短い答え
はい。クルアーンは、アッラー(﷾)の慈悲はすべてのものに及ぶと述べています。その114の章のうち一つを除くすべてが、かれを慈悲あまねく慈愛深きお方と呼ぶことで始まります。クルアーンは、かれが愛される人々を名指ししています。善を行う者、公正な者、忍耐する者、かれを信頼する者、悔い改めてかれに立ち返る者です。預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)は母が子に対する以上にしもべたちに慈悲深いと言いました。また、アッラー(﷾)はかれの書の中に、かれの慈悲はかれの怒りに勝ると書かれたとも言いました。新約聖書も裁きと火について語っています。ですからそれもまた愛と正義を結びつけています。イスラームの答えは、慈悲と正義が共にあるということです。そしてどちらがより大きいかをはっきり言っています。慈悲です。
詳しい説明
非難:怒りの神
キリスト教徒はときにムスリムに、あなたたちの神は怒りの神で、私たちの神は愛の神だと言います。その背後にある節は、新約聖書の手紙のヨハネの第一の手紙4:8です。それは、神は愛であると言っています。
“愛さない者は、神を知らない。神は愛である。”
すべてのものに及ぶ慈悲
クルアーンは、アッラー(﷾)の慈悲はすべてのものに及ぶと述べています。かれはご自身に慈悲を課されたと述べています。クルアーンの最初の節は、かれを慈悲あまねく慈愛深きお方と呼んでいます。その節は、一つを除くすべての章の冒頭で繰り返されています。クルアーンは、かれの慈悲に絶望することを禁じています。かれは立ち返る者のすべての罪を赦されるからです。預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)が創造を終えられたとき、かれの慈悲はかれの怒りに勝ると書かれたと付け加えました。また、誰も自分の行いだけでは楽園に入らず、自分でさえそうであり、ただアッラー(﷾)の慈悲によってのみ入ると教えました。ですから善い行いは楽園への道ですが、入ることはアッラー(﷾)の贈り物であって、決して行いが支払う代価ではありません。
“また、私たちにこの現世において、善きものをお定め下さい。そして来世においても。本当に私たちは、あなたに悔悟したのですから」。かれ(アッラー)は仰せられた。「わが懲罰、われはそれで、われが望む者を襲うのだ。そしてわが慈悲は、あらゆるものに広く及んでいる。われは(われを)畏れ、浄財を払う者たち、われらの御徴を信じるその者たちに、それ(慈悲)を定めよう。”
“(使徒よ、)言ってやるのだ。「諸天と大地にあるものは、誰に属しているのか?」言うのだ。「アッラーに属する」。アッラーはご自身に、慈悲を定められた。かれは疑惑の余地のない復活の日に、必ずやあなた方を召集される。自らを(シルクで)損ねた者たち、彼らは信じないのである。”
“慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は言った。アッラーは創造を終えられたとき、玉座の上のご自分のもとにある書に、わが慈悲はわが怒りに勝る、とお書きになった。サヒーフ・ムスリム2751にも同じ言葉がある。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、誰の行いもその人を救いはしないと言った。あなたもそうなのかと問われると、彼は、私もそうだ、アッラーが私を慈悲で包んでくださらない限りは、と言った。そして、善い行いを正しく、誠実に、ほどほどに行うよう彼らに言った。
アッラー(﷾)が愛される者
クルアーンは、アッラー(﷾)が愛される人々を名指ししています。善を行う者、公正に裁く者、そして敬虔な者です。また、忍耐強い者、かれを信頼する者、悔い改めてかれに立ち返り、身を清く保つ者です。かれの名の一つはアル=ワドゥード、愛するお方です。預言者(ﷺ)に従う者たちには、かれの愛と赦しが約束されています。
“また、アッラーの道において(財を)費やせ。そして、自分の手で(自らを)破滅へと追いやってはならない。善を尽くすのだ。本当にアッラーは、善を尽くす者たちをお好みになるのだから。”
“(彼らユダヤ教徒は)嘘に耳を傾け、禁じられた物を貪る者たち。彼らが(裁決を求めて)あなたのもとに来たら、彼らの間を裁くか、あるいは彼らから背を向けよ。そして、あなたが彼らに背を向けるにしても、彼らは少しもあなたを害せないだろう。また、裁決するのであれば、公正さで彼らの間を裁け。本当にアッラーは、公正な者たちをお好みになるのだから。”
“但しシルクの徒の内、あなた方が協約を結んだ者たちで、それからあなた方(との協約)に対していかなる不備もなく、あなた方に(敵)対していかなる者も援助しなかった者たちは、別である。ならば彼らに対しては、彼らとの協約を、その期限まで全うせよ。本当にアッラーは、身を慎む者たちをお好みになるのだから。”
“どれだけ多くの預言者と共に、数多くの使徒が戦ったことであろう。そして彼らは、アッラーの道において自分たちに降りかかったものゆえに衰弱したり、弱体化したり、(敵に対して)屈したりもしなかった。アッラーは、忍耐ある者たちをお好みになる。”
“(預言者よ、)あなたが彼ら(教友たち)に優しかったのは、アッラーのご慈悲によるものであった。あなたがもし粗野で硬い心の持ち主だったなら、彼らはあなたの周囲から離れ去っただろう。ならば(預言者よ、)彼らを大目に見、彼らのために(アッラーの)お赦しを乞い、また(必要な)諸事においては彼らと相談せよ。そして決意したならば、(その結果は)アッラーに全てを委ねるのだ。本当にアッラーは、全てを(かれに)委ねる者たちをお好みになるのだから。”
“また彼らは月経について、あなたに尋ねる。(預言者よ、)言うがいい。「それは害である。ならば、月経中の女性(との性交)を避けよ。そして彼女らが清浄な状態になるまで、(性交のために)近づいてはならない。そして彼女らが清浄な状態になったら、アッラーがあなた方に命じられた所から、彼女らと交わるのだ」。本当にアッラーは、よく悔悟する者たちと、よく自ら(の心身)を清める者をお好みになるのだから。”
“そしてかれは、赦し深いお方、寵愛深いお方、”
“(使徒よ、)言うのだ。「もし、あなた方がアッラーのことを(真に)愛しているのなら、私に従うのだ。(そうすれば)アッラーもあなた方を愛して下さり、あなた方のために、その罪をお赦し下さる。アッラーは赦し深いお方、慈愛深いお方なのだから」。”
九十九の美名
クルアーンは、最も美しい名はアッラー(﷾)に属すると述べ、信仰者にそれによってかれに祈願するよう告げています。預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)には九十九の名があり、それを知る者は楽園に入ると言いました。ムスリムの学者たちは、その名の中に二つの系統を見ています。あるものはかれの美と慈悲(ジャマール)を示します。慈悲あまねきお方、慈愛深きお方、平安の源です。他のものはかれの力と威厳(ジャラール)を示します。王者、強制するお方、至高のお方です。クルアーンの第59章スーラ・ハシュルの終わりの三つの節は、両方の系統を並べて置いています。今日、多くのキリスト教徒は主に一つの言葉、愛を通して神について語ります。イスラームはかれのすべての名を共に通してかれを知り、クルアーンはその中で慈悲を最初に置いています。
“アッラーにこそ、美名は属する。ならば、それによってかれに祈願するのだ。そして、かれの美名において(真理から)逸脱する者たちは、放っておくがいい。彼らはいずれ、自分たちが行っていた(悪)事の応報を受けることになるのだから。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は言った。アッラーには九十九、すなわち百に一つ足りない名があり、それを知る者は楽園に入る。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は言った。アッラーには九十九、すなわち百に一つ足りない名があり、それを覚える者は楽園に入る。アッラーは唯一であり、奇数を好まれる。
“かれはアッラー。その外に、(真に)崇拝すべきいかなるものもないお方で、不可視の世界と現象界をご存知のお方。かれは慈悲あまねきお方、慈愛深いお方であられる。かれはアッラー。その外に、(真に)崇拝すべきいかなるものもないお方。(真の)王、聖なるお方、平安なお方、保障されるお方、統制させられるお方、偉力ならびないお方、制圧されるお方、威風堂々たるお方。彼らがシルクを犯しているものから(無縁な)、アッラーに称えあれ。かれはアッラー、創造主、創成者、造形者。かれにこそ、美名は属する。諸天と大地にある(全ての)ものは、かれを称える。そして、かれは偉力ならびないお方、英知あふれるお方であられる。”
預言者(ﷺ)が示した慈悲の絵
預言者(ﷺ)は教友たちに、アッラー(﷾)の慈悲の絵を示しました。一つ目では、捕虜の中のある母親が、見つけた子どもすべてに乳を与えていました。彼女は決して自分の子を火に投げ込むことはできず、アッラー(﷾)は彼女よりも慈悲深いのです。二つ目では、アッラー(﷾)は慈悲を百に分け、そのうち一つだけを地上に送られました。被造物のすべての優しさは、その一つから来ています。三つ目では、アッラー(﷾)は、かれのもとへ歩いて来る者には、かれは走って行くと言われます。地を満たすほどの罪を持ってかれに会う者でも、何ものもかれに並べずに来るなら、同じほど大きな赦しで迎えられるのです。
ウマルによれば、捕虜たちが預言者(ﷺ)のもとに連れて来られた。その中に、乳房が乳で張った一人の女がいた。彼女は捕虜の中に子どもを見つけるたびに、その子を胸に抱き、乳を飲ませた。預言者は、この女が自分の子を火の中に投げ込むことなどあり得るだろうかと尋ねた。彼らは、いいえと答えた。彼は言った。アッラーがご自分のしもべたちに対して持つ慈悲は、この女が自分の子に対して持つ慈悲よりも大きい。
アブー・フライラは、預言者(ﷺ)がこう言うのを聞いた。アッラーは慈悲を百に分け、九十九をご自分のもとに留め、一つを地上に下された。その一つから、すべての被造物は互いに慈悲を示し、雌馬も子馬を踏むのを恐れて蹄を上げるのである。サヒーフ・ムスリム2752にもある。
預言者(ﷺ)は、アッラーがこう言われると伝えている。わたしは、わがしもべがわたしについて思うとおりの者であり、彼がわたしを想い起こすとき、わたしは彼とともにいる。彼がわたしに手の幅だけ近づけば、わたしは彼に腕の長さだけ近づき、彼が歩いてわたしのもとに来れば、わたしは走って彼のもとに行く。サヒーフ・ムスリム2675にもある。
アブー・ザッルによれば、預言者(ﷺ)は、アッラーがこう言われると言った。善い行いを一つもたらす者には、その十倍か、それ以上がある。わたしに手の幅だけ近づく者には、わたしは腕の長さだけ近づく。歩いてわたしのもとに来る者には、わたしは走って行く。そして、大地を満たすほどの罪を負っていても、わたしに何ものをも並べずにわたしに会う者には、わたしはそれと同じほど大きな赦しをもって会う。
並んでいる慈悲と正義
クルアーンは、二つの短い節の中で慈悲と罰を一緒に置いています。どちらも隠していません。ムスリムは、自分の神が怒りだけであるとも、愛だけであるとも主張したことはありません。その聖典は両方を言い、どちらがより大きいかを言っています。
“(使徒よ、)わが僕たちに伝えよ、われこそは赦し深い者、慈愛深き者であるということを。そしてわが懲罰こそは、痛ましい懲罰であることを。”
“また、私たちにこの現世において、善きものをお定め下さい。そして来世においても。本当に私たちは、あなたに悔悟したのですから」。かれ(アッラー)は仰せられた。「わが懲罰、われはそれで、われが望む者を襲うのだ。そしてわが慈悲は、あらゆるものに広く及んでいる。われは(われを)畏れ、浄財を払う者たち、われらの御徴を信じるその者たちに、それ(慈悲)を定めよう。”
新約聖書における裁き
新約聖書もまた、愛だけである神を描いてはいません。新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録では、神の言と呼ばれる乗り手が、全能の神の激しい怒りの酒ぶねを踏みます。テサロニケ人への第二の手紙は、主イエスが燃える火の中で、報復を加えながら戻ってくる姿を描いています。マタイでは、イエス自身が左にいる者たちに、永遠の火に入れと告げます。ヨハネによる福音書は、すべての裁きが子にゆだねられていると言います。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、キリストを荒野のイスラエルと共に置いてさえいます。そこで、彼を試みた者たちは蛇によって滅ぼされた、と彼は言います。キリスト教徒が信じるようにイエスが神なら、彼らが愛と呼ぶ神は、この裁き手でもあることになります。イスラームはこれをあざけりません。裁きは実在するからです。預言者(ﷺ)は、マルヤムの子が戻ってきて正義をもって治めると言いました。ムスリムは、彼が神としてではなく、アッラー(﷾)のしもべとして戻ると信じています。
“彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。”
“その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。”
“また、苦しめられているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるであろう。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエス・キリストの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。”
“それから、左にいる人々にも言うであろう、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」。”
“父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。”
“また、ある者たちがキリストを試みたように、わたしたちは主を試みてはならない。キリストを試みた者は、へびに殺された。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、マルヤムの子がまもなくムスリムたちのもとに公正な統治者として降りて来ると誓った。彼は十字架を打ち砕き、豚を殺し、ジズヤを終わらせ、富はあまりに豊かになって誰もそれを受け取らなくなる。そしてアブー・フライラはクルアーン4:159を読誦した。啓典の民で、彼の死の前に彼を信じない者は一人もいない。
犠牲を求めない赦し
イエスは、失われた息子が家に帰ってくるたとえを語りました。父は走って彼を迎え、彼を赦します。息子の代わりに罰せられる者は誰もいません。預言者(ﷺ)も同じ真理を教えました。アッラー(﷾)は、かれに向かって歩いて来る者のもとへ走って来られるのです。新約聖書の手紙であるヘブル人への手紙は、血を流すことなしには罪のゆるしはないと言います。それなのにそのたとえでは、父は罪のための犠牲なしに赦しています。クルアーンは、そのたとえが描いている通りの赦しを教えています。
“そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。”
アブー・ザッルによれば、預言者(ﷺ)は、アッラーがこう言われると言った。善い行いを一つもたらす者には、その十倍か、それ以上がある。わたしに手の幅だけ近づく者には、わたしは腕の長さだけ近づく。歩いてわたしのもとに来る者には、わたしは走って行く。そして、大地を満たすほどの罪を負っていても、わたしに何ものをも並べずにわたしに会う者には、わたしはそれと同じほど大きな赦しをもって会う。
“こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。”
キリスト教徒が引く節への答え
ローマ人への手紙 5:8 — 第5章8節
“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。”
引用の目的
神は罪人を、彼らが変わる前に愛される。一方クルアーンは、アッラーは善を行う者だけを愛されると言う。
応答
クルアーンの慈悲は、ふさわしい者だけのためのものではありません。アッラー(﷾)は信仰者にも不信仰者にも等しく命と糧を与えられます。かれの賜物について、かれはすべての者に惜しみなく与えられる、「これらの者たちにも、またこれらの者たちにも」とクルアーンは言います。かれの慈悲はすべてのものに及びます。クルアーンはまた、自らに対して度を越した者たちにさえ、絶望せずに戻って来るよう呼びかけています。そしてかれは、悔い改めてかれに立ち返る者、つまり戻って来る罪人を愛されます。イエス自身が父の愛を従順に結びつけています。「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう」(ヨハネ14:21)。
結論 — クルアーンは立ち返るすべての罪人にアッラー(﷾)の慈悲を差し出しており、イエス自身が父の愛を自分のいましめを守ることに結びつけています(ヨハネ14:21)。
さまざまな視点
キリスト教
神は愛であり、かれの愛は何よりも十字架において示されている。一部のキリスト教徒は、これを彼らがイスラームの怒りの神と見なすものと対比する。
ヨハネの第一の手紙4:8は、神は愛であると言っている。
反論
認めます。イスラームも神は愛されると言っています。アル=ワドゥード、愛するお方はかれの名であって、一時の気分ではありません。けれども「神は愛である」は、決して裁きのない愛を意味してはいませんでした。同じ新約聖書が、燃える火の中で戻ってくるイエスを示しています。どちらの聖典も愛を正義と結びつけており、預言者(ﷺ)はどちらが勝るかを言いました。慈悲です。
新約聖書も言っていること
新約聖書は、戻ってくるイエスを、火と戦いの中の裁き手として描いています。ですからそれは、キリスト教の神は愛だけで、イスラームの神は怒りだという主張を支持していません。
マタイでは、イエスは左にいる者たちを永遠の火に送ります。ヨハネは、すべての裁きが子にゆだねられていると言います。
ヨハネの黙示録とテサロニケ人への第二の手紙は、激しい怒り、燃える火、報復を伴うキリストの再臨を描いています。
失われた息子のたとえは、罪のための犠牲なしの赦しを示しており、それはヘブル人への手紙9:22とうまく合いません。
イスラームの視点
アッラー(﷾)は最も慈悲深く、愛するお方です。クルアーンと預言者(ﷺ)が教える通り、かれの慈悲はすべてのものに及び、かれの怒りに勝ります。そしてかれは公正でもあられます。
クルアーンは、アッラー(﷾)の慈悲はすべてのものに及ぶと述べています。
預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)はかれの書の中に、かれの慈悲はかれの怒りに勝ると書かれたと教えました。
預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)は母が子に対する以上にしもべたちに慈悲深いと教えました。
クルアーンは、アッラー(﷾)が愛される者を名指しし、預言者(ﷺ)に従う者たちにかれの愛を約束しています。
最も美しい名はアッラー(﷾)に属します。預言者(ﷺ)は、かれには九十九の名があり、慈悲の名も威厳の名も同じようにあると教えました。
アッラー(﷾)は、かれに向かって歩いて来るしもべのもとへ走って来られます。かれに何かを並べることを除けば、地を満たすほどの罪さえ赦されます。
アッラー(﷾)は悔い改める者のすべての罪を赦され、その代わりの犠牲は必要ありません。