短い答え
いいえ、証拠は別の方向を指している。第一に、科学である。宇宙は膨張している。2003年、三人の物理学者が、平均して膨張してきた宇宙は永遠にそうしてきたことはありえないことを示した。その過去には端がある。第二に、理性である。もし過去に始まりがなかったなら、今日より前に無限の数の日が過ぎたであろう。無限の連なりは決して完了することができないので、今日は決して到来しえなかったであろう。ガザーリーは九世紀前にこの論証をした。第三に、永遠の宇宙でさえそれ自身を説明しないであろう。部分から成り法則に支配された宇宙は、なおその存在について何かに依存している。すべての道は、それ自身の本性によって存在する存在へと導き、クルアーンはそれを最初のお方、最後のお方と呼んでいる。
詳しい説明
始まりの証拠
1929年、エドウィン・ハッブルは、銀河が遠くにあればあるほど、より速く遠ざかっていると報告した。1965年、アーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンは、空のあらゆる方向から来るかすかで一定の信号、熱い初期の宇宙の残光をとらえた。それから2003年、アーヴィンド・ボーデ、アラン・グース、アレクサンダー・ビレンキンは、平均して膨張してきた宇宙は永遠に膨張してきたことはありえないことを証明した。その歴史には過去に境界がなければならない。物理学者アーサー・エディントンは1931年に、哲学者として始まりは不快だと思うと言っていた。それでも証拠は始まりを指し示していた。
遠くにある銀河ほど、速い速さで私たちから遠ざかっていることを報告する。これが、膨張する宇宙の証拠となった観測である。
空のあらゆる方向から等しくやって来る、4080メガサイクルのかすかで安定した電波信号を報告する。彼らはそれを自分たちの装置の原因にたどれなかった。それは宇宙マイクロ波背景放射、すなわち熱い初期宇宙の残光と認められ、二人は1978年のノーベル物理学賞を受けた。
平均して膨張してきた宇宙は、永遠に膨張してきたはずがないことを示す。その膨張の歴史には、過去に境界がなければならない。
エディントンは、哲学者として言えば、自然の現在の秩序に始まりがあるという考えは不快だと書いている。
終わりのない過去は決して今日に届かない
過去に始まりがなかったと仮定しよう。そうすると今日より前に、無限の数の日がすでに次々と過ぎ去ったことになるであろう。しかし一日を次の日に加えていくことで作られる連なりは、最初の項がなければ決して完了することはできない。誰も無限から数え下ろすことを終えることができないのと同じである。もしそのような連なりが決して完了しえないなら、今日は決して到来しえないであろう。しかし今日は到来した。それで過去の日々の連なりには始まりがあった。ガザーリーは『哲学者の自己矛盾』でこれを論じ、その論証は今日、それをしたムスリムの神学者たちにちなんでカラーム論証として知られている。
その第一論考で、世界には始まりがないとする哲学者たちの見解に反論する。過去の出来事の無限の連なりはあり得ないという論証もそこに含まれる。
宇宙には始まりがあり、ゆえに原因があるという論証を、カラームの伝統に立つムスリムの神学者たち、とりわけアル=キンディーとアル=ガザーリーにまでさかのぼり、それを現代的な形で擁護する。
数学における無限と世界における無限
よくある答えは、数学は無限集合を扱っているので、無限の過去はありうるというものである。しかし定義できる観念は、実際に起こった出来事の連なりと同じではない。無限集合の理論を擁護した数学者ダーフィト・ヒルベルトは、無限は現実のどこにも見いだされないと結論した。その場所は、と彼は言った、数学が用いる観念としてである。数学は私たちに数の終わりのない列を記述させてくれる。それは本当の日々の列をその終わりまで歩かせてはくれない。
カントールの無限集合論を擁護した数学者は、無限は現実のどこにも見いだされないと結論している。それは自然の中に存在せず、と彼は言う、現実のものについて推論するための健全な基礎を与えない。その役割は、数学が用いる観念のそれである。
永遠の宇宙でさえ理由を必要とするであろう
議論のために、宇宙に始まりがなかったと仮定しよう。それはなお部分から成り、法則に支配され、別のあり方ではなくこのあり方をしているであろう。イブン・スィーナーとライプニッツは、それ自身の本性によって存在しないものは何であれ、どれほど長く存在してきたとしても、自分の外にその存在の理由を必要とすると論じた。永遠に以前の写本から写された書物も、なおなぜそれが言うことを言っているのかについての説明を必要とする。それでなぜそもそも宇宙があるのかという問いは、時と共に消えはしない。
存在するものすべてを、それ自体では可能であるにすぎず原因を必要とするもの(ムムキン・アル=ウジュード)と、それ自体で必然であり何も必要としないもの(ワージブ・アル=ウジュード)とに分ける。可能なものの連鎖は、どれほど長くても、その外にある必然的存在を必要とし、この存在は一であって部分を持たない、と論じる。
偶然的な事物の系列全体の十分な理由は、その系列の外、すなわち必然的な実体になければならないと論じ、ライプニッツはそれを神と呼ぶ。
イスラームの答え:最初のお方、最後のお方
クルアーンはアッラー(﷾)を、最初のお方、最後のお方、外なるお方、内なるお方と呼んでいる。かれだけが始まりを持たれない。天と地を含め、ほかのすべてのものはかれによって存在させられた。クルアーンはまた人々に、天と地の創造について熟考するよう求め、それを理解ある人々への印と呼んでいる。
“かれは最初のお方、最後のお方、(最も)外なるお方、(最も)内なるお方。そしてかれは、全てのことをご存知のお方であられる。”
“(アッラーは)諸天と大地の独創者。そして、かれが一事をお取決めにな(り、お望みにな)れば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
“本当に、諸天と大地の創造と夜と昼の交代の中には、澄んだ知性の持ち主たちへの(、アッラーの唯一性を示す)御徴がある。(彼らは)立ち、座り、横になりつつアッラーを唱念し、諸天と大地の創造を熟考する者たち。(彼らは言う。)「我らが主よ、あなたはこれらを無意味にお創りになったのではありません——あなたに称えあれ!——。ゆえに私たちを、(地獄の)業火の懲罰からお守り下さい。”
答えられた反論
ボード、グース、ビレンキン、Physical Review Letters(2003年)
平均して膨張してきた宇宙は、永遠に膨張してきたはずがないことを示す。その膨張の歴史には、過去に境界がなければならない。
引用の目的
ビッグバンは私たちの膨張の段階の始まりにすぎない。何かがそれ以前に存在したかもしれないので、その定理はすべてのものの始まりを示してはいない。
応答
その定理についてはそれは正しい。それは膨張の歴史に端があることを示すのであって、その向こうに何があるかを示すのではない。しかしその向こうにあるものは何であれ、物理的な連なりの別の部分であって終わりのない過去という同じ問いを起こすか、物理的でなく何にも依存しない何かであるかのどちらかである。始まりを後ろに押しやっても、それの必要は取り除かれない。
結論 — 始まりをさらに後ろに移しても、終わりのないものではありえない連なりか、物理的でない原因がなお残る。
エディントン、Nature(1931年)
エディントンは、哲学者として言えば、自然の現在の秩序に始まりがあるという考えは不快だと書いている。
引用の目的
宇宙が始まったと言うことは、科学の装いをした宗教的な好みにすぎない。
応答
抵抗はしばしば逆の方向に走ってきた。主要な天文学者エディントンは始まりは不快だと思うと言ったが、ハッブル、ペンジアスとウィルソンの観測、そしてボーデ、グース、ビレンキンの定理はすべて始まりを指し示している。ここでの論証はそれらの発見と、誰でも確かめることのできる推論に依っている。
結論 — 始まりは宗教のためではなく、証拠のために受け入れられた。
さまざまな視点
宇宙には始まりがないかもしれない
ある物理学者や哲学者は、宇宙、あるいはそれ以前の何かが、いつも存在してきたかもしれないと考えている。彼らは、時間に最初の端がない提案や、宇宙の循環を指摘する。
ハートルとホーキングは、時間に最初の端がない宇宙のモデルを提案した。それで宇宙は始まりを持つ必要がない。
反論
それは提案であって、確立された結果ではない。それによってさえ宇宙は過去において有限であり、部分と法則から成る宇宙はなお存在する理由を必要とする。
数学は無限集合を扱っているので、無限の過去は不可能ではない。
反論
無限集合は定義されるのであって、一歩ずつ築かれるのではない。過去は一日ずつ築かれたのであり、そのような連なりは決して完了することができない。ヒルベルト自身、無限は現実の中には見いだされないと考えた。
私たちの宇宙は、膨張し収縮する宇宙の終わりのない連なりの一つかもしれない。
反論
ボーデ・グース・ビレンキンの結果は、平均して膨張してきたどんな歴史にも当てはまるので、これらのモデルも制限する。そして宇宙の終わりのない連なりも、なお何かに依存する連なりである。
イスラームの視点
宇宙は始まった。そしてたとえ始まらなかったとしても、それはなお何かに依存しているであろう。アッラー(﷾)だけが始まりを持たれない。最初のお方、最後のお方である。
平均して膨張してきた宇宙には過去に境界がある。
次々に加えられていく過去の出来事の連なりは終わりのないものではありえない。さもなければ現在に達することはできないであろう。
アッラー(﷾)は最初のお方、最後のお方であり、始まりを持たれず、かれが天と地を存在させられた。