短い答え
神が語られ、クルアーンがかれの言葉であり、あなたはそれを試すことができるからです。多くの道教徒は静けさ、素朴さ、謙虚さを求めており、イスラームもそれらを尊びます。クルアーンの中で、神はご自身について、ご自身の声で語られます。「本当にわれこそは、…アッラー」(20:14)。かれは呼びかける者を聞かれます(2:186)。かれは使徒たちに語られます(42:51)。かれに立ち返る者を赦されます(39:53-54)。すべての崇拝はかれだけのものです(72:18)。すべての魂は死を味わい(3:185)、神は死者に再び命を与えられます(36:79)。イスラームは、信仰、崇拝、法、家族、人柄が一つになった生き方そのものです(5:3)。クルアーンを読み、それを試してください。
詳しい説明
共通の土台:静けさ、素朴さ、謙虚さ
多くの道教徒は、静けさ、素朴さ、謙虚さのある生き方を求めています。『老子道徳経』は道教の短い古典です。道(タオ)とは「道」を意味します。この書物は、最もよい生き方を水にたとえています。水は万物に益を与え、争わず、人々の嫌う低いところにとどまります(8)。無理や見せかけなしに行うことを表すその言葉は無為で、物事を強いないことを意味します(37)。イスラームもまた静けさと謙虚さを尊びます。クルアーンは「地上を慎ましやかに歩く」者たちを称えています(25:63)。「アッラーの唱念によってこそ、心は安らぐ」と述べています(13:28)。違いは、静けさがどこから来るかです。『道徳経』はそれを虚と静の中に求めます(16)。クルアーンはそれを神を思い起こすことの中に見出します。このページは、ジェームズ・レッグによる『道徳経』の英訳(1891年)を引用しています。
“上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。”
“道は常に無為にして、而も為さざる無し。”
“慈悲あまねきお方(アッラー)の僕たちとは、地上を慎ましやかに歩く者たち。また無知な者たちが彼らに(嫌なことを)話しかければ、無難なことを語る者たち。”
“信仰し、その心がアッラーの唱念で安らぐ者たち(を、お導きになるのだ)。アッラーの唱念によってこそ、心は安らぐのではないか。”
“虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。”
神はご自身を名乗られた
『道徳経』は、どんな名も道には合わないと言います。その書き手は「吾れ其の名を知らず」と言い、自ら道という名を与えています(25)。最もよく知られた初期の注釈者である王弼(226-249)は、その理由を説明しています。名は形を定めるが、道には形がない、と。このページは、道が神だとは言いません。ページ「道は神と同じなのか?」で、両者を詳しく比べています。神について、イスラームは、どんな視覚もかれを捉えることはできないと教えます(6:103)。それでもかれは、ご自身について沈黙してはおられません。クルアーンの中で、神はご自身の声でご自身を名乗られます。「本当にわれこそは、われ以外に崇拝すべきもののない、アッラー」(20:14)。「アッラーにこそ、美名は属する。ならば、それによってかれに祈願するのだ」(7:180)。
“吾れ其の名を知らず、之に字して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う。”
『道徳経』の最もよく知られた初期の注釈者である王弼は、これらの章を次のように読む。第4章について、帝とは天帝である。天地さえ道に及ばないので、それは帝より先にあるように見える。第5章について、天地は物をその本性に従わせる。それらは為さず造らず、物は自ら治まる。それゆえ「仁ならず」なのである。第25章について、名は形を定め、道には形がないので、その名は知られない。第62章について、「美言」とは道を讃える言葉であり、どんな宝よりも価値がある。善くない者は捨てられないよう道を守るべきである。それによって求める者は得、それによって逃れを求める者は逃れる。第73章について、天の道に従えば吉をもたらし、それに逆らえば凶をもたらす。それゆえそれは言わずして善く応じる。それは低きにとどまるので、物は自ずからそれに来る。その謀りとは、事が起こる前にそれが示す吉凶のしるしである。
“視覚が(現世で)かれ(アッラー)を捉えることはない。かれが視覚を捉え給うのであり、かれは霊妙なお方、通暁されるお方なのだ。”
“本当にわれこそは、われ以外に崇拝すべきもののない、アッラー。ゆえにわれを崇拝し、われを唱念すべく礼拝を遵守せよ。”
“アッラーにこそ、美名は属する。ならば、それによってかれに祈願するのだ。そして、かれの美名において(真理から)逸脱する者たちは、放っておくがいい。彼らはいずれ、自分たちが行っていた(悪)事の応報を受けることになるのだから。”
神は呼びかける者を聞かれる
『道徳経』は天の道(天、レッグの綴りではT'ien。世界の上にある秩序)について語っています。この道は言わず、召さないと言います。それでも「言わずして善く応じ」るのです(73)。王弼はその応答を説明しています。それに従えば幸いがあり、それに逆らえば災いがある、と。ですからその応答は、人々が行うことの結果です。クルアーンでは、神は近くにおられ、聞かれます。「われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう」(2:186)。かれは「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」と言われます(40:60)。何もかれに似ておらず、かれは「よくお聞きになるお方、よくご覧になるお方」です(42:11)。
“天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たる。”
『道徳経』の最もよく知られた初期の注釈者である王弼は、これらの章を次のように読む。第4章について、帝とは天帝である。天地さえ道に及ばないので、それは帝より先にあるように見える。第5章について、天地は物をその本性に従わせる。それらは為さず造らず、物は自ら治まる。それゆえ「仁ならず」なのである。第25章について、名は形を定め、道には形がないので、その名は知られない。第62章について、「美言」とは道を讃える言葉であり、どんな宝よりも価値がある。善くない者は捨てられないよう道を守るべきである。それによって求める者は得、それによって逃れを求める者は逃れる。第73章について、天の道に従えば吉をもたらし、それに逆らえば凶をもたらす。それゆえそれは言わずして善く応じる。それは低きにとどまるので、物は自ずからそれに来る。その謀りとは、事が起こる前にそれが示す吉凶のしるしである。
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
“また(人々よ)、あなた方の主は仰せられた。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう。本当にわれの崇拝に対して奢り高ぶる者たちは、やがて蔑まれた者となって、地獄に入ることになる。”
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
神は語られ、クルアーンは試すことができる
『道徳経』は、その言葉が神から来たとは決して言いません。ページ「『道徳経』は神から来たものなのか?」で、このことを見ています。クルアーンは自らの言葉でその主張をしています。「英知あふれる、称賛されるべきお方から下されたもの」(41:42)。神は、霊感によって、帳の陰から、あるいは使徒を遣わすことによって人々に語られると述べています(42:51)。自らの言葉だけで信じられることを求めはしません。神以外の誰かからの書物なら「沢山の相違点」があるだろうと述べています(4:82)。疑う者に、それと同じような章を作ってみよと挑んでいます(2:23)。ページ「クルアーンの、それに似た一章を書けという挑戦に応えた者はいるのか?」で、最初に聞いた人々がその挑戦にどう応じたかを示しています。
“その前からも、その後ろからも、虚妄が訪れることがない(啓典)。英知あふれる、称賛されるべきお方から下されたもの。”
“アッラーが人間に語りかけ給うことなどは、あり得べくもない。しかし啓示によるものか、または覆いの向こうから(語りかけられるもの)、あるいは御使いを遣わせて、かれのお許しと共に、かれがお望みのことを啓示し給う場合は別である。本当にかれは、至高のお方、英知あふれるお方であられる。”
“一体彼らは、クルアーンを熟慮しないのか?もしそれがアッラー以外のものに由来するものであったなら、彼らはその中に沢山の相違点を見出したであろうに。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
神はかれに立ち返る者を赦される
『道徳経』は、古の人々がなぜ道をそれほど貴んだのかと問います。「罪有るも以て免る」と言うためではなかったか、と(62)。王弼は、善くない者は捨てられないように道を守るべきだと言います。けれどもこの書物は、道が罪ある者に語りかけることを決して描いていません。神は彼らをご自分のもとへ呼び、その嘆願を聞かれます。悪を行い、その後「アッラーに(自分の罪の)お赦しを乞う」者は、「アッラーが赦し深いお方、慈愛深いお方であるのを見出す」のです(4:110)。かれは、自らを損なった者たちに、かれの慈悲に絶望しないよう呼びかけられます。かれはすべての罪を赦されるからです。時のあるうちにかれに立ち返るよう求められます(39:53-54)。
“古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得、罪有るも以て免ると曰わずや。”
『道徳経』の最もよく知られた初期の注釈者である王弼は、これらの章を次のように読む。第4章について、帝とは天帝である。天地さえ道に及ばないので、それは帝より先にあるように見える。第5章について、天地は物をその本性に従わせる。それらは為さず造らず、物は自ら治まる。それゆえ「仁ならず」なのである。第25章について、名は形を定め、道には形がないので、その名は知られない。第62章について、「美言」とは道を讃える言葉であり、どんな宝よりも価値がある。善くない者は捨てられないよう道を守るべきである。それによって求める者は得、それによって逃れを求める者は逃れる。第73章について、天の道に従えば吉をもたらし、それに逆らえば凶をもたらす。それゆえそれは言わずして善く応じる。それは低きにとどまるので、物は自ずからそれに来る。その謀りとは、事が起こる前にそれが示す吉凶のしるしである。
“悪事を行ったり、自らに不正を働いたりしても、その後アッラーに(自分の罪の)お赦しを乞う者は誰でも、アッラーが赦し深いお方、慈愛深いお方であるのを見出すであろう。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
“また、あなた方に懲罰が訪れる前に、あなた方の主に(悔悟して)立ち返り、かれに服従(イスラーム)せよ。(懲罰が訪れたら、あなた方は罰され、)そこから助けられることはなくなってしまうのだ。”
死と、その後の生
道教徒の中には、死を越える人である仙人になろうとした者もいました。クルアーンは、すべての魂は死を味わうと述べており、それをすべての人について言っています(3:185)。イスラームは、終わることのない生への希望を共有しています。それは、そのような生は死の後に始まると言います。来世の住まい、「それこそが(真の)生なのである」(29:64)。人々を最初に造られた神は、死者に再び命を与えられます(36:78-79)。楽園の園は「信仰し、正しい行いを行う者たち」のためのものです(18:107)。その生は、どれほど長い修行をしても、私たち自身のどんな方法によっても勝ち取られるものではありません。それは神の慈悲による、神の贈り物です。
第2篇(論仙)で、ある人が、死なない仙人に本当に到達できるのかと問う。問う者は、始まりのあるものには必ず終わりがあると笑う。葛洪は、それはすべてについて真ではないと答える。天地には終わりがなく、亀と鶴は長く生きる。彼は、仙人は薬によって身体を養い、術によって命を延ばし、それで死なずに生き続けると考える。第3篇(対俗)で、彼は、仙人になろうとする者は忠、孝、和、順、仁、信を根本としなければならないと言う。徳が修められず、ただ術に努めるだけなら、誰も長生を得ない。第4篇(金丹)で、彼は、自分が読んだ書物はみな二つの丹、還丹と金液を作っており、それが仙人の道の最高の方法であると言う。他の薬は、と彼は言う、少しは助けになるかもしれないが、決して人を永遠に生きさせることはできない。
“全ての者は、死を味わう。そして復活の日、あなた方は(現世での行いに対する)自分たちの褒美を、余すことなく授かるのだ。それで、誰でも(地獄の)業火から遠ざけられ、天国に入れられた者は、確かに(自分が望む最高のものを)勝ち取ったのである。現世の生活は、偽りの楽しみに過ぎない。”
“この現世の生活は戯れごとと遊興に過ぎない。そして本当に来世の住まい、それこそが(真の)生なのである。もし彼らが(そのことを)知っていたならば。”
“そして彼は自分自身の創造を忘れて、われらに対して(許されない)譬えを挙げた。彼は言ったのだ。「誰が、朽ち果てた骨に生を与えるというのか?」言ってやれ。「それを最初にお創りになったお方が、それに生を与えられる。かれは、全ての創造についてご存知のお方」。”
“本当に、信仰し、正しい行いを行う者たちには、御もてなしとしてフィルダウスの楽園がある。(彼らは)そこに永遠に留まり、そこから(いかなる別の場所にも)移されることを望まない。”
崇拝は神だけのもの
宗教としての道教は、その廟で多くの神々を敬います。イスラームは、すべての崇拝と祈りを神だけに向けるよう求めます。すべてのムスリムは、毎回の礼拝でこう言います。「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」(1:5)。礼拝の場は神のものなので、誰もかれと並べて祈られてはなりません(72:18)。かれだけがすべてのものを造られ(39:62)、呼びかけるすべての者をご自身で聞かれます(2:186)。イスラームはこれを侮辱なしに言います。クルアーンはムスリムに告げています。「彼らがアッラーを差しおいて祈っているものを、罵ったりしてはならない」(6:108)。ページ「道教の神々に祈るべきか?」で、このことに丁寧に答えています。
プレガディオは、老子は漢代に老君(老君)の名のもとに神となったと書いている。165年と166年に、彼の生誕地とされる所で彼のための祭儀が行われ、166年には桓帝が宮中で彼を讃える儀式を行った。神としての老君は、道を人格化したものと描かれる。最高の道教の神々は三清であり、それぞれが一つの天を治める。その一つである道徳天尊は、神格化された老子の別名である。より広い神々の体系には、船乗りの守り手として崇められる10世紀後半の女性である媽祖のような、神とされた過去の人々が含まれる。
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
“アッラーは全てのものの創造主で、かれは全てのことを請け負われるお方であられる。”
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
“(ムスリムたちよ、)あなた方は、彼らがアッラーを差しおいて祈っているものを、罵ったりしてはならない。そうすれば彼らは度を越して、知識もないままに、アッラーのことを罵ってしまうだろう。同様にわれらは、各共同体にその行いを目映く見せたのだ。その後、彼らの主の御許こそは、彼らの戻る場所なのであり、かれは彼らが行っていたことについて、彼らにお告げになるのである。”
生き方そのもの
イスラームは、神についての信仰だけではありません。信仰、崇拝、法、家族、人柄が一つになった、生き方そのもの(ディーン)です。静けさ、素朴さ、謙虚さはその中に居場所を持ち、その一つひとつが神の命令に基づいています。クルアーンは、神が宗教を完成させ、その恩恵を全うされたと述べています(5:3)。信仰者に、心を尽くしてイスラームに入るよう呼びかけています(2:208)。ページ「イスラームとは何か?」で、その道の全体を示しています。
“この日われはあなた方のために、あなた方の宗教を完成させ、あなた方へのわが恩恵を全うし、イスラームがあなた方への宗教であることに満足した。”
“信仰する者たちよ、余すことなく平安の内に入れ。そしてシャイターンの歩みに従ってはならない。本当に彼はあなた方にとって、紛れもない敵なのだから。”
イスラームが読者に求めること
イスラームは二つのことを共に求めます。神だけを崇拝し、ムハンマド(ﷺ)に従うことです。クルアーンは彼を、アッラー(﷾)の使徒であり、預言者たちの封印、つまりその最後の者と呼んでいます(33:40)。彼に、自分はすべての人々に遣わされたと言うよう告げています(7:158)。その節は、神とその使徒を信じ、彼に従え、そうすればあなた方は導かれるだろう、という呼びかけで終わっています。信頼できる翻訳でクルアーンを読み、それを試してください(2:23)。そのうえで、それがあなたを聞いてくださり、語られたお方の言葉かどうかを問うてください(42:51)。
“ムハンマドはそもそも、あなた方の男性の内の、誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒、預言者たちの封印なのだ。そしてアッラーはもとより、全てのことをご存知のお方。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“アッラーが人間に語りかけ給うことなどは、あり得べくもない。しかし啓示によるものか、または覆いの向こうから(語りかけられるもの)、あるいは御使いを遣わせて、かれのお許しと共に、かれがお望みのことを啓示し給う場合は別である。本当にかれは、至高のお方、英知あふれるお方であられる。”
答えごとに
『老子道徳経』1 — 第1章、第1段
“道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。”
引用の目的
『道徳経』は、名づけられる名は永遠の名ではないと言う。最も高いものには名がないので、名を持つ神は小さすぎる。
応答
その書物は確かに、どんな名も道には合わないと言っています。王弼は、名は形を定めるが、道には形がないと説明しています。このページは、道が神だとは言いません。神について、イスラームは、どんな視覚もかれを捉えることはできず(6:103)、何もかれに似ていないと教えます(42:11)。それでも神は、人々をかれの名なしに放っておかれませんでした。クルアーンの中で、かれはご自身を名乗られます。「本当にわれこそは、われ以外に崇拝すべきもののない、アッラー」(20:14)。人々に、かれの名によってかれに祈願するよう告げておられます(7:180)。
結論 — 誰も神を捉えることはできません。かれは、私たちがかれに祈願できるように、ご自分の名を告げてくださいました。
『老子道徳経』73 — 第73章、第2段
“天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たる。”
引用の目的
天に言葉は要らない。第73章は、天の道は言わず、それでも善く応じると言っている。それで答えとしては十分だ。
応答
その書物は確かにそう言っています。王弼はその応答を説明しています。それに従えば幸いがあり、それに逆らえば災いがある、と。それは、種をまいた後の収穫のような結果です。イスラームは、どんな行いも失われないことに同意します。微塵の重さの善や悪も見られることになるのです(99:7-8)。けれども神はまた、呼びかける者を聞かれます。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」(40:60)。そしてかれは、使徒たちを通して語られました(42:51)。
結論 — 『道徳経』では、応答は人々が行うことの結果です。クルアーンでは、神ご自身が聞き、語り、応えられます。
「天師道」、『道教百科事典』(2008年)
クリーマンは、紀元2世紀に今の四川で創始された天師道が、道教という宗教の正式な始まりを示すと書いている。この運動はその起源を紀元142年の張道陵への啓示に遡らせる。その時、老子が鶴鳴山に彼のもとへ降り、新しい契約を立てた。人間である張は、神的な老子(老君)によって選ばれた。初期の共同体は『想爾注』に従って読みながら、『道徳経』を一緒に唱えた。
引用の目的
私たちの伝統によれば、太上老君は142年に初代天師張道陵のもとに降臨し、契約を結んだ。だから道もまた語ったのであり、私たちにアラブの預言者は必要ない。
応答
そうであれば、問題はもはや『道徳経』が何を言っているかではありません。その書き手は自ら道を名づけており(25)、神が自分を遣わしたとは決して言っていません。問題は、この後代の啓示が神から来たかどうかであり、そのような主張はどれも試されなければなりません。クルアーンも同じように試されることを求めています(2:23、4:82)。クルアーンはまた、メッセージが何を教えるかという試験も示しています。真の使徒はみな、神だけへと呼びかけました(21:25)。神はどんな被造物の形もとられません。何もかれに似ていないからです(42:11)。ムハンマド(ﷺ)はすべての人々に遣わされたので(34:28)、彼のメッセージは中国のためのものでもあります。
結論 — 啓示の主張は、それが何を教え、何を示せるかによって試されます。クルアーンは神だけへと呼びかけ、試験へと招いています。
クルアーン 3:19 — イムラーン家章、第19節
“本当にアッラーの御許における(真の)宗教はイスラームである。そして啓典を授けられた人々が意見を異にしたのは、彼らのもとに知識が到来した後のこと、彼らの間の侵犯ゆえ以外の何ものでもなかった。誰だろうとアッラーの御徴を否定する者があっても(、アッラーは彼にその応報を与えられるのであり)、本当にアッラーは即座に計算されるお方なのだ。”
引用の目的
多くの中国人は、儒・道・仏の三教は一つだと言う。すべてのよい道は同じところに通じるのだから、選ぶ必要はない。
応答
イスラームはムスリムに、他の信仰について侮辱なしに語るよう求めます(6:108)。けれども三つの問いを投げかけます。祈りを聞かれる唯一の創造主はおられるのか。かれは語られたのか。崇拝はかれだけのものか。クルアーンは三つすべてに「はい」と答えます。崇拝は神だけのものです(1:5、72:18)。「いいえ」と答える道が、同じ道であることはありえません。クルアーンは言います。「本当にアッラーの御許における(真の)宗教はイスラームである」(3:19)。そしてそれを試すよう招いています(2:23)。ページ「すべての宗教は同じ神への道ではないのか?」で、このことを詳しく見ています。
結論 — 神が聞き、語られるかどうかについて違う答えを出す道が、すべて一つの道であることはありえません。クルアーンは自らの主張をし、試験へと招いています。
クルアーン 9:113 — 悔悟章、第113節
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
引用の目的
ではイスラームは、私の両親や祖父母のために祈ることを私に禁じ、彼らは火獄にいると言うのか。
応答
イスラームの外で亡くなった人々のために、ムスリムは神の赦しを乞いません(9:113)。それは自分自身の祈りについての規則です。あなたの両親や祖父母についての判決ではありません。その節は条件を示しています。「火獄の徒であることが彼らに明白になった後には」です。クルアーンはまた、神は「使徒を遣わすまで」罰を下されないと述べています(17:15)。かれは「ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない」のです(4:40)。誰かの行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。それは神に属することです。
結論 — イスラームは祈りのための自分の規則を公然と述べ、各人の行く末を誰にも不正を働かれない神に委ねる。
クルアーン 2:185 — 雌牛章、第185節
“(それは)人々への導きとして、また導きと識別の明証としてクルアーンが下された、ラマダーン月。それで誰であろうと、(旅行中ではない)定住者としてその月に立ち会った(健常)者は、斎戒せよ。そして病人や旅行中の者(で斎戒しなかった者)は誰でも、別の日々に(その)日数を(斎戒する)。アッラーはあなた方に易きを望まれるのであって、困難を望んでおられるのではない。そしてそれは、あなた方が(斎戒の)日数を全うし、あなた方を導いて下さったことについてアッラーの偉大さを称揚するためであり、あなた方が感謝するようになるためである。”
引用の目的
イスラームは毎日の礼拝、断食、定められた法を求める。静けさと素朴さの道教の道の方が穏やかだ。
応答
『道徳経』は、道をそれがどれほど易しいかで判断しません。「自ら勝つ者は強し」(33)。イスラームは確かに本当の努力を求めます。けれどもクルアーンは信仰者に、神は「宗教においてあなた方にいかなる困難も課されなかった」と告げています(22:78)。かれは人々にあらゆる易しさを望まれ、困難を望まれません(2:185)。病人は断食を後で埋め合わせることができます。かれは、どの魂にも、負いきれない重荷を負わせられません(2:286)。礼拝はまた静けさをもたらします。「アッラーの唱念によってこそ、心は安らぐ」(13:28)。ページ「イスラームとは何か?」で、その道の全体を示しています。
結論 — イスラームは、一人ひとりが負える範囲の中で本当の努力を求め、心は神を思い起こすことの中に安らぎを見出します。
さまざまな視点
道教徒の読者
道教徒の読者は、いくつかのことを言うかもしれません。最も高いものはあらゆる名を越えている。天の道は言葉なしに応じる。物事を強いないことで十分であり、道はすでに罪ある者を免れさせる。宗教としての道教の信者は、自分たちの儀礼は過ちを告白して赦しを求めるものであり、太上老君が語られたと付け加えます。イスラームは求めることが多すぎると思う人もいます。
「名の名とす可きは、常の名に非ず」(1)。最も高いものには名がない。自分の神に多くの名を与える宗教は、最も高いものを小さくしてしまう。
反論
このページは道を神とは呼びません。神について、イスラームは、どんな視覚もかれを捉えることはできないと教えます(6:103)。かれの名がかれを小さくすることはありません。かれご自身がそれを与えられたからです。かれはご自身の声で言われます。「本当にわれこそは、…アッラー」(20:14)。かれは、人々がかれに祈願できるように、ご自身を名乗られたのです(7:180)。
天の道は確かに応じる。第73章は、それは言わない、「言わずして善く応じ」ると言っている。
反論
王弼はその応答を説明しています。それに従えば幸いがあり、それに逆らえば災いがある、と。それは、種をまいた後の収穫のような結果です。神は呼びかける者を聞かれ、応えると約束されています(2:186、40:60)。
無為、つまり物事を強いないことで十分だ。命じられた道徳は、道が失われたしるしだ(38)。大道が廃れたとき、仁義が流行し、大きな偽りが続いた(18)。そして「法令滋々彰かにして、盗賊多く有り」(57)。
反論
イスラームは、見せかけのために守られる規則には価値がないということに同意します(107:4-7)。けれども見せかけは、務めを減らすことによってではなく、心を見られる裁き手によって癒されます(40:19)。神はすべての魂に善悪の感覚を置かれました(91:8)。それでも人々は互いに不正をし、何が正しいかについて意見が分かれます。ですから神は、彼らの間を裁くために、書物を携えた使徒たちを遣わされたのです(2:213)。
罪ある者はすでに道によって免れている。古の人々が道を貴んだのは、「罪有るも以て免る」からだ(62)。
反論
認めます。その書物はそう言っています。王弼は、善くない者は捨てられないように道を守るべきだと言います。けれども道は決して彼らに語りかけません。神は罪人たちにかれに立ち返るよう呼びかけ、求める者は誰でも赦されます(4:110、39:53-54)。
私たちの伝統にも赦しはある。初期の天師道以来、病人は自分の過ちを告白した。自分の名を記し、罪を認める手紙が、三通、天・地・水の三官に送られた。
反論
それなら、悪を行った者には赦しが必要だということで私たちは一致しています。問題は、誰がそれを与えられるのかです。クルアーンは答えます。「アッラーの外に、誰が罪を赦すことが出来ようか?」(3:135)。ですからムスリムは、呼びかけるすべての者を聞かれる神ご自身に向かいます(2:186)。かれは、かれに立ち返る者を赦されます(39:53-54)。
道教の伝統によれば、老子は神格化された太上老君として、142年に張道陵のもとに降臨した。張は、初期の道教運動の長である初代天師として敬われている。太上老君は彼と新しい契約、つまり聖なる約定を結んだ。初期の道教の注釈書『老子想爾注』は、一は道であり、形に集まれば太上老君であると言う。だから道もまた語ったのだ。
反論
それは啓示の主張であり、クルアーンも含め、他のどの主張とも同じように試されるべきものです(2:23、4:82)。一つの試験は、メッセージが何を教えるかです。真の使徒はみな「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と教えました(21:25)。そして神はどんな被造物の形もとられません。何もかれに似ていないからです(42:11)。
イスラームは、毎日の礼拝、断食、定められた法と、求めることが多すぎる。静けさと素朴さの道教の道の方が穏やかだ。
反論
イスラームが本当の努力を求めることは認めましょう。『道徳経』もそれを尊んでいます。「自ら勝つ者は強し」(33)。イスラームでは、その努力は私たちを造られたお方に向けられます。クルアーンは信仰者に、神は「宗教においてあなた方にいかなる困難も課されなかった」と告げています(22:78)。かれは人々にあらゆる易しさを望まれ(2:185)、どの魂にも負いきれないものを負わせられません(2:286)。礼拝はまた静けさをもたらします。「アッラーの唱念によってこそ、心は安らぐ」(13:28)。
イスラームの視点
イスラームは、神はご自身を名乗られ、かれに呼びかける者を聞かれ、使徒たちに語られ、かれに立ち返る者を赦されると言います。すべての魂は死を味わい、神は死者に再び命を与えられます。すべての崇拝はかれのものです。イスラームは一人ひとりの行く末を神に委ね、生き方そのものです。
神はご自身の声でご自身を名乗られ、人々にかれの名によってかれに祈願するよう告げておられます。
神は近くにおられます。かれに呼びかけるすべての者を聞かれ、応えると約束されています。
神は、霊感によって、帳の陰から、あるいは使徒を遣わすことによって人々に語られます。クルアーンは、自らがかれから下されたと言い、試験へと招いています。
罪を赦されるのは神だけです。かれは、かれの赦しを求めてかれに立ち返る者を誰でも赦されます。
すべての魂は死を味わいます。神は死者に再び命を与えられ、楽園は信仰し正しい行いをする者たちのためのものです。
すべての崇拝と祈りは神だけのものであり、誰もかれと並べて祈られてはなりません。
ムスリムは、イスラームの外で亡くなった人々のために神の赦しを乞いません(9:113)。使徒が届く前に罰される人はいません(17:15)。神は決して不正をされず(4:40)、特定の人の行く末を宣言してよいムスリムは一人もいません。
イスラームは、信仰、崇拝、法、家族、人柄を結びつける生き方そのものです。
預言者たちの封印ムハンマド(ﷺ)は、すべての人々に遣わされました。呼びかけは、神とその使徒を信じ、彼に従うことです。