短い答え
いいえ。宗教は最も大きな問いに正反対の答えを与えているので、それらがすべて正しいことはありえない。ある宗教は神が人として生まれると言い、別の宗教はかれは決して生まれないと言う。ある宗教は私たちは何度も何度も生まれると教え、別の宗教は一度の生、それから審判を教える。『バガヴァッド・ギーター』もすべての道を等しいとは呼んでいない。ヒンドゥー教徒が崇拝するクリシュナは、ほかの神々を崇拝する者たちはそれらの神々のもとへ行き、彼らの報いは続かないと言う。ヒンドゥー教の書と師たちもまた、ほかの道を、対立するヒンドゥー教の学派さえも断罪した。リグ・ヴェーダからヴィヴェーカーナンダに至るまで、ヒンドゥー教徒が与える応答には、本文そのものから下で答えている。イスラームは誰にも信仰を強いず、ほかの人々の神々を侮辱することを禁じている。神には多くの美しい名があり、イスラームの答えは、すべての預言者が求めたこと、唯一の神だけを崇拝せよということである。
詳しい説明
ヒンドゥー教の論拠:一つの真理、多くの名、多くの道
これは、イスラームが示されたときに多くのヒンドゥー教徒が与える最初の答えの一つである。最古のヒンドゥー教の讃歌の書であるリグ・ヴェーダは、賢者たちは一なるものに多くの名を与えると言う。それはそれをインドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼んでいる。ギーターは、ヒンドゥー教徒が崇拝するクリシュナが戦士アルジュナに語るヒンドゥー教の聖典である。その中でクリシュナは、自分は人々が自分に近づくその仕方で彼らに仕えると言う。1893年、シカゴの万国宗教会議で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは集まった人々に、ヒンドゥー教徒はすべての宗教を真実として受け入れると告げた。彼はヒンドゥー教の僧であった。彼は、曲がっていても真っすぐでも、すべての道が、川が海に至るように神に至るという讃歌を引用した。彼はまた、ギーターの中のクリシュナの言葉を、すべての道は最後には彼に至るという約束として挙げた。彼の師ラーマクリシュナは、イスラームを含むほかの宗教を実践し、すべての宗教は真実であると結論した。
“人々は彼をインドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼び、彼は天の気高い翼を持つガルトマーンである。一なるものに、聖仙たちは多くの名を与える。彼らはそれをアグニ、ヤマ、マータリシュヴァンと呼ぶ。”
“人々が私に近づくそのやり方で、私は彼らに仕える。プリターの子よ、あらゆる仕方で、人々は私の道に従う。”
“われわれは普遍的な寛容を信じるだけでなく、すべての宗教を真実として受け入れる。”
“兄弟たちよ、私が幼い頃から唱えてきたことを覚えており、毎日何百万もの人々が唱えている讃歌から数行を引用しよう。「異なる所に源を持つ異なる流れがみな海でその水を混ぜ合わせるように、主よ、人々が異なる性向によってたどる異なる道は、曲がっていようとまっすぐであろうと、さまざまに見えても、みなあなたへと至る」。”
“これまでに開かれた最も荘厳な集会の一つである今回の会議は、それ自体が、ギーターで説かれた驚くべき教えの正しさの証明であり、世界への宣言である。「誰であれ私のもとに来る者は、私がどのような形を通して彼に届こうとも、みな最後には常に私に至る道を通って奮闘しているのである」。”
“晩年、彼はキリスト教の教えを実践することを考えていた。彼は幻の中でイエスを見、三日のあいだイエスとその愛のことしか考えられず、話せなかった。彼のすべての幻にはこの特徴があった。彼は常にそれを自分の外に見たが、それが消えると、それは自分の中に入ったように思われたのである。これはラーマ、シヴァ、カーリー、クリシュナ、イエス、その他あらゆる神、女神、預言者についてそうであった。これらすべての幻と、さまざまな宗教の実現の後、彼は、すべての宗教は真実であるが、そのそれぞれはアカンダ・サッチダーナンダ、すなわち分かたれず永遠の存在、知、至福の一つの面だけを考慮しているという結論に達した。これらの異なる宗教のそれぞれが、彼にはその一なるものに到達する道に思われた。”
ラーマクリシュナの僧団が出版した伝記は、アドヴァイタの実現が彼の心に、あらゆる形の宗教を完成に至る多くの道として受け入れる広さを与えたと言う。その後まもなく、イスラームもまた神を実現する手段であると信じて、彼は、ムスリムとなり、おそらくスーフィーに従っていたクシャトリヤのゴーヴィンダ・ラーイから入門を受けた。伝えられる彼自身の言葉では、彼はアッラーの名を繰り返し、ムスリムのように布をまとい、規則正しく祈りを唱え、ヒンドゥーの神々を訪ねたいという望みさえなかった。三日後、彼はその信愛の目標を実現した。本によれば、彼は最初、長いひげを生やした厳かな姿の光り輝く人を見た。それから彼の心は、属性を持つブラフマンの実現を通り、ついに属性を持たないブラフマンの中に吸収された。本は、彼がアドヴァイタにおいて完成を得た後にイスラームを取り上げたと付け加え、アドヴァイタをすべての信仰の根底にある基礎と呼んでいる。
宗教は正反対の答えを与えている
宗教は正直さ、慈悲、優しさについて多くの良い教えを共有している。しかしほかのすべてを決める問いについて、それらは正反対のことを言っている。ギーターでクリシュナは自分は時代ごとに生まれると言い、ヨハネによる福音書は言葉が肉体となったと言う。クルアーンは、神は生まず、生まれないと言う。ギーターは、人が衣を着替えるように、自己は身体から身体へと移ると教える。クルアーンは、偽りの中に生きた者たちに死が来るとき、彼らは送り返されるよう求めると言う。彼らは拒まれ、彼らが蘇らされる日まで、障壁が彼らの前に立つ。ヨハネによる福音書で、イエスは、自分によらないでは誰も父のみもとに行くことはできないと言う。これらの答えがすべて真実であることはありえない。よく知られた話は、諸宗教を、各々が象の一部分に触れる盲人たちとして描いている。しかしその話が成り立つのは、誰かが動物全体を見ることができるからにほかならない。その視力がなければ、誰もそれらの部分が一つに属していることを知ることはできないであろう。啓示はその視力であると主張するので、本当の問いは、どの啓示が真実かである。
“バラタの子孫よ、敬虔が衰え、不敬虔が優勢になるときはいつでも、私は自らを創り出す。善き者を守るため、悪を行う者を滅ぼすため、そして敬虔を確立するために、私は時代ごとに生まれる。”
“そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
“人が古い衣を脱ぎ捨てて新しい別の衣を着るように、身体を持つ者(自己)は古い身体を脱ぎ捨てて新しい別の身体へと移る。”
“やがて、彼らの内の者に死が訪れれば、彼は(こう)言う。「我が主よ、私を(現世に)返して下さい。私は、自分が残して来たものにおいて、正しい行いをするでしょう」。断じて(、戻ることは出来)ない。本当にそれは、彼が(口先だけで)言っている、ただの言葉に過ぎないのだから。そして彼らの先には、彼らが蘇らされる日まで、障壁がある。”
“イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」”
ギーター自身がほかの神々について言うこと
ギーターはすべての道が等しいとは教えていない。クリシュナは、人々が神々を崇拝するのは、そのような行いからの成功がこの世ですぐに来るからであると言う。彼は、ほかの神々のもとへ行く者たちは欲望によって知識を奪われており、彼らが得るものは続かないと言う。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、彼自身の崇拝者たちは彼のもとへ行く。ほかの神々の帰依者たちも彼を崇拝しているのだが、と彼は言う、不規則に(アヴィディ・プールヴァカム)、つまり規則によらずに崇拝しているのである。彼らは彼を本当には知らず、それで彼らは堕ちる。これらの節を翻訳した十九世紀のヒンドゥー教徒の学者であり裁判官であったテーランは、その堕落を死の世界への帰還と説明している。またすべての道が最後には彼に至るのでもない。ヴェーダの祭式、ヴェーダの供犠によって天を勝ち取る者たちは、その功徳が使い果たされると死の世界へ戻って来る。多くの生の終わりに彼に至る者は、その崇拝がただ一つの存在だけにささげられる知識の人である。その終わり近くで、ギーターはアルジュナに、クリシュナを唯一の避難所とするよう求めている。
“行為の成功を望んで、この世の人々は神々を崇拝する。死すべき者のこの世では、行為から生じる成功はすぐに得られるからである。”
“さまざまな欲望によって知識を奪われた者たちは、さまざまな規則を守り、自らの本性に支配されて、他の神々に近づく。いかなる崇拝者が信をもっていかなる(神の)形を崇拝しようと望もうとも、その形に向けた彼の信を私は確かなものにする。その信を持って、彼はその(形の中の神)をなだめようとし、そこから自分の望む益あるものを得る(が、それは)実は私によって与えられるのである。しかし判断の乏しい彼らが(得る)その果報は滅びるものである。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、私を崇拝する者たちもまた私のもとへ来る。”
“クンティーの子よ、他の神々の信者となって信をもって崇拝する者たちでさえ、私だけを崇拝しているのである(が)、規則に外れて。私はすべての供犠の享受者であり、また主だからである。しかし彼らは私を真に知らない。それゆえ彼らは堕ちるのである。神々に誓いを立てる者は神々のもとへ行き、祖霊に誓いを立てる者は祖霊のもとへ行き、ブータを崇拝する者はブータのもとへ行き、同じく私を崇拝する者たちは私のもとへ来る。”
“すなわち、死すべき者の世界に戻ること。”
“三つの(部門の)知識を知り、ソーマの汁を飲み、罪を洗い清められた者たちは、供犠を捧げ、天への道を私に祈る。そして神々の主の聖なる世界に達して、天の領域で神々の天上の楽しみを享受する。その大いなる天の世界を享受した後、(彼らの)功徳が尽きると、彼らは死すべき者の世界に入る。このように、欲望の対象を望み、三つの(ヴェーダの)定めに頼る者たちは、(果報として)行き来することを得る。私を崇拝し、私を念じて他の誰をも念じず、常に専心している人々に、私は新しい賜物を与え、彼らが得たものを守る。”
“これらの中で、知識を持ち、常に専心し、その崇拝がただ一つの(存在)に(向けられている)者が、最も高く尊ばれる。知識ある人にとって私は何よりも愛しく、彼は私にとって愛しいからである。これらはみな気高い。しかし知識を持つ人は、私自身であると私にみなされる。(彼の)自己を瞑想に捧げた彼は、それより高いものは何もない目標として私に向かったからである。多くの生の終わりに、知識を持つ人は、ヴァースデーヴァがすべてであると(信じて)私に近づく。そのような高い魂の人は非常に見いだしがたい。”
“すべての義務を捨てて、(あなたの)唯一の拠り所として私のもとに来なさい。私はあなたをすべての罪から解き放とう。嘆いてはならない。”
| 問い | ヒンドゥー教の聖典 | クルアーン |
|---|---|---|
| 神は生まれるのか? | クリシュナは、自分は時代ごとに生まれると言う。 | 神は生むことも生まれることもない。 |
| 死後に何が来るのか? | 人が衣服を替えるように、自己は体から体へと移る。 | 一つの生。それから起こされる日まで障壁がある。 |
| すべての道はかれに通じるのか? | 他の神々を崇拝する者はその神々のもとへ行き、その果報は滅びる。 | あらゆる使徒が一つのメッセージをもたらした。ただかれだけを崇拝せよ。 |
| 多くの名? | 聖仙たちは唯一なるものに多くの名を与える。 | 最も美しい名はかれ自身のものである。 |
これらの答えがすべて真実であることはありえず、ですから本当の問いは、どの啓示が真実であるかなのです。
ヒンドゥー教の書と師たちはすべての道を受け入れたのではない
プラーナは聖なる歴史についての古いヒンドゥー教の書である。十八の大プラーナのうち二つは、ジャイナ教徒とブッダの教えを迷妄として提示している。『ヴィシュヌ・プラーナ』は、ヴィシュヌによって遣わされた迷わせる姿が、神々の敵たちをヴェーダから引き離したと言う。彼が教えた者たちはアルハタ、ジャイナ教徒の古い名で呼ばれ、彼らは同じ教えをほかの者たちに広めた。『バーガヴァタ・プラーナ』は、ヴィシュヌは神々の敵を迷わせるためにブッダとして生まれると言う。ヒンドゥー哲学の諸学派も互いを等しい道として扱わなかった。それらの学派についての14世紀の概観は、マドヴァの学派の教えを伝えている。マドヴァは13世紀のヒンドゥー教の師であった。彼の学派は、魂は永遠に神と異なるとした。アドヴァイタ派は、魂と神は一つであると教える学派である。彼らは至高の主と一つになろうとし、ヴィシュヌの至高の卓越性を蜃気楼と呼ぶ、とその概観は言う。彼を怒らせることによって、彼らは盲目の暗黒の地獄に入らなければならない。すべての宗教を真実として受け入れることは近代の教えであって、これらの書の教えではない。
“彼らは、彼が用いた「あなたがたはこの偉大な教えに値する(アルハタ)」という言い回しからアルハタと呼ばれた。すなわち、彼が彼らに受け入れるよう説き伏せた偽りの教えにである。神々の敵たちは、ヴィシュヌによって遣わされた惑わしの者によってこのようにヴェーダの宗教から背くよう仕向けられ、今度は自分たちが同じ異端の教師となって他の者たちを誤らせた。そしてこの者たちがまた自分たちの原理を他の者たちに伝え、それによってそれはさらに広められ、ヴェーダはまもなくダイティヤ族の大部分に捨てられた。”
“次に、カリが始まると、彼は神々の敵を惑わすために、キーカタの間にアンジャナの子ブッダとして生まれるであろう。”
“このように、至高の主と一つになることを渇望して、ヴィシュヌの至高の卓越性は蜃気楼のようなものだという(アドヴァイタ論者たちの)言説は、上等なバナナを得ようとして自分の舌を切り落とすようなものである。この至高のヴィシュヌを怒らせることによって、彼らは盲目の暗黒の地獄(アンダ・タマサ)に入らねばならないという結果になるからである。”
敬意、そして強制なし
イスラームが真実であると信じることは、誰にもそれを誰かに強いる権利を与えない。クルアーンは、宗教に強制はないと言う。不信仰者たちと呼ばれるその短い章は、正確に線を引いている。預言者(ﷺ)は彼らが崇拝するものを崇拝せず、彼らには彼らの道があり、彼には彼の道がある。それはすべての道の承認ではない。それは二つの崇拝を分けているのである。ムスリムは、ほかの人々が祈る神々をののしってはならず、自分たちと戦わないすべての者に親切に公正に接してよい。人々に信仰を強いることと、彼らが崇拝するものをののしることこそが信仰を害へと変えるものであり、クルアーンはその両方を禁じている。イスラームはほかの宗教に不寛容なのかについてのページが残りを示している。
“(この)宗教に強制はない。実に正しさは、誤りから明確に分け隔てられたのだから。それで、ターグートを否定してアッラーを信仰する者は誰でも、決して外れることのない堅固な取っ手を確かに握り締めたのである。アッラーは、よくお聴きになるお方、全知者であられる。”
“(使徒よ、アッラーとその使徒を否定する者たちに、)言ってやれ。「不信仰者たちよ、私は、あなた方の崇拝するものを崇拝せず、あなた方は、私の崇拝するもの(アッラー)の崇拝者ではない。また、私はあなた方が崇拝したものの崇拝者ではなく、あなた方は、私の崇拝するものの崇拝者ではない。あなた方にはあなた方の宗教があり、私には我が宗教がある」。”
“(ムスリムたちよ、)あなた方は、彼らがアッラーを差しおいて祈っているものを、罵ったりしてはならない。そうすれば彼らは度を越して、知識もないままに、アッラーのことを罵ってしまうだろう。同様にわれらは、各共同体にその行いを目映く見せたのだ。その後、彼らの主の御許こそは、彼らの戻る場所なのであり、かれは彼らが行っていたことについて、彼らにお告げになるのである。”
“アッラーは、宗教においてあなた方と戦ってもおらず、あなた方をあなた方の家から追い出してもいない者たちに、あなた方が善行を施し、公正に接することを禁じていらっしゃるわけではない。本当にアッラーは、公正な者たちをお好みになるのだから。”
唯一の神、多くの名、ただかれだけが崇拝される
クルアーンは、神には多くの名があることに同意している。人々はかれにアッラー(﷾)として、あるいは慈悲あまねき方として、どんな名によっても祈ってよい。最も美しい名はかれのものだからである。しかしそれらはかれご自身の名である。それらは、それ自身の像、寺院、物語を持つ別の存在ではない。すべての使徒は一つのメッセージと共に遣わされた。かれのほかに神はない、それでかれを崇拝せよ。クルアーンはまた、警告者のいなかった民は一つもなく、すべての使徒の話を語ったのではないと言う。それはインドの警告者たちを名指していないので、ムスリムには彼らを名指す根拠がない。それがすべての民に求めることは、彼ら自身の警告者たちが求めたことである。唯一者だけを崇拝せよ。クリシュナの帰依者はこのすべてを受け入れ、自分自身の道こそが真の道であると言うかもしれない。それならすべては上の問いにかかってくる。どの啓示が真実か。クルアーンは信頼によって受け取られることを求めていない。それはそれを疑う誰にでも、それに似たただ一つの章を作り出すよう挑んでいる。そしてそれは、神ご自身がそれを守られると言う。クルアーンの挑戦と、聖典をどう試すかについてのページがその証拠を示している。
“(使徒よ、シルクの徒に)言うがよい。「アッラーに祈るがよい。あるいは、慈悲あまねきお方に祈ってもよい。(かれの美名の内の)いずれで呼ぼうと、最も美しい御名はかれにのみ属するのであ(り、かれは唯一なのであ)る。そしてあなたの礼拝を声高にせず、低くもせず、その中間の道を求めよ」。”
“アッラーにこそ、美名は属する。ならば、それによってかれに祈願するのだ。そして、かれの美名において(真理から)逸脱する者たちは、放っておくがいい。彼らはいずれ、自分たちが行っていた(悪)事の応報を受けることになるのだから。”
“また、われらはあなた以前、「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と啓示することなしには、いかなる使徒も遣わさなかった。”
“本当にわれらはあなたを、吉報を伝える者、警告を告げる者として、真理と共に遣わした。そして、警告者が(出現しては、不信仰の結末を警告し、)過ぎ去っていかなかった共同体など、ないのだ。”
“(使徒よ、)われらはあなた以前、確かに使徒たちを遣わした。彼らの中には、われらがあなたに語って聞かせた者もいるし、その中には、われらがあなたに語って聞かせなかった者もいる。また、いかなる使徒も、アッラーのお許しなしには御徴をもたらすことなどなかった。そしてアッラーのご命令が到来すれば、(使徒たちと彼らを噓つき呼ばわりしていた者たちの間は)真実によって裁かれ、(真実を)虚妄とする者たちは、そこで損失するのである。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“本当にわれらは訓戒(クルアーン)を下したのであり、実にわれらがまさしく、その守護者なのである。”
答えられた反論
『リグ・ヴェーダ』1.164.46 — 第1マンダラ、第164讃歌、第46節
“人々は彼をインドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼び、彼は天の気高い翼を持つガルトマーンである。一なるものに、聖仙たちは多くの名を与える。彼らはそれをアグニ、ヤマ、マータリシュヴァンと呼ぶ。”
引用の目的
エーカム・サット・ヴィプラー・バフダー・ヴァダンティ。真理は一つであり、賢者たちはそれを多くの名で呼ぶ。それでアッラー、クリシュナ、シヴァ、そして聖書の神は異なる名の下の唯一の神であり、すべての宗教はかれへの道である。
応答
その節はそれ自身の一覧を与えている。インドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニ、天の、気高い翼のガルトマン、ヤマ、マータリシュヴァンである。これらはヴェーダの讃歌の神々であり、一なるものの名と呼ばれている。その節は世界の諸宗教について何も言っていない。イスラームは、神には多くの名があり、そのどれによってもかれを呼んでよいことに同意している。しかし神の名は、それ自身の讃歌、像、崇拝を持つ第二の存在ではない。クルアーンは、人々が考え出したただの名にすぎない神々を退けている。問いは神が何と呼ばれるかではなく、かれだけが崇拝されるかどうかである。
結論 — その節はヴェーダの神々を一なるものの名としている。それはほかの宗教について何も言っておらず、神を正しく名づけることは、ほかのものを崇拝することを正しくはしない。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、歓迎への答辞、万国宗教会議、シカゴ、1893年9月11日
“これまでに開かれた最も荘厳な集会の一つである今回の会議は、それ自体が、ギーターで説かれた驚くべき教えの正しさの証明であり、世界への宣言である。「誰であれ私のもとに来る者は、私がどのような形を通して彼に届こうとも、みな最後には常に私に至る道を通って奮闘しているのである」。”
引用の目的
クリシュナは、どんな姿を通してであれ、自分のもとに来る者は誰でも届けられ、すべての道は最後には自分に至ると約束している。ギーターは道に序列をつけているかもしれないが、より遅い道もやはり到着する。神々を崇拝する者たちはこの世に戻って進み続け、多くの生の終わりに彼らもまた彼に至る。それですべての誠実な崇拝は同じ神に到着する。
応答
ヒンドゥー教徒の学者であり裁判官であったテーランは、その節を「人々が私に近づくそのやり方で、私は彼らに仕える」と訳している。彼は説明する。「私は各々の崇拝者に彼にふさわしいものを与える」。「人々は私の道に従う」について、彼は、下の9.23が言うように、誰に向けられたものであれ、すべての崇拝はクリシュナの崇拝であると付け加えている。しかしその箇所全体の要点は、と彼は言う、神は偏っていないということである。各々は自分の道にふさわしいものを受ける。まさに次の節は、人々が神々を崇拝するのは、そのような行いからの成功がこの世ですぐに来るからであると言う。第7章でクリシュナは、その果報は滅びるものであると言う。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、彼の崇拝者たちは彼のもとへ行く。またすべての道が「最後には」彼に至るのでもない。ヴェーダの祭式によって天を勝ち取る者たちは、その功徳が費やされると死すべき者の世界に戻る。彼らは「行き来すること」を得る。「多くの生の終わりに」クリシュナのもとに来る者は、その崇拝がただ一つの存在だけに向けられる知識の人である。それで本当は彼のものである崇拝でさえ、その崇拝者を彼のもとに連れて来はしない。クルアーンは唯一者だけの崇拝を求め、それを選ぶための、多くではなく一度の生を与えている。
結論 — ギーターはすべての崇拝者に、その道にふさわしい報いを約束し、その道は異なる所で終わると言う。最後にクリシュナに至る者たちは、ただ一つの存在だけを崇拝することによって彼に至るのである。
『バガヴァッド・ギーター』9:23-25 — 第9章第23-25節
“クンティーの子よ、他の神々の信者となって信をもって崇拝する者たちでさえ、私だけを崇拝しているのである(が)、規則に外れて。私はすべての供犠の享受者であり、また主だからである。しかし彼らは私を真に知らない。それゆえ彼らは堕ちるのである。神々に誓いを立てる者は神々のもとへ行き、祖霊に誓いを立てる者は祖霊のもとへ行き、ブータを崇拝する者はブータのもとへ行き、同じく私を崇拝する者たちは私のもとへ来る。”
引用の目的
クリシュナは、信仰をもって崇拝するほかの神々の帰依者たちは本当は彼を崇拝しているのだと言う。それでどの神の崇拝も至高者に届く。
応答
同じ文は、彼らは彼を不規則に(アヴィディ・プールヴァカム、規則によらずに)崇拝していると言う。テーランはその理由を説明している。形の上では彼らはほかの神々を崇拝しているのである。次の節は、彼らは彼を本当には知らず、「それゆえ彼らは堕ちるのである」と言い、テーランはそれを死すべき者の世界への帰還と説明している。それから、神々に誓いを立てる者たちは神々のもとへ行き、クリシュナを崇拝する者たちは彼のもとへ行く。それでギーターは、そのような崇拝はクリシュナの崇拝であると認めながら、同じ息で、それは不規則であり、より低い所で終わると言っている。もし人々が神々から求める良いものが、7.22が言うように本当はクリシュナから来るのなら、平明な結論は、与える方を直接崇拝することである。クルアーンはその結論を引き出している。ある者たちはほかの守護者を取り、ただアッラー(﷾)により近づけてもらうためだけに彼らに仕えると言う。クルアーンは、誠実な献身はアッラー(﷾)だけにふさわしいと答えている。
結論 — 9.23-24は、ほかの神々の崇拝を至高者の不規則な崇拝と呼び、その崇拝者たちは堕ちると言う。それは道の序列であって、それらの平等ではない。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、歓迎への答辞、万国宗教会議、シカゴ、1893年9月11日
“われわれは普遍的な寛容を信じるだけでなく、すべての宗教を真実として受け入れる。”
引用の目的
ヒンドゥー教徒はほかの宗教をただ容認するのではない。彼らはそれらすべてを真実として受け入れる。ヒンドゥー教は一度もほかの信仰を偽りと呼んだことがない。
応答
これらは1893年のヴィヴェーカーナンダの言葉であって、より古い書の教えではない。『ヴィシュヌ・プラーナ』は、ヴィシュヌによって遣わされた迷わせる姿が神々の敵たちをヴェーダから引き離したと言う。彼が教えた者たちは、ジャイナ教徒の古い名であるアルハタと呼ばれた。『バーガヴァタ』は、ヴィシュヌは神々の敵を迷わせるためにブッダとして生まれると言う。ヒンドゥー教徒は確かにブッダをヴィシュヌの一つの姿とした。しかし迷わせるために生まれたブッダは、その教えが真実として受け入れられる師ではない。マドヴァの学派は、同じヒンドゥー教徒であるアドヴァイタ派は盲目の暗黒の地獄に入らなければならないと教えた。これらの書と師たちは、ほかのヒンドゥー教の学派さえも含め、ほかの道を迷妄あるいは地獄への道と呼んだのである。
結論 — すべての宗教を真実として受け入れることは近代の教えである。『ヴィシュヌ・プラーナ』と『バーガヴァタ・プラーナ』、そして古典的な諸学派はそれを持っていなかった。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、歓迎への答辞、万国宗教会議、シカゴ、1893年9月11日
“兄弟たちよ、私が幼い頃から唱えてきたことを覚えており、毎日何百万もの人々が唱えている讃歌から数行を引用しよう。「異なる所に源を持つ異なる流れがみな海でその水を混ぜ合わせるように、主よ、人々が異なる性向によってたどる異なる道は、曲がっていようとまっすぐであろうと、さまざまに見えても、みなあなたへと至る」。”
引用の目的
すべての川が海に至るように、曲がっていても真っすぐでも、すべての道は唯一の神に至る。何百万ものヒンドゥー教徒が毎日この讃歌を繰り返している。
応答
ヴィヴェーカーナンダが引用した行は、シヴァへの讃歌『シヴァ・マヒムナ・ストートラ』の第7節の後半と合致している。彼が引用しなかった前半は、それが意味する道を名指している。三つのヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガ、パーシュパタの教え、そしてヴァイシュナヴァである。それらはインドの諸学派であり、その節はシヴァをそれらの唯一の目的としている。それは献身の讃歌であって、シュルティ(ヒンドゥー教徒が啓示されたとする書)ではなく、インドの外の諸宗教について何も言っていない。ギーターは、すべての川が一つの海に至るという描写を共有していない。神々に誓いを立てる者たちは神々のもとへ行き、祖霊に誓いを立てる者たちは祖霊のもとへ行く。
結論 — その讃歌の川は、シヴァへと流れるインドの諸学派であって、唯一の神へと流れる世界の諸宗教ではない。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダによるラーマクリシュナの記述、F・マックス・ミュラー『ラーマクリシュナ:その生涯と言葉』所収、51ページ
“晩年、彼はキリスト教の教えを実践することを考えていた。彼は幻の中でイエスを見、三日のあいだイエスとその愛のことしか考えられず、話せなかった。彼のすべての幻にはこの特徴があった。彼は常にそれを自分の外に見たが、それが消えると、それは自分の中に入ったように思われたのである。これはラーマ、シヴァ、カーリー、クリシュナ、イエス、その他あらゆる神、女神、預言者についてそうであった。これらすべての幻と、さまざまな宗教の実現の後、彼は、すべての宗教は真実であるが、そのそれぞれはアカンダ・サッチダーナンダ、すなわち分かたれず永遠の存在、知、至福の一つの面だけを考慮しているという結論に達した。これらの異なる宗教のそれぞれが、彼にはその一なるものに到達する道に思われた。”
引用の目的
ヴィヴェーカーナンダの師ラーマクリシュナは、ただそれを論じただけではない。彼は自らイスラームとキリスト教を実践し、それぞれによって神に至り、すべての宗教は真実であり、各々が同じ一なるものへの道であると結論した。
応答
彼自身の教団によって出版された伝記は、イスラームについてそれがどのように起こったかを語っている。それは、彼のアドヴァイタの悟りがすでに彼に、すべての形の宗教を完成への道として受け入れさせていたと言う。イスラームもまた神を悟る手段であると信じて、彼はイスラームへの改宗者から入門を受けた。彼はアッラー(﷾)の御名を繰り返し、ムスリムのように装い、礼拝を唱えた。三日後、とその書は言う、彼は光り輝く、ひげのある姿を見た。それから彼の心は属性のあるブラフマンを通り過ぎ、最後に属性のないブラフマンの中に吸収された。キリスト教について、ヴィヴェーカーナンダの記述は、ラーマ、シヴァ、カーリー、クリシュナの幻のような、イエスの幻について語っている。それでその実践はアドヴァイタに始まり、アドヴァイタの目的に終わった。クルアーンの目的は違う。天と地にあるすべての存在は僕として神のもとに来るのであり、僕は自分が仕える方の中に吸収されはしない。アドヴァイタの目的に終わる体験は、アドヴァイタがイスラームをどう見るかを示すのであって、イスラームが真実かどうかを示すのではない。それは、神がその使徒を通して言われたこと、誰でも読んで量ることのできるものの上に立っている。
結論 — ラーマクリシュナはアドヴァイタをイスラームに持ち込み、そこにアドヴァイタを見いだした。彼の体験はアドヴァイタがイスラームをどう見るかを示している。クルアーンの主張は、誰でも読んで試すことのできる本文の上に立っている。
クルアーン 3:85 — イムラーン家章、第85節
“誰であれ、イスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。また来世において、その者は損失者の類となるのである。”
引用の目的
イスラームは、神はイスラーム以外の宗教を受け入れられないと言う。ヒンドゥー教はすべての道を受け入れるので、ヒンドゥー教が寛容な信仰であり、イスラームが排他的な信仰である。唯一の真理を持つという主張こそが、信者たちを互いに敵対させるものである。ヴィヴェーカーナンダは宗教会議に、宗派心、偏狭、狂信が地を人間の血で浸してきたと警告した。
応答
自分の信仰が真実であると信じることは、ほかの者たちを虐げることと同じではない。信仰を害へと変えるのは、人々に信仰を強いることと、彼らが崇拝するものをののしることであり、クルアーンはその両方を禁じている。宗教に強制はなく、ムスリムはほかの人々の神々をののしってはならない。クルアーンはまた、ムスリムと戦わないすべての者への親切と公正を許している。また誰も真理の主張を避けることはできない。すべての宗教は真実であると言うことは、ムスリム、キリスト教徒、そしてマドヴァの信奉者に、各々は自分自身の信仰について誤っていると告げることである。何かを教えるすべての信仰は、何かを排除する。ギーターはほかの神々を崇拝する者たちは堕ちると言い、マドヴァの学派はアドヴァイタ派は盲目の暗黒の地獄に入らなければならないと教えた。本当の違いは、誰が締め出され、なぜかである。ヴェーダーンタの三つの中核的な文献の一つである『ブラフマ・スートラ』は、シュードラがヴェーダを聞いたり学んだりすることを禁じる法典の禁令を引いている。シャンカラは、第四の階級に生まれたシュードラは、それゆえヴェーダの中で教えられるブラフマンの知識の資格がないと説明している。ギーターはシュードラにも献身を開いているが、ヴェーダは彼らに閉ざされたままであった。クルアーンでは、神の目に最も尊ばれる者は、その民族や部族が何であれ、最も正しい者である。それはムスリムに、自分たちと戦っている偶像崇拝者でさえ、もし保護を求めるなら、アッラー(﷾)の言葉を聞かせよと告げている。剣の節についてのページが、その前に来る節を説明している。
結論 — イスラームは偽りの崇拝を退けるが、誰も生まれによって締め出さない。誰でもクルアーンを聞き、その信仰に入ることができる。古典的なヒンドゥー法は、自分自身の聖典を生まれによって人々に閉ざしていた。
『バガヴァッド・ギーター』4:11 — 第4章第11節
“人々が私に近づくそのやり方で、私は彼らに仕える。プリターの子よ、あらゆる仕方で、人々は私の道に従う。”
引用の目的
神は各人に、その人が近づくその仕方で出会われる。公正な神は、教えられたとおりに崇拝する誠実なヒンドゥー教徒を、ただ彼がインドに生まれたというだけで断罪されないであろう。
応答
クルアーンは、決して届かなかったメッセージのゆえに誰も断罪されないことに同意している。神は使徒を遣わされるまでは、どの民も罰せられず、各々の民はその使徒が来るとき公正に裁かれる。一つの魂も少しも不正を受けない。各人の裁きは神に属しており、ムスリムはそれを宣告しない。しかし誠実さは信仰を真実にはしない。間違った道を行く誠実な旅人が家に着かないのと同じである。使徒たちが来た以上、とクルアーンは言う、人々にはアッラー(﷾)に対する言い訳がない。それでメッセージを聞いた者は誰でも、それをわきに置くのではなく、それを量るよう求められている。イスラームについて一度も聞いたことのない人々についてのページが残りを示している。
結論 — 神の正義は、メッセージが決して届かなかった者たちを覆っている。それはすべての道を真実にはしない。
クルアーン 2:62 — 雌牛章、第62節
“本当に、信仰する者たち、ユダヤ教徒である者たち、キリスト教徒たち、サービア教徒たちで、アッラーと最後の日を信じて正しい行いを行う者、彼らには、その主の御許に褒美がある。そして彼らには怖れもなければ、悲しむこともない。”
引用の目的
クルアーンは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒(それが名指すもう一つの集団)は報いを受けると言う。彼らは神と終末の日を信じ、善を行わなければならない。それでクルアーン自身がほかの宗教を受け入れている。
応答
その節はユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒を名指しているのであって、すべての宗教ではなく、それは条件を定めている。神と終末の日への信仰、そして善い行いである。イブン・カスィールは、それは、次の使徒が来る前に、自分の時代の使徒に従った者たちを褒めているのだと説明している。クルアーンは、アッラー(﷾)への服従以外の宗教を求める者からは、どんな宗教も受け入れられないと付け加えている。それはまた、神はかれに同位者を配することを赦されないと言う。ユダヤ教徒とキリスト教徒は救われるのかについてのページがこれを十分に示している。
結論 — 2:62は、自分自身の預言者に従った信仰者たちを褒めている。それはほかの神々の崇拝を受け入れられるものにはしない。
イブン・アラビー『欲望の解釈者』第11頌歌、第13-15節 — ニコルソンの序文、iiiページの引用による
“次の詩行はしばしば引用される。それは、すべての道は唯一の神に至るというスーフィーの教えを表している。「わが心はあらゆる形を受け入れるものとなった。それはガゼルの牧場であり、キリスト教の修道士の僧院であり、偶像の神殿であり、巡礼者のカアバであり、トーラーの板であり、コーランの書である。私は愛の宗教に従う。愛のラクダがどの道を取ろうとも、それが私の宗教であり私の信仰である」。”
引用の目的
あなた方自身の最も偉大なスーフィー(ムスリムの神秘家)イブン・アラビーは、自分の心はあらゆる形を取ることができると書いた。それは偶像のための寺院、巡礼者のカアバ、トーラー、そしてクルアーンであった。彼は愛の宗教に従っていたからである。彼の翻訳者は、彼の教えによれば神はどんな対象の中にも崇拝されてよく、どの宗教も真理の一部より多くを持っていないと言う。ムスリムの神秘家たちは、すべての道が唯一の神に至ることを知っていたのである。
応答
彼の翻訳者ニコルソンは、確かにこれらの行を、すべての道は唯一の神に至るというスーフィーの教えとして読んだ。しかしイブン・アラビーはまた、それらが何を意味するかを示すために、自分自身の詩への注釈を書いた。それは愛の宗教を、「私に従え、そうすれば神はあなたがたを愛されよう」という節によって説明している。その節では、預言者(ﷺ)は人々を自分に従うよう呼びかけよと告げられている。神への愛の上に築かれた宗教より崇高な宗教はない、とイブン・アラビーは付け加えている。彼はこれをムスリムに特有の特権と呼んでいる。完全な愛は、ほかのどの預言者にもましてムハンマド(ﷺ)に属するからである。それでこの見方のために引用される詩人は、自分の愛の宗教をイスラームの内側に置いていたのである。ニコルソンは確かにより広い教えを伝えている。すべてのものは神を現しているので、かれは星や子牛の中にも崇拝されてよい。そこではクルアーンが決め、どれほど賞賛されていようと、どのムスリムの著述家もそれより上位にはない。それは、すべての使徒は一つのメッセージと共に遣わされたと言う。かれのほかに神はない、それでかれを崇拝せよ。それは太陽と月にひれ伏すことを禁じている。もしあなた方が仕えたいのがかれであるなら、それらを創られたアッラー(﷾)にひれ伏せ。
結論 — イブン・アラビーは、自分の愛の宗教を、預言者(ﷺ)に従えというクルアーンの命令によって説明した。どの著述家がそれ以上に進む所でも、クルアーンが基準であり、それはアッラー(﷾)以外の何ものを崇拝することも禁じている。
クルアーン 5:48 — 食卓章、第48節
“また(使徒よ)、われらはあなたに、それ以前の啓典(の正しさ)を確証し、かつ統制するものとして、真実の啓典(クルアーン)を下した。ならばアッラーがお下しになったものによって、彼らの間を裁くのだ。そして、あなたに到来した真理をよそに、彼らの欲望に従ってはならない。われらはあなた方の各々(の共同体)に、法と(明白な)道筋を授けた。そして、もしアッラーがお望みになったのであれば、あなた方を一つの(法に基づいた)共同体とされただろう。しかし(そうされなかったのは)、あなた方に授けたものにおいて、あなた方をお試しになるため。ならば、善行を競い合うがよい。アッラーにこそ(復活の日)、あなた方全員の帰り所はあり、そしてかれは、あなた方が意見を異にしていたことに関して、あなた方にお告げになるのだから。”
引用の目的
クルアーンは、神は各々の民にそれ自身の法と道を与えられ、もし望まれたなら彼らを一つの民とされたであろうと言う。それで神ご自身が多くの宗教を望まれたのである。
応答
その節は、ムーサーに与えられたトーラーと、イーサーに与えられたインジール(イエスが宣べ伝えた福音)についての箇所に続いている。それは、神がその使徒たちを通して与えられ、民ごとに異なった法について語っている。彼らが教えた信仰は異ならなかった。クルアーンは、同じ宗教がヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーに命じられたと言う。すべての使徒は、かれのほかに神はない、それでかれを崇拝せよと告げられた。同じ節は預言者(ﷺ)に、アッラー(﷾)が啓示されたものによって裁き、彼らの欲望に従うなと告げている。
結論 — 神は預言者たちに異なる法を与えられたのであって、決して異なる神々を与えられたのではない。その節は、かれと並べてほかのものを崇拝する宗教についてのものではない。
クルアーン 29:46 — 蜘蛛章、第46節
“(信仰者たちよ、)最善の形でなくして、啓典の民と議論してはならない。但し彼らの内でも、不正を働いた者たちは別である。そして、言うのだ「私たちは自分たちに下されたものを信じる。また、私たちの神と、あなた方の神は一つであり、私たちはかれ(アッラー)に服従する者(ムスリム)なのである」。”
引用の目的
クルアーンはムスリムに、ユダヤ教徒とキリスト教徒に「私たちの神と、あなた方の神は一つであり」と言うよう告げている。それでクルアーン自身が、異なる宗教の人々が同じ神を崇拝していることを認めている。
応答
クルアーンは確かにユダヤ教徒とキリスト教徒に、私たちの神と彼らの神は一つであると告げている。ムスリムとキリスト教徒は同じ神を崇拝しているのかについてのページがその理由を説明している。しかし同じ節はこう終わっている。「私たちはかれ(アッラー)に服従する者(ムスリム)なのである」。ほかの所でクルアーンは、彼らにアッラー(﷾)以外の何ものも崇拝せず、かれに何の同位者も配さないよう呼びかけている。マッカの偶像崇拝者たちもまた、アッラー(﷾)が天と地を創造されたと言っていた。それでもクルアーンは、それならなぜ彼らは真理から背き去らされるのかと問うている。創造主が誰であるかを知ることと、かれだけを崇拝することは、二つの異なることである。二つ目こそ、すべての使徒が求めたものである。
結論 — 多くの人々は神について語るとき唯一の創造主を意味している。クルアーンはかれだけが崇拝されるよう求めており、そこで諸宗教は分かれるのである。
さまざまな視点
多くの道、一つの目的(ヴィヴェーカーナンダ)
真理は一つであり、賢者たちはそれを多くの名で呼ぶ。神はすべての崇拝者に、彼がかれに近づくその仕方で答えられる。それですべての誠実な道は、それがどんな神の姿を崇拝するにせよ、川が海に至るように、最後には一なる至高者に至る。それゆえヒンドゥー教徒はすべての宗教を真実として受け入れる。
リグ・ヴェーダは、賢者たちは一なるものに多くの名を与えると言う。
反論
その節はそれ自身の名の一覧を与えている。インドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニ、ガルトマン、ヤマ、マータリシュヴァンである。これらはヴェーダの讃歌の神々であり、各々がそれ自身の献げ物を持っている。その節は世界の諸宗教について何も言っていない。クルアーンは最も美しい名を神に与えている。それはただの名にすぎない神々を退けている(53:23)。そしてそれは、かれだけが崇拝されるよう求めている。
ギーターでクリシュナは、自分は人々が自分のもとに来るその仕方で彼らに仕えると言う。そしてあらゆる仕方で、人々は彼の道に従う。
反論
テーランはこれを「私は各々の崇拝者に彼にふさわしいものを与える」と説明している。彼は、その箇所は神が偏っていないことを示していると言う。それはすべての道が等しいとは言っていない。すべての崇拝はクリシュナの崇拝であるという彼の読み方でさえ、9:23の言葉、不規則に、を伴っている。次の節は、人々はすぐの成功のために神々を崇拝すると言う。そして第7章は、彼らが得るものは続かないと言う。
クリシュナは、信仰をもって崇拝するほかの神々の帰依者たちは彼を崇拝しているのだと言う。テーランは、誰に向けられたものであれ、すべての崇拝はクリシュナの崇拝であると説明している。
反論
同じ箇所は、彼らは彼を不規則に崇拝しており、彼らは彼を本当には知らず、それゆえ堕ちると言う。それは、神々に誓いを立てる者たちは神々のもとへ行くと付け加えている。それは道に序列をつけているのであって、それらを等しくしているのではない。
ヴィヴェーカーナンダは1893年に万国宗教会議に、ヒンドゥー教徒はすべての宗教を真実として受け入れると告げた。
反論
これらは1893年のヴィヴェーカーナンダの言葉であって、より古い書の教えではない。『ヴィシュヌ・プラーナ』と『バーガヴァタ・プラーナ』は、ジャイナ教徒とブッダの教えを迷妄と呼んでいる。マドヴァの学派は、同じヒンドゥー教徒であるアドヴァイタ派は盲目の暗黒の地獄に入らなければならないと教えた。
川がみな海に至るように、すべての誠実な道は最後には唯一の神に至る。
反論
その讃歌は自分が意味する道を名指している。シヴァを唯一の目的とするインドの諸学派であって、世界の諸宗教ではない。ギーターでは、神々に誓いを立てる者たちは神々のもとへ行く。間違った道を行く誠実な旅人も、なお家には着かない。
ヴィヴェーカーナンダの師ラーマクリシュナは、しばらくの間イスラームを実践し、幻の中でイエスを見た、と彼の伝記作者たちは言う。彼は、すべての宗教は真実であり、各々が一なるものへの道であると結論した。
反論
彼の伝記は、アドヴァイタの彼の体験がすでに彼にあらゆる形の宗教を受け入れさせていたと言う。そして彼の実践はアドヴァイタの目的に終わった。クルアーンは、すべての存在はかれの中に溶け込むのではなく、僕として神のもとに来ると言う。幻はアドヴァイタがイスラームをどう見るかを示している。クルアーンの主張は、誰でも読んで試すことのできる本文の上に立っている(2:23)。
マドヴァの学派(ドヴァイタ)
ヴィシュヌだけが至高の主である。魂は彼の僕であり、永遠に彼から分かれている。道は等しくない。アドヴァイタ派はヴィシュヌの至高の偉大さを蜃気楼と呼び、それは彼を怒らせる。14世紀のヒンドゥー教の諸学派の概観は、そうする者たちは盲目の暗黒の地獄へ行かなければならないというこの学派の教えを記録している。
マドヴァの学派は、ヴィシュヌの至高の偉大さを蜃気楼と呼ぶアドヴァイタ派は彼を怒らせると教えた。それは、彼らは盲目の暗黒の地獄へ行かなければならないと教えた。
反論
これはこのページの要点と一致している。ヒンドゥー教の諸学派はすべての道を等しいとはしなかった。しかしマドヴァの学派はラーマとクリシュナを主ご自身の姿と数えている。そしてギーターでクリシュナは自分は時代ごとに生まれると言う。クルアーンは、神は生まず、生まれないと言う。そしてすべての使徒は人々をかれだけを崇拝するよう呼びかけた。
シク教徒:ラームでもアッラーでも、名は問題ではない
グル・アルジャンは、ある者は神をラームと呼び、ある者はクダーと呼ぶと書いている。ある者はかれにゴーサインとして仕え、ほかの者はアッラーとして仕える。シク教徒はこれを、すべての誠実な名は唯一の主に至ると教えているものとして読む。
グル・アルジャンは、人々はかれをラーム、クダー、ゴーサイン、あるいはアッラーと呼ぶと伝えている(アング885)。それで名は問題ではない。
反論
確かに、いくつかの名は共有されている。クルアーン自身、アッラー(﷾)あるいはラフマーンに祈れと言っている。しかしこれらはかれご自身の名であり、かれは私たちにそれらによってかれに祈るよう告げておられる。名を共有することは、二つの教えを同じにはしない。そしてすべての使徒は一つのメッセージをもたらした。アッラー(﷾)だけを崇拝せよ。
仏教徒:ただ一つの道だけが苦しみを終わらせる
今日の多くの仏教徒はすべての宗教について好意的に語る。しかし生涯の終わり近くに、ブッダ自身が遊行の求道者スバッダに、八正道は自分の教えの中にだけ見いだされると告げた。
八正道が見いだされる教えの中にだけ、真の沙門がいる。ほかの集団には一人もいない。
反論
それならブッダは一つの点でイスラームと一致している。宗教はすべて同じ所への道ではない。問いは、どれが私たちを造られた一なる方から来ているかである。神が遣わされたすべての使徒は一つのメッセージをもたらした。かれだけを崇拝せよ。そしてクルアーンは信じられる前に試されることを求めている。
イスラームの視点
神は唯一であり、多くの名を持っておられる。すべての使徒は、かれだけが崇拝されるべきであると教え、かれはすべての民に警告者を遣わされた。そのメッセージと、また互いに矛盾する宗教が、すべてかれへの道であることはありえない。イスラームは誰にも信仰を強いず、ほかの人々の神々を侮辱することを禁じている。それは各人の裁きを、使徒がその人に届く前には誰も罰せられない神に委ねている。
クルアーンは、最も美しい名は神のものであると言う。かれはそのどれによっても祈られてよい。
すべての使徒は一つのメッセージと共に遣わされた。アッラー(﷾)だけを崇拝せよ、かれのほかに神はないのだから。
クルアーンは、警告者のいなかった民は一つもなかったと言う。
クルアーンは、人々が考え出したただの名にすぎず、アッラー(﷾)が何の権威も下されなかった神々を退けている。
宗教は、神が人として生まれるかどうか、私たちは一度生きるのか何度も生きるのか、そして神だけが崇拝されてよいかどうかについて一致していない。それらがすべて正しいことはありえない。
クルアーンは、宗教における強制と、ほかの人々が祈る神々をののしることを禁じている。それはムスリムと戦わないすべての者への親切と公正を許している。
神は、使徒が人々に届くまでは誰も罰せられず、すべての民を公正に裁かれる。
クルアーンは信頼によって受け取られることを求めていない。それはそれを疑う者たちに、それに似た章を作り出すよう挑んでいる。そしてそれは、神がそれを守られると言う。