短い答え
あなたの友人がいつかムスリムになるかどうかにかかわらず、本当の友人でありなさい。あなたが共有していることから始めなさい。両親、家族、学びを敬うこと、そして約束を守ることである。それからあなたの友人が死後に何が来ると信じているかを尋ね、耳を傾けなさい。イスラームが教えることを正直に穏やかに言いなさい(16:125)。決して寺院、その神々、あるいは誰の先祖をも嘲ってはならない(6:108)。もしあなたの友人があなたは自分を改宗させようとしているのかと尋ねるなら、否と言いなさい。ただ神だけが心を導かれる(28:56)。あなたは議論ではなく友好的な話し合いの中で彼らにイスラームを知ってもらっているのであり、選択は彼らのものである(2:256)。もし彼らが否と言うなら、ムスリムが教えられているように終わりなさい。「あなた方にはあなた方の宗教があり、私には我が宗教がある」(109:6)。それから友情を保ちなさい。先祖について正直でありなさい。ムスリムはイスラームの外で亡くなった者たちのために神の赦しを求めない(9:113)。その規則は彼自身の祈りのためのものであって、誰についての判決でもない。各人の行く末はただ神だけが判断されるものである(17:15、4:40)。話を政治から遠ざけておきなさい。「中国にまでも知識を求めよ」のような弱い話は省きなさい。それから中国の読者のために書かれたページを共に読み、クルアーンにそれ自身のために語らせなさい。
詳しい説明
あなたの友人が大切にしていることから始めよ
このガイドは、何を信じているにせよ、ムスリムでない中国の友人と話すためのものである。あなたの友人は両親、家族、学び、約束を守ることを第一にして育ったかもしれない。イスラームも神から、これらの務めを命じている。クルアーンは両親への親切を神の崇拝と並べている。イスラームは学びを敬っている。預言者(ﷺ)は、知識を求めて道をたどる者は誰でも、神は彼のために楽園への道を容易にしてくださると言った。クルアーンは信仰者たちにすべての約束を守るよう告げている。それが本当であるので、誠実にそう言いなさい。それからイスラームがどこで異なるかについて正直でありなさい。すべての崇拝はただ神だけに属し、この人生は審判で終わる。
“(人間よ、)あなたの主は、あなた方がかれ(アッラー)以外には何も崇拝することなく、両親には孝行を(せよ)、と命じられた。もし彼らの内の片方、あるいは二人とも、あなたの許で高齢に達したなら、彼らに対して「ちぇっ」と言ったり、彼らに居丈高になったりしてはならない。そして彼らには(いつも)、温かい言葉をかけてやるのだ。また彼らに、慈悲の念による謙虚さの翼を下ろし、(こう)言うのだ。「我が主よ、彼らにご慈悲をおかけ下さい。彼らが幼かった私を(優しくいたわって)そだててくれたように」。”
アブー・フライラは、善い行いとその報いについての預言者(ﷺ)のより長い言葉を伝えている。その中には、知識を求めて道を歩む者には、アッラーが楽園への道を易しくされる、そして人々がモスクに集まってクルアーンを読誦し、ともに学ぶとき、静穏が彼らに降り、慈悲が彼らを覆い、天使たちが彼らを取り囲む、というものがある。それは次の言葉で終わる。自分の行いによって遅れをとった者は、自分の家柄によって先へ進められることはない。
“また、孤児の財産には、それが最善の形でない限り、彼が成熟するまで近づいてはならない。そして契約を全うするのだ。実に契約は(復活の日)、問われることになるのだから。”
まず本当の友人でありなさい
あなたの友人がいつかムスリムになるかどうかにかかわらず、本当の友人でありなさい。ただ改宗させるためだけに誰かと友達になってはならない。クルアーンはムスリムに、信仰をめぐって彼らと戦わない者たちに親切に公正に接することを許している。それはまた、彼らを憎む人々に対してさえ、すべての者への公正を命じている(5:8)。導きは神が与えられるものであって、あなたのものではない。クルアーンは預言者(ﷺ)に告げている。「本当にあなたが、自分の好む者を導くのではない」。あなたの役目ははっきりと親切に語り、答えが何であれ友人のままでいることである。
“アッラーは、宗教においてあなた方と戦ってもおらず、あなた方をあなた方の家から追い出してもいない者たちに、あなた方が善行を施し、公正に接することを禁じていらっしゃるわけではない。本当にアッラーは、公正な者たちをお好みになるのだから。”
“(使徒よ、)本当にあなたが、自分の好む者を導くのではない。しかしアッラーが、かれのお望みになる者をお導きになるのであり、かれは導かれる者たちを最もよくご存知である。”
“(この)宗教に強制はない。実に正しさは、誤りから明確に分け隔てられたのだから。それで、ターグートを否定してアッラーを信仰する者は誰でも、決して外れることのない堅固な取っ手を確かに握り締めたのである。アッラーは、よくお聴きになるお方、全知者であられる。”
“信仰する者たちよ、アッラーのためによく(権利を)履行する者、正義の証人であれ。そしてある民に対する憎しみが、あなた方を公正の不履行へと向けてしまうようではならない。公正に徹するのだ。それがより敬虔さに近いのだから。そしてアッラーを畏れよ。本当にアッラーは、あなた方の行うことに通暁されているお方。”
死について尋ね、耳を傾けよ
あなたの友人に彼らが死後に何が起こると思っているかを尋ね、答える前に耳を傾けなさい。ある者は先祖について、ある者は輪廻について語り、ある者は誰も知ることはできないと言うであろう。ある弟子が孔子に死について尋ねたとき、彼はその問いをこの世へと向け返した。クルアーンはそれについて平明に語っている。すべての魂は死を味わい、完全な報いは審判の日に来る。神は誰が行いにおいて最も優れているかを試すために死と生を創られた。
“季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん」。曰く、「敢えて死を問う」。曰く、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」。”
“全ての者は、死を味わう。そして復活の日、あなた方は(現世での行いに対する)自分たちの褒美を、余すことなく授かるのだ。それで、誰でも(地獄の)業火から遠ざけられ、天国に入れられた者は、確かに(自分が望む最高のものを)勝ち取ったのである。現世の生活は、偽りの楽しみに過ぎない。”
“(人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびないお方、赦し深いお方であられる。”
穏やかな言葉と本当の問い
クルアーンはムスリムに英知とよき訓戒によって招き、最善の仕方で議論するよう告げている。それは彼らがほかの者たちが神のほかに呼び求めるものを罵ることを禁じている。預言者(ﷺ)はアーイシャに穏やかであれと告げた。神はすべての事柄において穏やかさを愛されるからである。彼は、自分は呪うためにではなく、慈悲として遣わされたと言った。それで決して寺院、寺院の神、あるいは誰の先祖をも嘲ってはならない。決して慈悲の仏教の像である観音や、海の女神である媽祖の像を嘲ってはならない。誰の習慣も小さく見せる言葉を用いてはならない。イスラームが何を教え、なぜかをはっきりと親切に言いなさい。問いも問いなさい。「誰が世界を造ったのか?」「誰が祈りを聞くのか?」「死後に何が起こるのか?」 一度に一つの点を取り、あなたの友人が十分になったら止めなさい。
“(使徒よ、また、彼に従う者よ、)英知とよき訓戒によってあなたの主の道へと招き、最善の形で彼らと議論するのだ。本当にあなたの主こそは、その道から迷った者のことを最もよくご存知であり、導かれた者たちのことも最もよくご存知であるのだから。”
“(ムスリムたちよ、)あなた方は、彼らがアッラーを差しおいて祈っているものを、罵ったりしてはならない。そうすれば彼らは度を越して、知識もないままに、アッラーのことを罵ってしまうだろう。同様にわれらは、各共同体にその行いを目映く見せたのだ。その後、彼らの主の御許こそは、彼らの戻る場所なのであり、かれは彼らが行っていたことについて、彼らにお告げになるのである。”
アーイシャによれば、何人かのユダヤ人が預言者(ﷺ)に「あなたに死あれ」と挨拶し、彼女は彼らを呪い返した。彼は彼女に穏やかであるよう告げた。アッラーはあらゆることにおいて穏やかさを愛されるからである。彼らの言ったことを聞かなかったのかと彼女が尋ねると、彼は、自分は彼らに「あなたがたにも」とだけ答えたと答えた。
アブー・フライラによれば、ある者がアッラーの使徒(ﷺ)に多神教徒を呪うよう求めた。彼は、自分は呪う者としてではなく、慈悲として遣わされたと答えた。
先祖:正直であれ
あなたの友人はムスリムでなかった両親と祖父母について尋ねるであろう。決して「あなたは祖父母の赦しのために祈ることができる」と約束してはならない。クルアーンが与える答えを与えなさい。それは、近い家族でさえ、崇拝においてほかのものを神に並べた者たちについて語っている。それは、預言者(ﷺ)と信仰者たちが彼らの赦しのために祈ることはふさわしくないと言っている。その節は条件を加えている。「火獄の徒であることが彼らに明白になった後には」。それでムスリムはイスラームの外で亡くなった親族のために神の赦しを求めない。それは彼自身の祈りのための規則である。それはその人についての判決ではない。神は「使徒を遣わすまで」怒りを下されず、「本当にアッラーは、ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない」。どのムスリムも特定の人の行く末を宣言してはならない。それは神に属する。それからあなたの友人に希望のある部分を告げなさい。人の行いは死に際して終わるが、続く施し、役に立つ知識、その人のために祈る正しい子供は別である。もしあなたの友人がムスリムになるなら、その鎖は彼らと共に始まる。彼ら自身の子供たちの祈り、そして彼ら自身の続く施しは、彼らが死んだ後に彼らに届くことができる。
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
“導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ。また(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。そしてわれらは使徒を遣わすまで、(いかなる民も)罰することなどないのである。”
“本当にアッラーは、ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない。そして(その僅かなものが)善行であるならば、それを何倍にもされ、そしてその御許から、偉大なる褒美をお授けになるのだ。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、人が死ぬと、その行いは三つを除いて終わると言った。続く施し、人々が益を得る知識、そして彼のために祈る正しい子である。
両親への親切は続く
あなたの友人に、イスラームは誰にも家族から背を向けるよう求めていないと告げなさい。クルアーンは、もし両親が子に神のほかにほかのものを崇拝するよう迫るなら、彼はそれにおいて彼らに従うべきではないと言う。けれども彼はなお「現世において、彼らに適切な形で同伴せよ」。善の最も優れた行いの中に、父が去った後に、父が愛した人々との絆を保つことがある。ムスリムは彼らが生きている間は親切によって、その後は彼らの絆を保つことによって両親を敬う。
“そして(信仰者の息子よ、)もし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫ってきたならば、彼らに従うのではない。また現世において、彼らに適切な形で同伴せよ。そしてわれによく(悔悟して)立ち返る者の道に従うのだ。それからわれにこそ、あなた方の帰り所があるのであり、われは自分たちが(現世で)行っていたことについて、あなた方に告げ聞かせるのである」ーー。”
“(人間よ、)あなたの主は、あなた方がかれ(アッラー)以外には何も崇拝することなく、両親には孝行を(せよ)、と命じられた。もし彼らの内の片方、あるいは二人とも、あなたの許で高齢に達したなら、彼らに対して「ちぇっ」と言ったり、彼らに居丈高になったりしてはならない。そして彼らには(いつも)、温かい言葉をかけてやるのだ。また彼らに、慈悲の念による謙虚さの翼を下ろし、(こう)言うのだ。「我が主よ、彼らにご慈悲をおかけ下さい。彼らが幼かった私を(優しくいたわって)そだててくれたように」。”
アブドゥッラー・イブン・ウマルは、父親がウマルの友人であった砂漠のアラブ人に自分のロバとターバンを与えた。彼は、預言者(ﷺ)が、最も優れた善行の一つは、人が父親の亡き後、父親の愛した人々との絆を保つことであると言うのを聞いたと説明した。
もし政治が持ち出されたら
友人はニュースや今日起こっていることを持ち出すかもしれない。話を政治に変えてはならない。これはあなた自身の国も含め、どの国の政治についても成り立つ。政府についての議論に勝つことはあなたの目的ではない。あなたが話したいと望むのは、私たちを造られた神と死後の生についてである。親切に耳を傾け、自分はむしろ信仰について話したいと正直に言い、それらの問いに戻りなさい。預言者(ﷺ)はこう言うよう告げられた。「これは、我が道。…アッラー(のみへの崇拝)へと招く」。
“(使徒よ、)言え。「これは、我が道。私も、私に従った者たちも確証に基づき、アッラー(のみへの崇拝)へと招く。アッラーに称えあれ、私はシルクの徒の類いではない」。”
“(使徒よ、また、彼に従う者よ、)英知とよき訓戒によってあなたの主の道へと招き、最善の形で彼らと議論するのだ。本当にあなたの主こそは、その道から迷った者のことを最もよくご存知であり、導かれた者たちのことも最もよくご存知であるのだから。”
用いてはならないもの
あるよく知られた文句は弱いか真実でない。それらを省きなさい。ムスリムはただ自分が真実と知ることだけを言うからである(17:36)。「中国にまでも知識を求めよ」はブハーリーにもムスリムにもない。イブン・ヒッバーンやイブン・アル=ジャウズィーのようなハディース学者たちはそれを退けた。ある伝承は、サアド・イブン・アビー・ワッカースがイスラームを中国にもたらし、広州に葬られていると言っている。歴史家たちはそれを疑っている。サヒーフ・ムスリムは、サアドが亡くなったとき、彼の棺は礼拝のためにマディーナの預言者(ﷺ)のモスクに運び込まれたと伝えている。唐の太宗がターバンを巻いた男を夢に見てムスリムを呼び寄せたという伝説を歴史として語ってはならない。唐の歴史自身が最初のアラブの使節を651年に年代づけている。孔子や老子が預言者であったと言ってはならない。誰も自分が知らないことを主張してはならない。上帝は最も古い中国の書の「上帝」である。「上帝はアッラーである」と言ったり、中国語の語から論じたりしてはならない。道は『道徳経』の道である。イスラームが孔子の教えや道を完成させるとか、その本当の形であるとか言ってはならない。イスラーム自身の答えをもって先導しなさい。そしてどの有名なムスリムの生涯も証明として差し出してはならない。証拠はクルアーンと預言者(ﷺ)であって、どの追随者がしたことでもない。
「たとえ中国にあっても知識を求めよ」という言葉を検討している。アル=バイハキー(『シュアブ・アル=イーマーン』)がその伝承経路を弱いとし、イブン・ヒッバーン(『アル=マジュルーヒーン』)が根拠がないとし、イブン・アル=ジャウズィー(『アル=マウドゥーアート』)が捏造と判断したことを伝えている。アッ=スユーティーはその多くの経路がそれをハサンにするかもしれないと考えたことを指摘しているが、それは非常に弱いと結論している。
回族のムスリムの長い伝統が、預言者(ﷺ)の親族であるサアド・イブン・アビー・ワッカースを、中国にイスラームをもたらした人としていると言う。多くの人はその物語を歴史として信じがたいと考えているが、サアドはなお広州の二つの場所、懐聖寺と、彼が葬られているといわれる墓と結びつけられていると言う。
アーイシャによれば、サアド・イブン・アビー・ワッカースが亡くなったとき、預言者(ﷺ)の妻たちは、彼のために礼拝できるよう彼の棺をモスクに運び入れるよう求めた。それは彼女たちの部屋の前に置かれ、彼女たちは彼のために礼拝し、それはバーブ・アル=ジャナーイズと呼ばれる門から運び出された。
唐朝の正史である『旧唐書』には、アラブ人を指す中国名である大食についての項目がある。それは、永徽二年(651年)に彼らが初めて唐の宮廷に使節を送ったことを記録している。この項目はアラブ人の地についての旅人の話も繰り返しているが、ここでは使節の年代だけを用いる。同じ項目は、後の皇帝代宗が元帥として、大食国の兵を用いて二つの都を回復したと言う(757年)。同じ巻の波斯(ペルシア)の項目は、758年に波斯と大食が広州を襲い、その倉庫を略奪し、家々を焼き、海から去ったことを記録している。
“また(人間よ)、あなたの知識のないものに従ってはならない。実に聴覚も視覚も心も、それら全ては、それについて問われることになるのだから。”
中国のムスリムの学者たちがどのようにイスラームを説明したか
1600年代から、中国のムスリムの学者たちは古典中国語でイスラームについて書いた。その中には王岱輿、馬注、劉智がいた。イスラームについての彼らの中国語の書は漢キターブと呼ばれている。彼らは中国の学問の言葉を用いてイスラームの信仰を述べ、劉智はイスラームの儀礼の法についての書を書いた。王岱輿はイスラームの基本的な真理を固く保った。彼は朱熹のような学者たちの儒教哲学である新儒教の思想の言葉で書いた。彼はその言葉を用いて新儒家自身の基本的な考えのいくつかを批判し、イスラームを擁護した。あなたのための教訓。あなたの友人が理解する平明な言葉を用いなさい。しかし決して上帝、天、あるいは道が神であると言ってはならない。クルアーンが神は何であると言っているかを説明しなさい。ページ「理と気がすべての背後にあるのか?」が馬注の論を述べている。そこでの理と気は原理と物質的な力を意味する。
リップマンは、中国のムスリムの学者たちが書いた、イスラームについての中国語の書物である漢キターブを描いている。南京の王岱輿は1642年に『正教真詮』を出版した。これは現存するそのような著作で最も古いものである。リップマンは、王はイスラームの基本的な真理を守り、その信仰と実践を擁護したが、程兄弟と朱熹の新儒教の学派の語彙で書いたと言う。彼の最初の章は神の唯一性と創造についてである。王はその哲学の言語全体を用いて、その基本的な考えのいくつかを批判し、イスラームを擁護した。馬注の『清真指南』と、これらの著者の中で最も名高い劉智の書物が続いた。劉智はイスラームの五行(五つの柱)についても書いた。
清代の最も重要な中国のムスリムの学者の一人、劉智(1660年頃-1730年頃)を研究している。中国のムスリムの学者の網の目が古典中国語でイスラームについて書き、その書物は漢キターブとして知られていると言う。それは劉智の著作、中でも『天方典礼』(イスラームの儀礼の法)を研究している。イスラームは1,200年以上前に初めて中国に来たが、千年以上の間、そこでは外来の存在とみなされていたと言う。
共に読むべきページ
このサイトには中国の読者のために書かれたページがある。あなたの友人に合うものを分かち合いなさい。孔子の教えによって生きる友人は「私は孔子の教えに従っています。なぜイスラームを考えるべきなのですか?」から始めることができる。それから「孔子は死の後に何が来るかを私たちに告げたのか?」と「孝:イスラームも両親を敬うのか?」を試しなさい。道教徒の友人のためには。「私は道教徒です。なぜイスラームを考えるべきなのですか?」、「道は神と同じなのか?」、「『道徳経』は神から来たものなのか?」。家族の祭壇を保ち寺院を訪れる友人のためには。「私たちはどのように先祖を敬うべきか?」と「誰が寺で祈りに答えるのか?」。仏教徒の友人、あるいは観音に祈る友人のためには、二つのページが合う。「私は仏教徒です。なぜイスラームを考えるべきなのですか?」と「誰かがブッダや菩薩に祈るべきか?」を読みなさい。キリスト教徒の友人のためには。「イスラームとキリスト教には何が共通しているのか?」と「イエスは神なのか?」。キリスト教徒とは、クルアーンはただ最善の仕方でだけ議論し、「私たちの神と、あなた方の神は一つであり」と言えと言っている。宗教を持たない友人のためには。「中国人で宗教を持っていない私が、なぜイスラームを考えるべきなのか?」と「よい人であれば十分なのか?」。自分の文化を失うことを恐れる友人は「ムスリムになったら、私は中国の文化を失うのか?」を読むことができる。二つのページはすべての者に合う。「古代中国は唯一の神を知っていたのか?」と「イスラームはどのようにして中国に来たのか?」。
“(信仰者たちよ、)最善の形でなくして、啓典の民と議論してはならない。但し彼らの内でも、不正を働いた者たちは別である。そして、言うのだ「私たちは自分たちに下されたものを信じる。また、私たちの神と、あなた方の神は一つであり、私たちはかれ(アッラー)に服従する者(ムスリム)なのである」。”
イスラームの答え、そしてあなたの役目
最後に、あなたの友人をイスラームそのものへと招きなさい。イスラームは完全な生き方(ディーン)である。信仰、崇拝、法、家族、人格が共にある。ページ「イスラームとは何か?」がそれを一か所で示している。クルアーンは試されることを求めている。それに似た一章を作り出せ。それは、預言者(ﷺ)はすべての人々に遣わされたと言い、彼を預言者たちの封印、その最後の者と呼んでいる。あなたの役目ははっきりと親切に語ることである。宗教に強制はないので、選択はあなたの友人のものである。神へと呼び、善を行う者より言葉において優れた者が誰であろうか? 招くことはあなたの役目である。心を導くことはただ神だけのものである。だからこそ、もしあなたの友人があなたは自分を改宗させようとしているのかと尋ねるなら、正直な答えは否なのである。
“この日われはあなた方のために、あなた方の宗教を完成させ、あなた方へのわが恩恵を全うし、イスラームがあなた方への宗教であることに満足した。”
“信仰する者たちよ、余すことなく平安の内に入れ。そしてシャイターンの歩みに従ってはならない。本当に彼はあなた方にとって、紛れもない敵なのだから。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
“ムハンマドはそもそも、あなた方の男性の内の、誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒、預言者たちの封印なのだ。そしてアッラーはもとより、全てのことをご存知のお方。”
“(この)宗教に強制はない。実に正しさは、誤りから明確に分け隔てられたのだから。それで、ターグートを否定してアッラーを信仰する者は誰でも、決して外れることのない堅固な取っ手を確かに握り締めたのである。アッラーは、よくお聴きになるお方、全知者であられる。”
“アッラー(の唯一性と崇拝)へと招き、正しい行いを行い、「本当に私は、服従する者(ムスリム)の一人です」と言う者よりも、善い言葉の者がいようか?”
“(使徒よ、)本当にあなたが、自分の好む者を導くのではない。しかしアッラーが、かれのお望みになる者をお導きになるのであり、かれは導かれる者たちを最もよくご存知である。”
あなたの友人が言うかもしれないこと
クルアーン 9:113 — 悔悟章、第113節
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
引用の目的
それならあなたの宗教は私の祖父母は地獄にいると言っているのだ。
応答
イスラームの外で亡くなった者たちのために、ムスリムは神の赦しを求めない(9:113)。それは彼自身の祈りのための規則である。それはあなたの祖父母についての判決ではない。その節はその条件を与えている。「火獄の徒であることが彼らに明白になった後には」。クルアーンはまた、神は「使徒を遣わすまで」怒りを下されないと言う(17:15)。かれは「ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない」(4:40)。どのムスリムも誰の行く末をも宣言してはならない。それは神に属する。
結論 — イスラームは祈りのための自分の規則を公然と述べ、各人の行く末を誰にも不正を働かれない神に委ねる。
クルアーン 17:15 — 夜の旅章、第15節
“導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ。また(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。そしてわれらは使徒を遣わすまで、(いかなる民も)罰することなどないのである。”
引用の目的
もし私の祖父母が誰も彼らに告げなかったから安全でありうるなら、なぜあなたは私に告げているのか?
応答
私たちは彼らが安全だとも失われているとも言わない。それは各人に何が届いたかをご存じの神のものである。しかし使信は今あなたに届いている。同じ節は言う。「導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ」。私がそれをあなたに告げるのは、それが真実であると信じており、その善をあなたに望んでいるからである。
結論 — 使信はそれが届く者には誰にでも賜物であり、それを聞く者には誰にでも選択である。神は各人を公正に判断される。
クルアーン 2:256 — 雌牛章、第256節
“(この)宗教に強制はない。実に正しさは、誤りから明確に分け隔てられたのだから。それで、ターグートを否定してアッラーを信仰する者は誰でも、決して外れることのない堅固な取っ手を確かに握り締めたのである。アッラーは、よくお聴きになるお方、全知者であられる。”
引用の目的
あなたは私を改宗させようとしているのか?
応答
いいえ。私はあなたにイスラームを知ってもらっているのであり、私たちはただ友好的な話し合いをしているだけで、議論ではない。私は誰にも信じさせることはできない。クルアーンは預言者(ﷺ)にさえ、彼は自分が愛するすべての者を導くことはできないが、神はかれが望まれる者を導かれると告げている。それはまた言う。「(この)宗教に強制はない」。それで選択はあなたのものである。読み、考え、自分で決めなさい。もしあなたがイスラームは自分のためのものではないと決めるなら、私はクルアーンが教えることを言うであろう。「あなた方にはあなた方の宗教があり、私には我が宗教がある」。あなたが何を決めようとも、私はなおあなたの友人である。
結論 — ムスリムは友好的な話し合いの中でイスラームを分かち合い、誰にも押しつけない。選択は友人のものであり、もしそれが否なら、友情は続く。
クルアーン 6:108 — 家畜章、第108節
“(ムスリムたちよ、)あなた方は、彼らがアッラーを差しおいて祈っているものを、罵ったりしてはならない。そうすれば彼らは度を越して、知識もないままに、アッラーのことを罵ってしまうだろう。同様にわれらは、各共同体にその行いを目映く見せたのだ。その後、彼らの主の御許こそは、彼らの戻る場所なのであり、かれは彼らが行っていたことについて、彼らにお告げになるのである。”
引用の目的
あなたは私たちの寺院の神々を無だと思っている。
応答
私は彼らを嘲らない。クルアーンはムスリムにほかの者たちが呼び求めるものを罵ることを禁じている。しかしそれはまた、神のほかに呼び求められる者たちは「薄皮すら有してはいない」と言っている。それで私はただ神だけに祈り、あなたにも同じことをするよう招く。
結論 — 人への敬意と崇拝についての明らかな答えは共に行く。
クルアーン 7:158 — 高壁章、第158節
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
引用の目的
イスラームはアラブ人の宗教である。私は中国人である。
応答
クルアーンは、預言者(ﷺ)はすべての人々に遣わされたと言う。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である」。神は「あなた方が知り合うべく」民族と部族を造られた。回族は中国語を話すムスリムである。
結論 — 使信は常に、中国人も含めすべての民のためのものであった。
さまざまな視点
友人が言うかもしれないこと:家族と伝統
ある友人は宗教を家族を通して見ている。先祖、両親、そして彼らを共に保つ習慣である。
家族の儀礼を離れることは、私の両親と先祖を辱めることになるであろう。
反論
イスラームは両親がムスリムでないときでさえ彼らへの親切を命じている(31:15)。ムスリムは彼らが生きている間は世話によって、彼らが去った後は彼らの絆を保つことによって彼らを敬う。変わるのは崇拝であり、それはただ神だけに向かう(17:23)。
イスラームは私の祖父母が地獄にいると言っている。
反論
ムスリムはイスラームの外で亡くなった者たちのために神の赦しを求めない(9:113)。その規則は彼自身の祈りのためのものであって、誰についての判決でもない。神は彼らに警告する使徒が来るまで誰も罰せられず(17:15)、かれは誰にも不正を働かれない(4:40)。各人の行く末はただかれだけが判断されるものである。
イスラームは外国の宗教であり、アラブ人のためのものであって、中国人のためのものではない。
反論
クルアーンは、預言者(ﷺ)はすべての人々に遣わされたと言う(7:158)。神は人々が互いに知り合うように民族と部族を造られた(49:13)。回族は中国語を話すムスリムである。
友人が言うかもしれないこと:孔子はこの世にとどまった
孔子の教えによって生きる友人は、人々への務めが第一に来ると言うかもしれない。霊と死は、と彼は言うかもしれない、放っておくのが最善である。
知とは、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざくることである。
反論
イスラームでは、どの霊も全く仕えられるべきではない。すべての崇拝はただ神だけに向かう(4:36)。しかし遠ざけることは最も大きな問いを開いたままにする。もし造り主が死について語られたなら、かれの言葉は試されるべきであり、クルアーンは試されることを求めている(2:23)。
未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。それでまずこの世に心を向けよ。
反論
孔子は生を第一にしたが、死には答えがないとは言わなかった。もし神がそれについて語られたなら、かれの言葉は試すことができる(2:23)。クルアーンは、かれは誰が行いにおいて最も優れているかを試すために死と生を創られたと言う(67:2)。
イスラームの視点
英知と穏やかさをもって、誠実に、そして一度に一つの点で招きなさい。各人の行く末を神に委ね、選択をあなたの友人に委ねなさい。
ムスリムは英知とよき訓戒によって招くよう告げられている。彼らはほかの者たちが神のほかに呼び求めるものを罵らないよう告げられている。
神はすべての事柄において穏やかさを愛され、預言者(ﷺ)は呪うためにではなく、慈悲として遣わされた。
ムスリムはイスラームの外で亡くなった者たちのために神の赦しを求めない(9:113)。誰も使徒が彼らに届く前に罰せられず(17:15)、どのムスリムも特定の人の行く末を宣言してはならない。
ただ真正なものだけが用いられる。誰も自分が知らないことを主張してはならない。
宗教に強制はない。ムスリムは伝え、選択は聞き手のものである。