短い答え
私たちは理性によって神が存在することを知る。存在し始めるものには何であれ原因がある。宇宙は存在し始めたので、それには原因がある。その原因は物質でできていることも、時間の中に生きていることもありえない。証拠によれば、両方とも宇宙と共に始まったからである。それは大きな力を持っていなければならない。それはまた意志を持っていなければならない。始まりのない原因が開始日のある世界を生み出したので、誰かがその瞬間を選んだのである。力は選ばない。1929年にエドウィン・ハッブルは銀河が互いに遠ざかっていることを見いだし、それ以来の証拠は始まりを指し示している。クルアーンは三つの短い問いを問う。人々は無から造られたのか? 彼らは自分自身を造ったのか? 彼らは天と地を造ったのか? これらのどれも真実ではありえないので、誰かが彼らを造ったのである。イスラームは、この誰かが唯一の神アッラー(﷾)であると教えている。
詳しい説明
三つの段階の論
その論には三つの段階がある。第一段階。存在し始めるものには何であれ原因がある。誰も馬や家が無から現れたことを受け入れない。第二段階。宇宙は存在し始めた。十一世紀のムスリムの思想家ガザーリーは、理性だけからこれを論じた。過去を始まりのない日々の鎖として思い描いてみなさい。そのような鎖は、今日に着くために渡り切られることは決してありえなかったであろう。第三段階。それで宇宙には原因がある。九世紀のムスリムの哲学者キンディーとガザーリーがこの論にその古典的な形を与えた。西洋の哲学者たちは今もそれをカラームの論と呼んでいる。カラームとは、それを発展させたイスラームの神学を表すアラビア語の名である。
証明を短い段階で示す。生じるものには、それが生じる原因がある。世界は生じた。ゆえに世界には原因がある。
その第一論考で、世界には始まりがないとする哲学者たちの見解に反論する。過去の出来事の無限の連なりはあり得ないという論証もそこに含まれる。
宇宙という物体は無限ではあり得ず、したがって無限の時間にわたって存在してきたこともあり得ない、と理性から論じる。宇宙には始まりがあり、神によって無から存在へともたらされたのである。
宇宙には始まりがあり、ゆえに原因があるという論証を、カラームの伝統に立つムスリムの神学者たち、とりわけアル=キンディーとアル=ガザーリーにまでさかのぼり、それを現代的な形で擁護する。
科学が見いだした始まり
歴史のほとんどの間、不信仰者たちが持っていた最も強い答えは、宇宙は常に存在してきたというものであった。もしそれが決して始まらなかったなら、それは誰にもそれを始めてもらう必要がない。物理学はその答えの主要な支えを取り去った。証拠は今や始まりを指し示しているからである。1929年に天文学者エドウィン・ハッブルは銀河が互いに遠ざかっていることを見いだした。それで、十分にさかのぼれば、それらは共にあった。ケンブリッジの天文学者エディントンは、始まりという考えは自分にとって嫌悪すべきもの、つまり深く不快なものであると書いた。もう一人の天文学者フレッド・ホイルは生涯、始まりのない宇宙を擁護した。彼は1949年にBBCのラジオで競合する理論にその名「ビッグバン」を与えた。今日、宇宙の標準的な描像はそれを約138億年前、熱く高密度の始まりにまでさかのぼらせている。2003年、三人の物理学者ボルデ、グース、ビレンキンはさらに何かを示した。私たちが知る物理学によれば、平均して膨張してきた宇宙は永遠に膨張してきたことはありえない。その過去には縁がある。
遠くにある銀河ほど、速い速さで私たちから遠ざかっていることを報告する。これが、膨張する宇宙の証拠となった観測である。
エディントンは、哲学者として言えば、自然の現在の秩序に始まりがあるという考えは不快だと書いている。
「ビッグバン」という名前は、1949年3月にフレッド・ホイルがBBCのラジオ講演で初めて使ったことを示す。ホイルは、始まりのない定常宇宙論の代表的な擁護者だった。
平均して膨張してきた宇宙は、永遠に膨張してきたはずがないことを示す。その膨張の歴史には、過去に境界がなければならない。
原因は何でなければならないか
それならこの原因はどのようなものでなければならないか? それは時間の中にあることも物質でできていることもありえない。両方とも宇宙と共に始まったからである。それはそれ自身の始まりを持つことはできない。さもなければ私たちは再び何がそれを引き起こしたのかと問うであろう。それは膨大な力を持っていなければならない。そしてそれは意志を持っていなければならない。すべてが整った状態で永遠に座っていた原因を考えてみなさい。それは、条件が満たされた瞬間に水が凍るように、永遠にその結果を生み出すであろう。けれども宇宙には開始日がある。それでその瞬間は選ばれたのであり、ただ誰かだけが選ぶ。クルアーンはその論全体を三つの問いの中に置いている。人々は無から造られたのか? 彼らは自分自身を造ったのか? 彼らは天と地を造ったのか? 三つすべてが不可能である。残された唯一の答えは、誰かほかの者が彼らを造ったということである。
“いや、彼らはいかなるものもなしに、創られたというのか?それとも彼らが創造者なのか?それとも、彼らが諸天と大地を創ったのだと?いや、彼らは(アッラーの懲罰を)確信していない。”
存在し始めるものには原因がある。誰も馬や家が無から現れたとは受け入れない。
宇宙は始まったのか?
はい。始まりのない過去は、今日に到達するために渡り切ることができなかったであろう。そして1929年にハッブルが銀河が互いに遠ざかっていることを見いだして以来、証拠は始まりを指し示してきた。
それでは何が導かれるか?
宇宙には原因がある。
その原因はどのようなものでなければならないか?
時間の外にあり、物質から成っていない。両方とも宇宙と共に始まったからである。それ自身の始まりを持たない。さもなければ同じ問いが戻ってくる。そして計り知れないほど力強い。
それは盲目的な力でありうるか?
いいえ。永遠の原因が出発の日付を持つ世界を生み出したのであり、ですからその瞬間は選ばれたのである。力は選ばない。ただ誰かが選ぶのである。
クルアーンは尋ねています。彼らは何もないところから創造されたのか、彼らは自分自身を創造したのか、それとも彼らが諸天と大地を創造したのか、と。そのどれも真実ではありえず、ですから誰かが彼らを造られたのです。
天と地の中のしるし
クルアーンは創造の事物をアーヤート、しるしを意味する語で呼んでいる。それは同じ語を自分自身の節にも用いている。それは読者にこれらのしるしを見て推論するよう告げている。それはまた、天と地はかつてつながっていて、それから引き離されたと言う。これらの節は物理学の教科書ではなく、このページはそれらがビッグバンを描いていると主張していない。それらはしるしであり、十三世紀後に見いだされたことにたやすく合っている。クルアーンは常に宇宙は創造されたと教えてきた。科学は決してその教えに変わることを強いなかった。
“また大地には、(アッラーの唯一性を)確信する者たちにとっての(、かれの全能性を示す)御徴がある。そして、あなた方自身の(創造の)内にも。一体、あなた方は(それに無頓着で)目を開かないのか?”
“一体、不信仰に陥った者たちは、諸天と大地が膠着した状態だったことを知らないのか?そしてわれらがその二つを引き裂いたことを?われらは、水から全ての生物を創った。一体、彼らは信じないのか?”
さまざまな視点
歴史的
現代の科学は、宇宙は熱く高密度の状態から膨張したとしている。証拠は始まりを指し示している。不信仰が頼っていた永遠の宇宙はその主要な支えを失った。
ハッブルは1929年に、遠くの銀河は私たちから遠ざかっており、遠いほど速いことを見いだした。
指導的な科学者たちは始まりという考えに抵抗した。エディントンはそれを嫌悪すべきものと呼んだ。宇宙には始まりがないとしたホイルは、1949年に競合する理論を「ビッグバン」と名づけた。
平均して膨張してきた宇宙は永遠に膨張してきたことはありえない。その過去には縁がある。
ムスリムの思想家キンディーとガザーリーが、宇宙の始まりからの論にその古典的な形を与えた。
宇宙は原因を必要としない
多くの無神論者は始まりからの論に二つの仕方のどちらかで答える。ある者たちは、最も小さな規模では物事は原因なしに起こるので、宇宙の始まりにも原因がなかったかもしれないと言う。ほかの者たちは、宇宙はそもそも始まりを持たなかったかもしれないと言う。
量子的な出来事は原因なしに起こるので、宇宙の始まりも原因なしに起こりえた。
反論
量子的な出来事はエネルギーを持ち法則に従う真空の中で起こる。それらには、たとえ私たちがそれらを予測できなくても、条件がある。それでそれらは無から来るものではない。
宇宙は常に存在してきたかもしれないので、それは決して原因を必要としなかった。
反論
平均して膨張してきた宇宙はその過去に縁を持っている。そして過去の日々の終わりのない列は決して今日に届くことができなかったであろう。宇宙は常に存在してきたのかどうかについてのページがこれを説明している。
仏教:その問いは脇に置くことができる
仏教は創造主を教えない。ブッダは宇宙が永遠であるかどうかのような問いを脇に置いた。仏教の文献では、自分が世界を造ったと思う神は、宇宙が膨張した後に最初に生まれ変わった存在にすぎない。
ブッダは、宇宙が永遠であるかどうかのような問いを、それらが苦しみを終わらせる助けにならないので、答えないままにした。
反論
問いを脇に置くことはそれに答えることではない。世界に造り主がおられるかどうかは、私たちが誰に感謝と崇拝を負うかを決めるので、それはどのように生きるかに直接関わっている。クルアーンはそれを平明に問う。彼らは無から創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのか?
世界を造ったと主張する神はただ最初に生まれ変わっただけであった。彼の後に来た存在たちが彼を自分たちの創造者と取ったのである。
反論
その物語はそれ自身生まれ、存在するようになる神についてのものである。イスラームはそのような存在が神ではないことに同意している。クルアーンの神は決して生まれたことがなく、始まりを持たず、何もかれに似ていない。ブッダもまた、決して生じず決して変わらない無条件のものがあると教えた。それで仏教自身が、すべてが造られたものではないことを受け入れている。
中国の伝統:習慣を守り、問いは置いておけ
多くの中国の家族は神が存在するかどうかを問うことなく習慣を守っている。彼らは先祖の墓を訪れ、寺院で富や幸運を祈る。民間信仰は、天の宮廷で玉皇の下に仕える、竈神のような多くの神々を敬っている。
大切なのは習慣を守り先祖を敬うことであって、神が存在するかどうかを決着させることではない。
反論
寺院で富や幸運を祈る人々は、誰かが彼らを聞き、与えることができることを望んでいる。その望みはすでに神の問いを問うている。イスラームはそれに答えている。礼拝の場所はただアッラー(﷾)だけのためのものであるので、かれのほかの誰にも呼びかけるな。
天には宮廷がある。玉皇が多くの神々を治め、竈神は毎年それぞれの家族の振る舞いを天に報告する。
反論
一人の支配者に報告する神々の宮廷は、すでにすべての上におられる唯一者を指し示している。クルアーンは、もしアッラー(﷾)のほかにほかの神々がいたなら、天と地は混乱に陥ったであろうと言う。そして神は誰にもかれに報告してもらう必要がない。どの目もかれを捉えることはできないが、かれはすべてのことを知っておられる。
儒教:正しい行いが第一に来る
孔子は天について語ったが、霊的な存在については語らず、神のどんな証明も与えなかった。多くの儒者はこの世での正しい行いを第一にし、そのような問いを脇に置いている。
孔子は霊的な存在について語らなかった。大切なのはこの世での正しい行いである。
反論
孔子は確かに天について語った。彼は、天が自分の中に徳を生じさせたと言い、天に罪を犯す者には祈る所がないと言った。馮友蘭は、孔子が語る天は支配する天であるように見えると見ている。天が与える徳と天を怒らせる悪は、知り判断されるお方を指し示している。
天は語らない。それはただ季節と万物の成長の中にだけ自分を示す。
反論
それはクルアーンも始める所である。夜と昼、太陽と月はかれのしるしの中にある。それからクルアーンはそのしるしが何を指し示しているかを言う。太陽と月にではなく、それらを創られたアッラー(﷾)にひれ伏せ。
道教:創造主ではなく、道
『道徳経』は、天地より前に来て、そこから万物が来る道について語っている。それには本当に語ることのできる名がなく、それはそれが生み出すものに何の権利も主張しない。多くの道家は人格的な創造主の必要を見ない。
天地より先に道があり、独り立ちして改まらず、万物はそこから来た。
反論
イスラームは、一つの源が天地より前に来て、独り立ちし、変わらないことに同意している。イスラームは、この源は盲目的な道ではなく、知り意志される創造主であると付け加えている。クルアーンはかれを、産まれず、かれに似たものは誰もいない唯一者と呼んでいる。
道は万物を生み出すが、それらに何の権利も主張せず、それらを支配しない。それでそれは命令を与える支配者ではない。
反論
物を生み出し、それらをその段階を通して運び、それらを熟させる源は、行動しているのであり、目的に向かって行動しているのである。イスラームは、神は私たちの把握を超えておられることに同意している。クルアーンは、どの目もかれを捉えることはできないと言う。しかしそれは、かれはすべてのことを知っておられ、かれの最も美しい御名によってご自身を知らせておられると付け加えている。
神道:神は生じた
神道は神、自然、場所、先祖の中に感じられる力を敬っている。その最も古い書は天地がすでにそこにあることから始まり、最初の神は天地が始まったときに生じた。一人の創造主を証明することは信仰の一部ではない。
『古事記』では、最初の神は天地が始まったときに生じた。どの一人の創造主も彼らを造らなかった。
反論
それなら神々自身に始まりがあった。そして『古事記』の序は彼らの前にすでに形をなしつつあった混沌について語っている。生じるものは何であれ、そしてそれが来る混沌は、両方とも原因を必要とする。クルアーンはそのようなすべてのものについて問う。彼らは無から創られたのか、それとも自分自身を創ったのか?
山、川、人々を含め、畏敬を呼び起こす並外れた力を持つものは何でも神と呼ばれうる。
反論
畏敬は山や海の前で正しい感情である。しかし山は自分自身を造らなかった。クルアーンはその畏敬を太陽と月を造られたお方へと向けている。それは人々に、かれが造られたものにではなく、かれにひれ伏すよう告げている。
イスラームの視点
宇宙は始まったので、それには時間と物質の外にある、膨大な力を持ち、創造することを選んだ原因がある。それが神である。クルアーンは人々に、創造の中のしるしから、理性によってこれに達するよう求めている。
存在し始めるものには何であれ原因がある。宇宙は存在し始めた。それで宇宙には原因がある。
始まりのない過去は今日に届くために渡り切られることは決してありえなかったであろう。それで宇宙には最初の瞬間があった。
宇宙の原因は時間の外にあり、物質でできておらず、非常に力強く、選ぶことができなければならない。常に存在していた原因が開始日を持つ結果を生み出したのである。
クルアーンは、人々は無から創られたのか、自分自身を創ったのか、天と地を創ったのかと問う。それはただ創造主だけを残す。
クルアーンは、天と地はかつてつながっていて、それから引き離されたと言う。
神は天と地を創られ、その中のかれのしるしはかれを指し示している。