短い答え
いいえ。完全な意味での無には、空間も、時間も、エネルギーも、法則もない。それには何かをする力がないので、宇宙を生み出すことはできない。ある物理学者たちが宇宙は無から生じうると言うとき、彼らは別のことを意味している。彼らは量子真空、つまり物理法則に従うエネルギーの場を意味している。それは無ではない。それは物理的なものであり、宇宙と同じくらい説明を必要としている。物理学の哲学者デイヴィッド・アルバートは、そのような本を書評したときにこの点を述べた。それで本当の問いは残る。なぜそもそも何かがあるのか。説明されないもので止まらない唯一の答えは、それ自身の本性によって存在する存在である。クルアーンはその選択をはっきりと示している。彼らはいかなるものもなしに創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのか。
詳しい説明
無とは何を意味するのか
無とは、大きさと形を持つ空っぽの空間ではない。それはエネルギーを含む真空ではない。それはすべての欠如である。物質も、エネルギーも、空間も、時間も、法則もない。存在しないものには何の性質もないので、それは働くことも、待つことも、揺らぐことも、何かを生じさせることもできない。宇宙がこの意味での無から来たと言うことは、それがまったく何の原因からも来なかったと言うことである。イブン・スィーナー、そして後にライプニッツはその教訓を引き出した。存在するものは何であれ、その存在の理由を自分自身の内に持つか、他の何かからそれを受けるかである。
存在するものすべてを、それ自体では可能であるにすぎず原因を必要とするもの(ムムキン・アル=ウジュード)と、それ自体で必然であり何も必要としないもの(ワージブ・アル=ウジュード)とに分ける。可能なものの連鎖は、どれほど長くても、その外にある必然的存在を必要とし、この存在は一であって部分を持たない、と論じる。
偶然的な事物の系列全体の十分な理由は、その系列の外、すなわち必然的な実体になければならないと論じ、ライプニッツはそれを神と呼ぶ。
物理学者たちが無で意味するもの
『宇宙が始まる前には何があったのか?』(2012年)で、物理学者ローレンス・クラウスは、物理学は宇宙がどのように無から生じるかを説明できると論じた。しかし彼の「無」は、まず空っぽの空間であり、次に空間も時間もないがなお量子物理学の法則に支配されている状態である。物理学の哲学者デイヴィッド・アルバートは書評の中で、量子真空は物理的な場の特定の配置であると答えた。そこから生じる宇宙は何かから生じるのである。その本は、一つの物理的状態がどのように別の状態に変わりうるかを説明している。それは、なぜそもそも物理的状態が、あるいは法則があるのかを説明していない。
物理学は、宇宙が創造主なしに「無」からどのように生じうるかを記述できると論じている。彼は「無」をまず空っぽの空間について、次いで空間も時間もまったくないことについて用いている。彼は物理法則でさえ宇宙ごとに異なるかもしれないと示唆している。
物理学の哲学者がクラウスに答えている。量子真空は無ではない。それは物理的な場の特定の配置であり、それゆえこの本は、宇宙がそれらの場からどのように生じうるかを記述しているのであって、なぜそもそもそれらが存在するのかを記述しているのではない。
法則は記述する。それは創造しない
物理法則は、物がいったん存在すればどのようにふるまうかを私たちに告げる。それはそこにあるものの型を、数学で書いた記述である。算術の規則が銀行口座にお金を入れないのと同じように、法則はそれ自体で何かを引き起こすことはできない。もし量子物理学の法則が宇宙より前にそこにあったのなら、何かがそこにあったのである。それらの法則によって秩序づけられた世界である。物理学者ユージン・ウィグナーは、数学と自然の一致を、私たちが理解もしておらず値してもいない贈り物と呼んだ。その秩序は説明を必要とするものの一部である。
物理学の法則を言い表す数学の力は神秘的と言ってよいほどで、合理的な説明がないと論じ、それを、私たちが理解もせず、それに値もしない素晴らしい贈り物と呼ぶ。
物理学の哲学者がクラウスに答えている。量子真空は無ではない。それは物理的な場の特定の配置であり、それゆえこの本は、宇宙がそれらの場からどのように生じうるかを記述しているのであって、なぜそもそもそれらが存在するのかを記述しているのではない。
宇宙は自分自身を造ることはできなかった
第二の抜け道は、宇宙は自分自身を引き起こしたと言うことである。しかし何かを引き起こすには、物はすでに存在していなければならない。自分自身を造った宇宙は、それが存在する前に存在していなければならないであろうが、それは矛盾である。それで選択肢は三つだけである。宇宙は無から来たか、自分自身を造ったか、あるいは他の何かがそれを存在させたかである。最初の二つは成り立たず、それは三つ目を残す。そしてその他の何かは、他のものに依存するもう一つのものではありえない。さもなければ問いは一歩後ろに移るだけである。
存在するものすべてを、それ自体では可能であるにすぎず原因を必要とするもの(ムムキン・アル=ウジュード)と、それ自体で必然であり何も必要としないもの(ワージブ・アル=ウジュード)とに分ける。可能なものの連鎖は、どれほど長くても、その外にある必然的存在を必要とし、この存在は一であって部分を持たない、と論じる。
“いや、彼らはいかなるものもなしに、創られたというのか?それとも彼らが創造者なのか?それとも、彼らが諸天と大地を創ったのだと?いや、彼らは(アッラーの懲罰を)確信していない。”
イスラームの答え:何も必要とされない方によって創造された
クルアーンは同じ三方向の問いを発している。彼らはいかなるものもなしに創られたのか、それとも彼ら自身が創造者なのか。それは、アッラー(﷾)は諸天と大地の独創者であり、かれの命令によって物を存在させられると答える。かれは宇宙の一部ではなく、その部分から成ってもおらず、その法則に縛られてもいない。かれは何にも依存されず、すべてのものがかれに依存している。
“いや、彼らはいかなるものもなしに、創られたというのか?それとも彼らが創造者なのか?それとも、彼らが諸天と大地を創ったのだと?いや、彼らは(アッラーの懲罰を)確信していない。”
“(アッラーは)諸天と大地の独創者。そして、かれが一事をお取決めにな(り、お望みにな)れば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
“人々よ、あなた方はアッラーなしではいられない貧者であり、アッラーは満ち足りておられるお方、称賛されるべきお方なのである。”
答えられた反論
『宇宙が始まる前には何があったのか?』(原題『無からの宇宙』、2012年)
物理学は、宇宙が創造主なしに「無」からどのように生じうるかを記述できると論じている。彼は「無」をまず空っぽの空間について、次いで空間も時間もまったくないことについて用いている。彼は物理法則でさえ宇宙ごとに異なるかもしれないと示唆している。
引用の目的
物理学者たちは、ありうる最も空っぽの状態に無という言葉を使っている。より深い無を求めることは言葉遊びである。
応答
問いは言葉についてではなく、何が説明を必要としているかについてである。もし最も空っぽの状態がなお場と法則を含んでいるなら、それは物理的な実在である。それなら私たちは、なぜその実在が存在するのか、そしてなぜその法則がこれらなのかを問うことができる。それを無と呼んでも、その問いは消えない。
結論 — 量子真空は何かであるので、それは問いに答えることなく一歩後ろに移すだけである。
ラッセルとコプルストン、BBCラジオ討論(1948年)
1948年1月28日にBBCサード・プログラムで放送された神の存在についての討論で、イエズス会の哲学者フレデリック・コプルストンは、世界はそれ自身の外に原因を必要とすると論じた。不可知論者のバートランド・ラッセルは、宇宙全体が何らかの原因や説明を必要とすると考える理由は見当たらないと答えた。それはただそこにある、それだけだ、と。
引用の目的
たとえ宇宙が原因を必要とするとしても、なぜその原因が神でなければならず、多くの存在ではなく一つの存在でなければならないのか。
応答
何にも依存しないものは部分から成ることはできない。さもなければそれはその部分に依存するであろう。それは自分に似た他のものによって限られることはできない。さもなければ何かがその限界を定めるであろう。それでそれは一であり、部分もなく、等しいものもない。なぜ神は唯一でしかありえないのかについてのページがこれをさらに進めている。
結論 — 何にも依存しないものは一であり、合成されていないものでなければならない。それがイスラームがアッラー(﷾)で意味するものである。
さまざまな視点
物理学は宇宙が無から生じうることを示している
ある物理学者たちは、量子物理学が宇宙がどのように無から生じうるかを説明するので、創造主は必要ないと論じている。ローレンス・クラウスがその最もよく知られた者である。
量子論は、粒子が、そしておそらく宇宙全体が、空っぽの空間から現れることを許している。あるいはそれらは空間も時間もない状態から現れるかもしれない。
反論
量子状態が別の状態に変わりうることは認めよう。しかしデイヴィッド・アルバートが指摘したように、真空とその法則は何かである。それらは一つの物理的状態がどのように別の状態になるかを説明するのであって、なぜそもそも何か物理的なものが存在するのかを説明するのではない。
もし物理学が宇宙の始まりを説明できるなら、神はもはや説明として必要ない。
反論
神は物理学の隙間として示されているのではなく、なぜそもそも法則を持つ物理的な世界があるのかへの答えとして示されている。最初の瞬間についてのよりよい説明は、その問いに触れないままである。
宇宙はただそこにある
ほかの者たちは、宇宙は何の説明も必要としないと言う。1948年のコプルストンとの討論で、バートランド・ラッセルは、それはただそこにあるのであり、それがすべてだと言った。
宇宙全体が原因や説明を必要とすると考える理由はない。
反論
宇宙の中のどの一つのものについても、私たちはそれが何の説明もなしにただそこにあることを受け入れない。依存する部分から成る全体も、それに劣らず依存している。それで宇宙で止まることは、問わないという選択であって、答えではない。
イスラームの視点
無は何も生み出すことができず、宇宙は自分自身を造ることができない。それでそれは何にも依存しない創造主によって存在させられた。諸天と大地の独創者アッラー(﷾)である。
絶対的な無には何の性質も力もないので、それは宇宙の源ではありえない。
クルアーンは三つの選択肢を示している。いかなるものもなしに創られたか、自ら創られたか、創造主によって創られたかである。
アッラー(﷾)は諸天と大地を創始された。かれが一事をお取決めになれば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在する。