イムラーン家章、第85節
“誰であれ、イスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。また来世において、その者は損失者の類となるのである。”
引用の目的
あなたたちのクルアーンは、他の信仰のよい人々は失われていると言う。だから私のよい祖母は地獄にいるのだ。
応答
あなたの祖母も含め、特定の人の行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。それは、少しも誰にも不正をされないアッラー(﷾)だけに属することです(4:40)。かれは使徒が来るまで怒りを下されません(17:15)。ムスリムは、イスラームの外で亡くなった人々のために赦しを乞いません(9:113)。それはムスリム自身の祈りについての規則であって、彼女についての判決ではありません。先祖を敬うことについてのページと、メッセージを聞いたことのない人々についてのページで、詳しく述べています。
結論 — イスラームはその規則を公に述べています。メッセージがその人に届いたときに信仰を求め、一人ひとりの行く末を、誰にも不正をされないアッラー(﷾)に委ねています。
クルアーン 3:85 — イムラーン家章、第85節
“誰であれ、イスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。また来世において、その者は損失者の類となるのである。”
引用の目的
私が親切で正直なら、正しい神は、信仰を間違えたことで私を拒まれないだろう。
応答
イスラームは神が公正であることに同意します。かれは少しも誰にも不正をされず(4:40)、使徒が来る前に怒りを下されません(17:15)。かれのメッセージが本当にその人に届いたかどうかを知っておられるのはアッラー(﷾)だけです。そして信仰は盲目的な当て推量ではありません。クルアーンはその証拠を示し、試されることを求めています(2:23)。また、私たちに命を与えてくださったお方への感謝を、親への感謝と並べて置いています。「われに感謝せよ。そしてあなたの両親に」(31:14)。親切な人は自分の親を無視しないでしょう。イスラームはその人に、自分の造り主を無視しないよう求めているのです。
結論 — 神は一人ひとりを公正に裁かれます。メッセージはその理由を示しており、私たちにすべてを与えてくださったお方から背を向けることは小さなことではありません。
サヒーフ・ムスリム 45a — 信仰の書(キターブ・アル=イーマーン)、ハディース45a
アナス・イブン・マーリクによれば、預言者(ﷺ)は、あなたがたの誰も、自分のために愛するものを自分の兄弟のために愛するまでは、真に信じてはいないと言った。文言は「彼の兄弟」であり、伝承者は、預言者(ﷺ)がその代わりに「彼の隣人」と言ったかもしれないと付け加えている。
引用の目的
イスラームの黄金律はムスリムだけのためのものだ。その伝承は「兄弟」と言っているので、他の人は皆除かれている。
応答
伝承者は、その言葉が「兄弟」だったか「隣人」だったか確かではなかったので、この伝承だけでは誰が意味されているのかは決まりません。すべての人への務めはクルアーン自体の中にあります。それは遠い隣人に善を行うよう命じ(4:36)、憎む人々に対してさえ正義を命じています(5:8)。信仰のことでムスリムと戦わない者たちに親切に公正に接することを許しています。アッラー(﷾)は公正な者を愛されるからです(60:8)。
結論 — クルアーン自体が、遠い隣人への善とすべての人への正義を命じています。他の信仰の平和な人々に親切に接することを許しています(4:36、5:8、60:8)。
『論語』4.16 — 第4篇、第16章
“子曰く、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」。”
引用の目的
イスラームは楽園のために善を行う。孔子の君子は義のためだけに善を行うのだから、その方が純粋だ。
応答
イスラームは、利益のために行われた善にはほとんど価値がないことに同意します。クルアーンは、困窮者に食べさせる人々を称えています。彼らは言います。「私たちがあなた方に食べさせるのは、アッラーの御顔ゆえに外ならない。私たちはあなた方から、見返りも感謝もいらない」(76:9)。イフサーンとは、アッラー(﷾)を見ているかのようにかれを崇拝することです(ムスリム 8)。その目的は神ご自身であって、商人の利益ではありません。
結論 — どちらも利益のための善を退けています。イスラームは、真心が誰に向けられるべきかを言います。
『論語』16.8 — 第16篇、第8章
“君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。”
引用の目的
孔子はすでに天への畏れを教えた。儒教の人は、イスラームが求めるものを持っている。
応答
敬虔さは共通の土台です。イスラームが異なるのは、誰をどのように敬うかです。アッラー(﷾)だけを、かれが定められた崇拝の中で、かれと並べて他の何ものにも仕えずに敬うのです(4:36、2:177)。
結論 — 畏れは両者に共通です。イスラームは、崇拝が誰に向けられるべきか、それがどのように示されるかを言います。
さまざまな視点
儒教:人柄のある人
孔子は、他者への愛、思いやりの規則、そして義と天への畏れによって動かされる人柄を教えました。儒教の人は、このように生きる人はすでによい人のあるべき姿だと言うかもしれません。
仁は人を愛することであり(12.22)、思いやりという一つの言葉が生涯を導くことができる(15.23)。それに従って生きる人は、それ以上何も必要ない。
反論
認めます。これは本物の善です。イスラームは、すべての人への正義と遠い隣人への善を命じています(5:8、4:36)。けれども人と人の間の規則は、私たちを造られたお方に何を負っているのかを言いません。クルアーンの親切についての節はそこから始まります。「アッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも並べてはならない」(4:36)。
人柄のある人は、利益ではなく義によって動かされる(4.16)。だから善はそれ自体が報いなのだ。
反論
イスラームは、利益のために行われた善にはほとんど価値がないことに同意します。クルアーンは、困窮者に食べさせる人々を称えています。彼らは言います。「私たちがあなた方に食べさせるのは、アッラーの御顔ゆえに外ならない。私たちはあなた方から、見返りも感謝もいらない」(76:9)。神のお喜びを求めることは、商人の利益ではありません。それは、私たちを造られたお方への真心です。
人柄のある人は、天の命を畏れる(16.8)。だから儒教の善はすでに敬虔さを含んでいる。
反論
認めます。敬虔さは善の一部です。イスラームは、私たちを造られたアッラー(﷾)が、その使徒たちを通して語られ、何を求められるかを私たちに告げられたと教えています(42:51)。また、その敬虔さがどのように示されるかも教えています。かれが定められた通りの崇拝の中で、かれと並べて何ものにも仕えないことによってです(4:36、39:2、2:177)。
直きをもって怨みに報い、徳をもって徳に報いる(14.36)。それはよい人々にとって公正な規則だ。
反論
イスラームもまた同等の報いを許し、赦しを称えています(42:40)。よりよいもので悪を退けよと教えています(41:34)。どちらの規則も、それだけでは、他者をどう扱うかについて私たちが誰に責任を負うのかを言いません。イスラームは、すべての魂はアッラー(﷾)のもとへ帰ると言います(21:35)。
大切なのはよい心だ
宗教を持つ人も持たない人も、多くの人は、大切なのは親切で公正であることだと考えています。神についての信仰はまったく必要ないと付け加える人もいます。神は、何を信じていようと、すべてのよい人を受け入れられると言う人もいます。
親切で十分だ。孔子の思いやりのような規則(15.23)は、その背後に神への信仰を必要としない。
反論
イスラームは、親切が務めであることに同意し、それを命じています(4:36)。開かれた問いは、なぜあなたが親切なのかではなく、何が親切を好みではなく拘束力のあるものにするのかです。イスラームは、私たちを造られたお方が善悪を定められ、すべての魂がかれのもとへ帰ると答えます(21:35)。
孔子の言う人柄のある人のように(4.16)、私は誰かが見ているからではなく、それが正しいから親切にする。善にはそれ以上の理由は要らない。
反論
イスラームは、善悪が実在することに同意します。けれども「それが正しいから」には根拠が必要です。何がそれを、単に私たちが共有する感情ではなく、すべての人を拘束するものにするのでしょうか。イスラームは、正しさが私たちを拘束するのは、私たちを造られたお方がそれを定められたからだと言います。かれは、なされたどんな善に対しても決して不正をされません(4:40)。
アッラーは決して不正をされない(4:40)。だからどの信仰の、あるいは信仰を持たないよい人々も、何を信じていようと、かれに受け入れられなければならない。
反論
イスラームは、アッラー(﷾)は決して不正をされないことに同意し(4:40)、他の信仰の人々や信仰を持たない人々が善を行えないとは言いません。けれども、イスラーム以外の宗教は受け入れられないとは言っています(3:85)。怒りは使徒が来た後にのみ下り(17:15)、特定の人の行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。
イスラームの視点
イスラームは、すべての人への正義と、隣人や見知らぬ人への親切を命じ、イフサーンを求め、善だけでは何が抜け落ちるのかを正確に述べています。それは生き方そのものであり、クルアーンを試すようあなたを招いています。
クルアーンは、親、親族、困窮者、遠い隣人に善を行うよう命じています。信仰のことでムスリムと戦わない者たちに、親切に公正に接することを許しています。
預言者(ﷺ)は、自分のために愛するものを自分の兄弟のために愛するまでは、誰も本当に信じたことにはならないと言いました。伝承者は、彼が「兄弟」と言ったか「隣人」と言ったか確かではありませんでした。
よい人柄はイスラームで高い位置を占めています。クルアーンは預言者(ﷺ)の崇高な人柄の基準について語り、彼は、あなた方の中で最もよい者の一人は最もよい人柄を持つ者だと言いました。
預言者(ﷺ)はイフサーンを、かれがあなたを見ておられることを知りながら、アッラー(﷾)を見ているかのようにかれを崇拝することと定義しました。
正しさとは、アッラー(﷾)への真心からの献身をもって捧げられる、信仰、崇拝、施し、よい振る舞いが一つになったものです。
善い行いは、信仰と共に来世で数えられます。
神とその使徒への信仰は、メッセージがその人に届いたときに求められます。アッラー(﷾)は使徒が来るまで怒りを下されません。
ムスリムは、イスラームの外で亡くなった人々のために赦しを乞いません。けれども、特定の人の行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。それは決して不正をされないアッラー(﷾)に属することです。
イスラームは生き方そのものであり、クルアーンは疑う者にそれを試すよう招いています。