短い答え
神が唯一であると信じることはそれだけでは足りない。クルアーンはただかれだけが崇拝されることを求めている。それは、メッカの人々もまたアッラー(﷾)が彼らを、そして天と地を創られたと信じていたと言う。けれども彼らはほかの存在を崇拝し、これらが彼らを神により近づけ、彼らのために執り成すと言っていた。すべての使徒は、とクルアーンは言う、一つの使信をもたらした。アッラー(﷾)のほかに神はない、それゆえかれを崇拝せよ。ヒンドゥー教の聖典『ギーター』も同じ方向を指している。クリシュナは、その崇拝がただ一つの存在に向けられている人を最も高く位置づけている。彼は非常に行いの悪い人でさえ、「他の誰をも崇拝せずに」彼を崇拝するなら善いと呼んでいる。けれども家庭と寺院における多くのヒンドゥー教の崇拝は多くの神々とその像に与えられている。ヒンドゥー教徒が与える答えには下で答える。イスラームは礼拝、平伏、供え物をただ神だけに与える。
詳しい説明
ヒンドゥー教の答え:私たちはすでに唯一の神を信じている
多くのヒンドゥー教徒は、自分たちはすでに唯一の神を信じていると答える。イーシュワラ、バグワーン、パラマートマー、これらは至高の神の名である。ヒンドゥー教の聖典『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』はかれを神々の中の最高の神、主たちの主、世界の主と呼んでいる。1030年頃、ムスリムの学者ビールーニーは、ヒンドゥー教徒は神を唯一、永遠、全能であり、すべての似姿を超えたものとしていると報告した。1893年のシカゴで、ヒンドゥー教の僧スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは宗教会議に、インドには多くの神々への信仰はないと告げた。どの寺院でも、と彼は言った、崇拝者たちは像に神のすべての性質を与えている。この見解では、神々は唯一者の力であり僕である。ラーマーヌジャは十一世紀と十二世紀のヒンドゥー教の師であった。ヴィシシュタードヴァイタと呼ばれる彼の学派は、魂と物質は主の体であるとしている。彼は、インドラとほかの神々も主の体の一部であると教えている。それで彼らにささげられるものは本当はかれにささげられている。それで、と多くのヒンドゥー教徒は問う、ムスリムになることは何を加えるのか?
“主たちの最高の大いなる主、神々の最高の神、主人たちの主人、上なる最高者、神として、世界の主として、崇めるべき者を、われわれは知ろう。”
“教養ある人々と教養のない人々の信仰は、どの国民においても異なる。前者は抽象的な観念を思い描き、一般的な原理を定めようと努めるが、後者は感覚による把握を越えず、細部を気にかけずに派生した規則で満足するからである。とりわけ意見と利害が分かれる宗教と法の問題においてそうである。ヒンドゥー教徒は神について、彼は唯一であり、永遠であり、始めも終わりもなく、自由意志によって行い、全能であり、全知であり、生きており、生命を与え、支配し、保つ者であり、その主権において比類なく、あらゆる類似と非類似を超えており、彼は何ものにも似ず、何ものも彼に似ていないと信じている。これを例示するために、読者がわれわれの説明は伝聞にすぎないと思わないよう、彼らの文献からいくつかの抜粋を示そう。”
“さて、哲学の高い志から無学な者の宗教へと降りてみようか。まず最初に申し上げておくが、インドには多神教はない。どの寺院でも、そばに立って耳を傾ければ、礼拝者たちが遍在を含む神のすべての属性をこれらの像に当てはめているのがわかるであろう。それは多神教ではなく、単一神教という名もわれわれの問いに答えはしないであろう。”
“インドラその他の下位の神々の崇拝者で、三ヴェーダの系統に従い、インドラなどに向けた供犠を行う者たちもまた、実際には私自身にそれを向けているのである。前に述べた理由により、(インドラなど)すべては私の身体を形づくり、私はその魂だからである。そしてインドラなどのあらゆる語は、私自身を指すことにその究極の意味を見いだす。しかし彼らはこの形、あるいは法則を知らずに供犠を行うのである。”
創造主への信仰は決してそのすべてではなかった
クルアーンは、預言者(ﷺ)が最初に説いたメッカの人々の間でこの信仰に出会った。誰が天と地を創ったのか、あるいは誰が人々自身を創ったのかと尋ねられれば、彼らは答えたであろう。アッラー(﷾)である。けれども彼らはかれと並べてほかの存在を崇拝した。彼らは、自分たちはただアッラー(﷾)により近づけられるためにだけそれらに仕えていると言い、それらを自分たちの執り成し手(ほかの者のためにかれに嘆願する者)と呼んだ。クルアーンはどちらの理由も受け入れていない。それは、誠実な献身はただアッラー(﷾)だけに負うものであると言い、彼らはアッラー(﷾)にかれがご存じないことを告げるのかと問う。それはその事柄を一行でまとめている。彼らのほとんどは、かれに同位者を与えることなしにはアッラー(﷾)を信じない。創造主としての神について、メッカの人々とクルアーンは一致していた。彼らは崇拝をめぐって別れた。あるヒンドゥー教徒は、イスラームはただアラブ人の高位の神を保って残りを落としただけだと答える。しかしアッラー(﷾)は単に神を表すアラビア語の語であり、アラブのキリスト教徒もそれを用いている。メッカの人々を驚かせたのは新しい名ではなかった。それはただかれだけを崇拝せよという呼びかけであった。「一体彼は、神々を一つの神とするというのか?本当にこれは、まさしく驚愕すべきこと」。
“(使徒よ、)もしも、あなたが彼ら(シルクの徒)に「諸天と大地をお創りになり、太陽と月を仕えさせられたお方は誰なのか?」と尋ねれば、彼らは決まって(こう)言うのだ。「アッラーである」。ならば一体、どうしてあなた方は(アッラーの信仰から)背かされるのか?”
“(使徒よ、)もしもあなたが彼らに、誰が彼らを創ったのかと尋ねたならば、彼らは必ずや(こう)言ったことだろう。「アッラーである」。では、どうして彼らは(アッラーだけを崇拝することから)背かされるのか?”
“アッラーにこそ、純粋な宗教が属するのではないか。けれども、かれをよそに庇護者を設ける者たちは、(こう言っている。)「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。本当にアッラーは(復活の日)、彼ら(信仰者とシルクの徒)が意見を異にしていたことにおいて、彼らの間をお裁きになる。本当にアッラーは、噓つきで不信仰この上ない者を、お導きにならないのだ。”
“彼ら(シルクの徒)はアッラーを差しおいて、彼らを害しなければ、益もしないようなものを崇めている。そして(彼らは、)言うのだ。「この者たちはアッラーの御許での、私たちの執り成し手なのである」。(使徒よ、)言ってやるがいい。「アッラーに対し、かれが諸天においても大地においても関知されないことを、申し上げるというのか?」かれに称えあれ、かれは彼らがシルクを犯しているものから(無縁で)、遥かに高遠なお方。”
“また彼らの大半は、シルクの徒であることなくして、アッラーを信じることがない。”
1865年に完成し、いまもアラビア語を話すプロテスタントの標準的な聖書であるスミス=ヴァン・ダイク訳アラビア語聖書は、創世記1:1を「初めにアッラーは天と地とを創造された」で始めている。全体を通して、神を表す語はアッラーである。
“一体彼は、神々を一つの神とするというのか?本当にこれは、まさしく驚愕すべきこと」。”
すべての使徒からの一つの使信:ただかれだけを崇拝せよ
クルアーンは、神が遣わされたすべての使徒は一つの使信を与えられたと言う。アッラー(﷾)のほかに神はない、それゆえかれを崇拝し、かれに仕えよ。それは、すべての民に使徒が遣わされ、アッラー(﷾)に仕えよという命令が与えられたと言う。ここでの崇拝は信仰以上のものである。それは礼拝と犠牲であり、クルアーンは預言者(ﷺ)に、それらは同位者を持たれないアッラー(﷾)だけのためのものであると宣言するよう告げている。それはまた助けを求めて神に呼びかけることでもある。礼拝の場所はかれのものであるので、誰もかれと共に呼び求められてはならない。すべての礼拝の中で、ムスリムはクルアーンの最初の章の言葉を繰り返す。「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」。
“また、われらはあなた以前、「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と啓示することなしには、いかなる使徒も遣わさなかった。”
“われらは確かに、あらゆる共同体へと使徒を遣わし(て、こう伝えさせ)た。「アッラー(だけ)を崇拝し、ターグートを避けよ」。そして彼らの内には、アッラーがお導きになった者もあり、また彼らの内には、(誤った道に頑迷に従ったことで、)迷妄が確定した者もある。ならば、あなた方は地上を旅し、(使徒たちを)嘘つき呼ばわりした者たちの結末が、いかなるものであったかを見てみるがよい。”
“言え。「本当に私の礼拝も犠牲も、生も死も、全創造物の主アッラーのためのみ。かれには(その唯一性において、)いかなる同位者もない。私はそれこそを命じられたのだ。そして私は(我が共同体において)、服従する者(ムスリム)の先駆けなのである」。”
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
『ギーター』の最も高い崇拝はただ一人だけに与えられる
最もよく知られたヒンドゥー教の聖典『ギーター』は、それ自身の言葉で同じ線を引いている。その中で、クリシュナは彼を崇拝する四種類の善い人を名指している。彼は、その崇拝がただ一つの存在に向けられている知識を持つ人(エーカ・バクティ)を最も高く位置づけている。彼は、非常に行いの悪い人でさえ、「他の誰をも崇拝せずに」(アナニヤ・バーク)彼を崇拝するなら、善い者とみなされねばならないと言う。そのような人はよく決意したのである。『ギーター』を翻訳したヒンドゥー教の裁判官K・T・テランはその決意を説明している。至高の存在のみが崇められるべきであると。『ギーター』はまた崇拝を、ただ信じられるだけでなく、与えられるものとして扱っている。クリシュナは自分をすべての供犠の主と呼び、神々に誓いを立てる者は神々のもとへ行くと言う。信をもって崇拝するほかの神々の信者たちは、と彼は言う、規則によらずに(アヴィディ・プールヴァカム)彼を崇拝しており、彼を本当には知らず、落ちる。
“これらの中で、知識を持ち、常に専心し、その崇拝がただ一つの(存在)に(向けられている)者が、最も高く尊ばれる。知識ある人にとって私は何よりも愛しく、彼は私にとって愛しいからである。”
“たとえ非常に行いの悪い人であっても、他の誰をも崇拝せずに私を崇拝するなら、彼はよく決意したのであるから、確かに善い者とみなされねばならない。”
“すなわち、至高の存在のみが崇められるべきであると。”
“クンティーの子よ、他の神々の信者となって信をもって崇拝する者たちでさえ、私だけを崇拝しているのである(が)、規則に外れて。私はすべての供犠の享受者であり、また主だからである。しかし彼らは私を真に知らない。それゆえ彼らは堕ちるのである。神々に誓いを立てる者は神々のもとへ行き、祖霊に誓いを立てる者は祖霊のもとへ行き、ブータを崇拝する者はブータのもとへ行き、同じく私を崇拝する者たちは私のもとへ来る。”
神の僕は敬われるのであって、崇拝されるのではない
多くのヒンドゥー教徒は、自分たちは神々を神として崇拝しているのではなく、かれの僕として敬っているのだと言う。イスラームもまた神の敬われた僕を信じている。天使たちである。クルアーンは彼らを、かれの命令によって行動し、ただかれが嘉される者のためにだけ執り成す、栄誉に高められた僕と呼んでいる。イスラームは彼らにどんな礼拝も、平伏(額を地につけて身をかがめること)も、供え物も与えない。どの預言者も、とクルアーンは言う、人々に天使たちや預言者たちを主とせよとは告げないであろうし、天使たちは自分たちを崇拝した者たちを否認するであろう。人々がアッラー(﷾)のほかに呼び求めるすべての者について、それは、彼らは彼らに呼びかける者たちと同じような僕であると言う。ある存在が神の僕であることこそ、それに祈らない理由なのである。ラーマーヌジャは、神々は主の体を成していると教える。彼は彼らにささげられる儀式を、「その崇拝の真の対象」である主の崇拝と数えている。もし主が真の対象なら、かれは直接崇拝されうる。神は、王が大臣を必要とするように祈りを聞くための仲介者を必要とされない。かれは近くにおられ、すべての嘆願者の祈りを聞かれる。
“彼ら(シルクの徒)は言った。「慈悲あまねきお方(アッラー)は、(天使たちという)御子をもうけられた」。アッラーに称えあれ。いや、(彼らは)誉れ高き僕なのである。彼らは、かれ(アッラー)に対して言葉を先んじることなく、かれのご命令に沿って行動するのだ。かれは、彼ら(天使たち)の前にあるものも、その背後にあるものも、ご存知である。また彼らは、かれ(アッラー)がご満悦になられた、者に対してしか、執り成しをしない。そして彼らは、かれへの畏怖ゆえに、怯える者たちなのだ。”
“アッラーが人間に、啓典と英知と預言者としての天分を授けられた後、その者が人々に向かって「アッラーを差しおいて、私を崇拝せよ」などと言うことはありえない。しかし(そのような者は、こう命じるのが当然なのだ。)「あなた方は、啓典を教え、自らも学んできたことによって、学識豊かな指導者となるのだ」。また(そのような者が、)「天使や預言者たちを主とせよ」などと、あなた方に命じることも(、ありえない)。一体、あなた方が服従する者(ムスリム)となった後、(彼が)あなた方に不信仰を命じることなどがあろうか?”
“かれ(アッラー)が彼ら(シルクの徒)全員を招集され、それから天使たちに(こう)仰せられる日のこと(を思い起こさせよ)。「一体これらの者たちは、あなた方(天使たち)のことを崇めていたのか?」彼ら(天使たち)は申し上げる。「あなたに称えあれ。彼らは無関係で、あなたこそが私たちの庇護者です。いえ、彼らはジンを崇めていました。彼らの大半は、彼ら(ジン)のことを信じて(従って)いたのです」。”
“本当に、あなた方がアッラーを差しおいて祈っているものは、あなた方同様(アッラー)の僕たちなのだ。ならば、それらを呼び、あなた方に応えさせてみるがいい。もし、あなた方が本当のことを言っているのならば。”
“インドラその他の下位の神々の崇拝者で、三ヴェーダの系統に従い、インドラなどに向けた供犠を行う者たちもまた、実際には私自身にそれを向けているのである。前に述べた理由により、(インドラなど)すべては私の身体を形づくり、私はその魂だからである。そしてインドラなどのあらゆる語は、私自身を指すことにその究極の意味を見いだす。しかし彼らはこの形、あるいは法則を知らずに供犠を行うのである。”
“それゆえ、トライヴィディヤ(すなわちヴェーダのカルマ・カーンダ)の信奉者たちは、儀礼がインドラなどをその身体とするパラマプルシャ自身への崇拝の奉仕にすぎず、パラマプルシャ自身こそがその崇拝の真の対象であることを理解しない。それゆえ彼らは限られた報いを受ける資格しかなく、(得た場所や状態から)堕ちる性質を持つ。”
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
すべてのものの中の神:『ギーター』と『ケーナ』が言うこと
よくある答えは、神はすべてのものの中におられるので、人がどんな姿を崇拝しようとも、彼はその中で神を崇拝しているというものである。『ギーター』は確かに、知識を持つ人は「ヴァースデーヴァがすべてである」(ヴァースデーヴァハ・サルヴァム・イティ)とすると言っている。ヴァースデーヴァはクリシュナの名である。しかし彼は、二詩句前でその崇拝がただ一つの存在に向けられている、同じ知識を持つ人である。まさに次の詩句は、ほかの神格に近づく者たちは欲望によって知識を奪われた者たちであると言っている。『ギーター』では、それなら、すべてのものの中に神を見ることはただ一人を崇拝することと共に行く。ヒンドゥー教の僧スワーミー・パラマーナンダの訳による『ケーナ・ウパニシャッド』も同じ線を引いている。それは、それによって目が見、心が考える唯一者について語っている。五度それは言う。それのみをブラフマンと知れ、「人々がここで崇拝するこれではない」。シャンカラは、ブラフマンだけが実在であると言う学派、アドヴァイタの師であった。彼は8世紀頃に生きた。彼はその繰り返しを彼自身の仕方で読んでいる。彼にとって、ブラフマンは人々が崇拝するもの、「イーシュワラのようなもの」(主)ではなく、崇拝者自身の自己である。ほかのヒンドゥー教の師たちはその読み方を退けており、『ケーナ』自身がブラフマンについて言っている。「彼はタドヴァナムという名で崇拝されるべきである」。人々がここで崇拝するものは唯一者ではなく、唯一者こそが崇拝されるべきである。
“多くの生の終わりに、知識を持つ人は、ヴァースデーヴァがすべてであると(信じて)私に近づく。そのような高い魂の人は非常に見いだしがたい。”
“これらの中で、知識を持ち、常に専心し、その崇拝がただ一つの(存在)に(向けられている)者が、最も高く尊ばれる。知識ある人にとって私は何よりも愛しく、彼は私にとって愛しいからである。”
“さまざまな欲望によって知識を奪われた者たちは、さまざまな規則を守り、自らの本性に支配されて、他の神々に近づく。いかなる崇拝者が信をもっていかなる(神の)形を崇拝しようと望もうとも、その形に向けた彼の信を私は確かなものにする。その信を持って、彼はその(形の中の神)をなだめようとし、そこから自分の望む益あるものを得る(が、それは)実は私によって与えられるのである。しかし判断の乏しい彼らが(得る)その果報は滅びるものである。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、私を崇拝する者たちもまた私のもとへ来る。”
“言葉が照らさず、言葉を照らすもの、それのみをブラフマン(至高の存在)と知れ。人々がここで崇拝するこれではない。心によって考えられず、それによって心が考えることができると人々が言うもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。目によって見られず、それによって目が見ることができるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。耳によって聞かれず、それによって耳が聞くことができるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。誰も息によって息づかせず、それによって息が吸い込まれるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。”
“これらを顧みず、アートマンそのものを無条件のブラフマンと知れ。これが意味である。ブラフマンは、人々がここで崇拝するもの、すなわちアートマンではなく、条件づけられ、「これ」と呼ばれるイーシュワラのようなものではない。”
“聖典、スムリティ、イティハーサ、プラーナはひとしく、唯一の至高の原因、すなわちブラフマンがあることを教えているからである。それはすべての主たちの主であり、全知であり、全能であり、そのすべての目的を即座に実現し、あらゆる汚れを離れ、場所にも時にも限られず、凌駕されることのない至高の至福を享受する存在である。また、主の上に、主がその一部にすぎない「純粋な存在」があるとすることもできない。”
“そのブラフマンはタドヴァナム(崇拝の対象)と呼ばれる。彼はタドヴァナムという名で崇拝されるべきである。ブラフマンをこのように知る者は、すべての存在に愛される。”
その知識によって近く、何にも似ていない
イスラームは神が近くにおられることに同意しているが、物の内側にあることによってではない。かれは「御座に上がられた」のであり、かれはその知識によってすべての人と共におられる。「アッラーは、あなた方が行うことに通暁されたお方である」。かれは人の魂がささやくことを知っておられ、彼にとってその首の血管よりも近くにおられる。しかしそれは何かが神であることも、何かがかれとして崇拝されてよいことも意味しない。何一つかれに似ていない。天と地のすべての存在は僕としてかれのもとに来る。太陽と月はかれのしるしの中にあり、クルアーンは言う。それらにではなく、それらを創られたアッラー(﷾)にひれ伏せ。もしすべてのものが神であり、何かを崇拝することがかれを崇拝することであるなら、どんな崇拝も決して誤ることはありえないであろう。かれの近さはかれを直接崇拝する理由であって、かれが造られたものを崇拝する理由ではない。
“かれは諸天と大地を六日間でお創りになり、それから御座に上がられた。かれは大地の中に入り込むものも、そこから出てくるものも、天から落ちてくるものも、そこへ昇っていくものも、ご存知である。また、かれはあなた方がどこにあろうとも、(その御知識と共に)あなた方と共にあるのだ。アッラーは、あなた方が行うことに通暁されたお方である。”
“われらは確かに、人間を創った。われらは彼の心が自らに囁くものを知っており、頸静脈の管よりも彼に近いのである。”
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
“諸天と大地にあるいかなる者も、(復活の日に)僕として、慈悲あまねきお方(アッラー)の御許へと馳せ参じない者はいない。”
“夜、昼、太陽、月は、かれの(唯一性と全能性を示す)御徴の一部である。太陽にも月にもサジダせず、それらをお創りになったアッラーにサジダせよ。もしあなた方が、かれのみを崇拝するのなら。”
誠実とは純粋を意味する
多くのヒンドゥー教徒は、それがどんな形を取ろうとも、大切なのは誠実さであると言う。イスラームもまた誠実さを求めている。クルアーンは預言者(ﷺ)に、かれに誠実な献身をささげてアッラー(﷾)に仕えるよう告げている。それは、人々はただ誠実な献身をもってアッラー(﷾)を崇拝すること(ムフリスィーナ・ラフ・ッ=ディーン)以上のことを命じられなかったと言う。しかし「誠実」の背後にあるアラビア語の語(ムフリス、ハーリス)は、純粋で混じりけのないことを意味する語根から来ている。クルアーンは、ただアッラー(﷾)だけに呼びかけ、それから陸の上で安全になるとほかのものに自分たちの崇拝の分け前を与える船の中の人々を描いている。同じアラビア語の語(ムフリスィーナ・ラフ・ッ=ディーン)が彼らについて用いられており、ユースフ・アリーはそれらを「真摯に」と訳している。そして彼が誠実な献身はアッラー(﷾)に負うものではないかと訳している所で、アラビア語は、アッラー(﷾)にこそ純粋な宗教(アッ=ディーン・アル=ハーリス)が属すると読んでいる。クルアーンの意味では、ほかのものと分け合われた献身はまだ誠実ではない。『ギーター』もまた信だけでは足りないと言っている。信をもって崇拝するほかの神々の信者たちは、と言う、規則に外れて崇拝し、落ちる。
“(使徒よ、)本当にわれらはあなたに、真実と共に啓典を下した。ゆえにアッラーを崇拝せよ、かれだけに真摯に崇拝行為を捧げつつ。”
“そして彼らは、アッラーに真摯に崇拝行為を捧げつつ、純正な状態でかれ(だけ)を崇拝し、礼拝を遵守し、浄財を支払うことしか、命じられはしなかったのだ。それが、適格な宗教(イスラーム)である。”
“彼ら(不信仰者)が船に乗っ(て転覆を怖れ)た時には、アッラーだけに真摯に崇拝を捧げつつ、かれに祈るのだ。そして、かれが自分たちのことを陸地に救って下さった時には、どうであろう、シルクを犯すのである。”
“アッラーにこそ、純粋な宗教が属するのではないか。けれども、かれをよそに庇護者を設ける者たちは、(こう言っている。)「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。本当にアッラーは(復活の日)、彼ら(信仰者とシルクの徒)が意見を異にしていたことにおいて、彼らの間をお裁きになる。本当にアッラーは、噓つきで不信仰この上ない者を、お導きにならないのだ。”
“クンティーの子よ、他の神々の信者となって信をもって崇拝する者たちでさえ、私だけを崇拝しているのである(が)、規則に外れて。私はすべての供犠の享受者であり、また主だからである。しかし彼らは私を真に知らない。それゆえ彼らは堕ちるのである。神々に誓いを立てる者は神々のもとへ行き、祖霊に誓いを立てる者は祖霊のもとへ行き、ブータを崇拝する者はブータのもとへ行き、同じく私を崇拝する者たちは私のもとへ来る。”
執り成しは神に属する
あるヒンドゥー教徒は、ムスリムも預言者(ﷺ)の執り成しを望んでいるので、執り成し手を持っていると答える。クルアーンは確かに執り成しについて語っており、それは、執り成しはただアッラー(﷾)だけに属すると言う。誰もかれの許しによる以外にかれに執り成さず、ただかれが許され、その言葉をかれが受け入れられる者のためにだけである。天使たちの執り成しでさえ、かれが許しを与えられるまで何の役にも立たない。預言者(ﷺ)は復活の日の自分自身の執り成しを描いた。彼は自分の主の許しを求め、かれの前に平伏して倒れるであろう。ただ頭を上げて執り成すよう告げられたときにだけ、彼は、アッラー(﷾)が定められる限度の中で、そうするであろう。執り成し手はそれ自身神の崇拝者であり、どんな崇拝も受けない。預言者(ﷺ)は、自分の執り成しは、アッラー(﷾)が望まれるなら、アッラー(﷾)に何も並べることなく死ぬ彼の共同体の誰にでも届くと言った。誰がそれで最も幸せになるかと尋ねられて、彼は心から誠実に「アッラーのほかに神はない」と言う者を名指した。
“言うのだ。「アッラーにこそ、全ての執り成しが属する。かれにこそ、諸天と大地の王権は属するのだ。それから(復活の日、)かれの御許にこそ、あなた方は戻されるのである」。”
“アッラーは、かれの外に(真に)崇拝すべきものがなく、永世するお方、全てを司るお方。まどろみも眠りも、かれを捉えることはない。諸天にあるものと、大地にあるものは(全て)、かれに属する。かれのお許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか?かれは、彼ら(全存在)の前にあるものも、彼らの背後にあるものも、ご存知である。そしてかれのお望みになることの外、彼らはかれの御知識について、何も把握することはないのだ。かれの玉座は、諸天と大地に広がり、その二つの護持が、かれを疲れさせることもない。そしてかれは至高のお方、この上なく偉大なお方であられる。”
“その日、慈悲あまねきお方が許可を授け、その言葉においてご満悦された者以外、執り成しは役に立たない。”
“一体、諸天にいるどれだけ多くの天使の執り成しが、少しも役に立たないことであろうか。アッラーが、かれがお望みにある者に(執り成しの)許可を授けられ、(執り成しを受ける者に対し、)ご満足する後でなければ。”
アナスによれば、預言者(ﷺ)は言った。復活の日、信仰者たちは集まる。彼らは自分たちのために主にとりなしてくれる者を探す。彼らは順にアーダム、ヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーのもとに行き、それぞれが自分はそれにふさわしくないと言う。それから彼らは彼のもとに来る。彼は主の許しを求め、それを与えられる。主を見ると、彼はひれ伏し、アッラーが望まれるかぎりそのままでいる。それから彼は頭を上げるよう告げられる。願え、そうすれば与えられる。語れ、そうすれば聞かれる。とりなせ、そうすればあなたのとりなしは受け入れられる。彼は主が教えられる言葉で主を讃え、それからとりなす。アッラーは彼に限度を定められ、彼はその内にある者たちを楽園に入れる。彼は戻り、同じことがまた起こる。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、すべての預言者には聞き入れられる一つの祈願があり、すべての預言者は自分の祈願を早くに用いたと言った。彼は自分の祈願を、復活の日の自分の共同体のためのとりなしとして取っておいた。それは、アッラーが望まれるなら、アッラーに何ものをも並べずに死んだ彼の共同体のすべての者に届くであろう。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、復活の日に誰が彼のとりなしによって人々の中で最も幸せになるかと尋ねられた。彼はアブー・フライラに、ハディースへの彼の熱心さを見て、彼より先にこのことを尋ねる者はいないだろうと思っていたと告げた。それから彼は、それは心から誠実に(ハーリサン)「アッラーのほかに神はない」と言った者であろうと言った。
正しい人々を通して近さを求めること(タワッスル)
あるヒンドゥー教徒は、ムスリムがタワッスルと呼ぶ、預言者(ﷺ)や聖者たちを通して神への近さを求めるムスリムを指摘する。イスラームの文献ははっきりした線を引いている。ムスリムは生きている人に自分のために神に祈ってくれるよう頼んでよい。ウマルは預言者(ﷺ)の教友であり、ムスリムの第二の指導者であった。預言者(ﷺ)の死後に干ばつが来たとき、ウマルは預言者(ﷺ)の生きている叔父アッバースに雨を祈ってくれるよう頼んだ。彼は生きている人に向かったのであり、墓の中の預言者(ﷺ)に呼びかけなかった。禁じられているのは神のほかの誰かに祈ることである。「アッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない」。預言者(ﷺ)は自分自身の娘ファーティマに、アッラー(﷾)に対しては自分は彼女を全く助けることができないと告げた。それでムスリムは神に預言者(ﷺ)の執り成しを求めるのであって、彼に祈るのではない。ムスリムが聖者に助けを求めて呼びかける所では、彼らは自分自身の聖典に反している。
アナスによれば、預言者(ﷺ)の死後、干ばつがあるたびに、ウマル・イブン・アル=ハッターブは預言者の存命中のおじアル=アッバースに、アッラーに雨を祈るよう求めた。ウマルは言った。私たちはかつて私たちの預言者に、あなたに雨を祈ってくれるよう求めていましたが、今は彼のおじに求めます。
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
アブー・フライラによれば、「あなたの近親者に警告せよ」という節(クルアーン26:214)が下ったとき、預言者(ﷺ)はクライシュ族に、おじのアル=アッバース、おばのサフィーヤ、娘のファーティマに呼びかけ、それぞれに、アッラーに対しては自分はあなたを少しも助けられないと告げた。ファーティマは彼に何でも好きなものを求めてよいが、アッラーに対しては、彼は彼女を少しも助けられないのであった。
“言うのだ。「アッラーにこそ、全ての執り成しが属する。かれにこそ、諸天と大地の王権は属するのだ。それから(復活の日、)かれの御許にこそ、あなた方は戻されるのである」。”
墓:死者はそのために祈られるのであって、彼らに祈るのではない
ムスリムは確かに墓を訪れ、預言者(ﷺ)はそこで何を言うべきかを教えた。それはそこに葬られている信仰者たちへの平安の挨拶であり、生きている者と死んだ者のためにアッラー(﷾)に安寧を求める祈りである。死者はそのために祈られるのであって、彼らに祈るのではない。亡くなる五日前、預言者(ﷺ)は以前の民がしたことに対して警告した。彼らは自分たちの預言者と正しい人々の墓を礼拝の場所にしていた。彼はムスリムが同じことをするのを禁じた。彼自身の墓は、それが礼拝の場所となることを恐れて、公の所から隔てられた。ムスリムが墓に葬られている者に祈ったり、彼に供え物を持って来たりする所では、彼らは自分自身の預言者(ﷺ)の平明な言葉に反して行動している。慣行はそれが従うと主張する聖典によって判断される。
ブライダによれば、預言者(ﷺ)は、墓地に出かけるときに何を言うべきかを教友たちに教えるのが常であった。彼らはそこに住む信仰者たちとムスリムたちに平安の挨拶をし、アッラーが望まれるなら自分たちも彼らに加わるであろうと言うべきであった。それから彼らは生きている者と死んだ者のためにアッラーに安寧を願うべきであった。
ジュンドゥブは、預言者(ﷺ)が亡くなる五日前に語るのを聞いたことを伝えている。預言者(ﷺ)は、アッラーがイブラーヒームを親しい友とされたように、自分を親しい友とされたと言った。もし自分の共同体の誰かを自分の親しい友とするなら、それはアブー・バクルであったろう。それから彼は、彼ら以前の民は自分たちの預言者や義人たちの墓を礼拝の場にしたと警告した。彼はムスリムたちに墓を礼拝の場とすることを禁じた。
アーイシャによれば、最後の病の中で、預言者(ﷺ)は、アッラーはユダヤ教徒とキリスト教徒を、彼らの預言者たちの墓に礼拝の場所を建てたために呪われたと言った。彼女は、これがなければ彼自身の墓は開けた場所に置かれただろうが、それが礼拝の場所とされることを恐れてそうされなかったと付け加えている。
カアバ:向かうものであって、崇拝されるものではない
あるヒンドゥー教徒は、ムスリムもまた石の建物を敬っていると答える。ムスリムは確かに礼拝するときメッカの神の館カアバに向かう。カアバについてのページがこれに詳しく答えている。クルアーンはメッカの人々にこの館の主を崇拝するよう告げている。館そのものには祈らない。預言者(ﷺ)がマディーナに着いてから十六か十七か月の間、ムスリムはエルサレムに向かって礼拝した。それから神は礼拝の方向をメッカの聖モスクへと向けられた。崇拝者は、自分が崇拝するお方を変えることなく、自分が向く方向を変えることができる。館の周りを回ることも神の言葉によってなされる。アブラハムは「わが館をタワーフする者たち」のために清めよと告げられた。ウマルはカアバの壁にはめ込まれた黒石に口づけし、それが害することも益することもできない石であることを知っていると言った。彼はただ預言者(ﷺ)がそれに口づけするのを見たからそれに口づけしただけであった。カアバにも石にも何も求められず、それらに何もささげられない。
“ならば彼らに、この館(カァバ神殿)の主を崇拝させるのだ。空腹ゆえに食べ物を彼らにお授けになり、彼らを恐怖から安らげて下さったお方を。”
アル=バラーウ・イブン・アーズィブによれば、マディーナに着いた後、預言者(ﷺ)は十六か月か十七か月の間エルサレムに向かって礼拝し、やがて礼拝の方向がカアバに変えられた。
“(使徒よ、)われらは、あなたの顔が天を何度も仰ぐのを見る。では、われらはあなたの満足するキブラへと、必ずやあなたを向けさせよう。ならば、あなたの顔をハラーム・マスジドの方向に向けるがよい。また(ムスリムたちよ)、どこにあろうとも、(礼拝の時は)あなた方の顔をそちらへと向けるのだ。本当に、啓典を授けられた民は、それ(キブラの変更)が彼らの主からもたらされた真理であるということを、まさしく知っている。そしてアッラーは、彼らが行っていることに、迂闊ではあられないのだ。”
“(預言者よ、)われらがイブラーヒームに館(カァバ神殿)の場所を明確にし、準備してやった時のこと(を思い起こさせるがよい。われらは彼に、こう命じたのだ)。「われに、何ものも並べてはならない。そしてわが館をタワーフする者たち、(礼拝のために)立つ者たち、サジダしルクーゥする者たちのために清めよ。”
アービス・イブン・ラビーアによれば、ウマルは黒石のところに来てそれに口づけした。ウマルは、それが害も益も与えられない石であることを知っている、もし預言者(ﷺ)がそれに口づけするのを見なかったなら、自分はそれに口づけしなかったであろうと言った。
なぜ唯一の神を崇拝してヒンドゥー教徒のままでいないのか?
あるヒンドゥー教徒は、『ギーター』自身が称えるように、自分たちはただ唯一の神だけに献身をささげてヒンドゥー教徒のままでいることができると答える。それは正しい一歩であり、それはまさにイスラームが求めるものである。しかし『ギーター』はこの献身をクリシュナに与えている。彼は自分をその本質において生まれないものと呼んでいる。けれども彼は、自分は時代ごとに自分自身の力(アートマ・マーヤー)によって生まれると言っている。ウパニシャッドは神について、かれには親も主もないと言っている。クルアーンは、かれには子も親もないと言う。神はどんな仕方でも決して生まれない。そして同じ『ギーター』はほかの神々を崇拝する者たちの信を強めている。クルアーンはその最初の章からただ神だけの崇拝を求めており、人々にかれのほかの誰にも呼びかけるなと告げている。それは、これがすべての使徒の使信であったと言う。そしてそれはムハンマド(ﷺ)をすべての人々への神の使徒として示している。イスラームは、クルアーンとかれの使徒(ﷺ)が教えるとおりの、ただ唯一の神だけの崇拝である。
“私は(私の)本質において生まれず尽きることがなく、すべての存在の主であるけれども、なお私は自分自身の本性の支配を取り、私の惑わしの力によって生まれる。”
“バラタの子孫よ、敬虔が衰え、不敬虔が優勢になるときはいつでも、私は自らを創り出す。善き者を守るため、悪を行う者を滅ぼすため、そして敬虔を確立するために、私は時代ごとに生まれる。”
“世界に彼の主はなく、彼の支配者もなく、彼のしるしさえない。彼は原因であり、感官の主たちの主であり、彼には親も主もない。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
“さまざまな欲望によって知識を奪われた者たちは、さまざまな規則を守り、自らの本性に支配されて、他の神々に近づく。いかなる崇拝者が信をもっていかなる(神の)形を崇拝しようと望もうとも、その形に向けた彼の信を私は確かなものにする。その信を持って、彼はその(形の中の神)をなだめようとし、そこから自分の望む益あるものを得る(が、それは)実は私によって与えられるのである。しかし判断の乏しい彼らが(得る)その果報は滅びるものである。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、私を崇拝する者たちもまた私のもとへ来る。”
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
“また、われらはあなた以前、「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と啓示することなしには、いかなる使徒も遣わさなかった。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
像なしの、一人の形のない神
ほかのヒンドゥー教徒、その中にはアーリヤ・サマージ(十九世紀のヒンドゥー教の改革運動)も含まれるが、一人の形のない神を崇拝し、像を退けている。彼らはウパニシャッドと共に「彼の像はない」としている。そのようなヒンドゥー教徒はクルアーンが求める最初の一歩を踏み出したのである。それを踏み出すために、彼は自分自身の伝統の多くを脇に置いた。アーリヤ・サマージを創始したダヤーナンダは、像崇拝を命じるタントラとプラーナ(後のヒンドゥー教の書物)をヴェーダに反するものと呼んだ。残るのは、どの啓示がこの崇拝を平明に教えているかである。『リグ・ヴェーダ』の讃歌は神々に向けられている。同じヴェーダは、インドラとアグニは生まれたと言い、神々は世界の後に来たと言っている。クルアーンはそれを平明に教えている。「言え。『かれはアッラー、唯一なるお方』」。それはすべての人々に遣わされた使徒と共に来る。ムハンマド(ﷺ)は本当に神の使徒であったのかを問うページが、彼のための論拠を述べている。
アーリヤ・サマージの創始者ダヤーナンダ・サラスワティーは、クルアーンを攻撃する章も設けている書『真理の光』の改訂第二版で、ヴェーダのどの節も、神を像の中に呼び入れること、それに命を吹き込むこと、それを崇拝することについて語っていないと論じている。これらの儀式で唱えられる節はヴェーダではなくタントラから来ている、と彼は言う。神はマントラで呼ばれると像の中に来て、儀式が終わると去るという見解に対して、彼は、すべてのものを満たす神は来ることも去ることもないと答える。彼は『ヤジュル・ヴェーダ』32.3(ナ・タスヤ・プラティマー・アスティ)と『ケーナ・ウパニシャッド』の繰り返しの句を像崇拝を禁じるものと読み、それを命じるタントラとプラーナをヴェーダに反するものと呼び、像崇拝が神への第一歩であることを否定している。
“誰も彼を上にも、横にも、中ほどにもとらえたことはない。大いなる栄光という名を持つ彼の像はない。彼の姿は見ることができず、誰も目で彼を知覚しない。心と思いを通して、このように心の中に住む彼を知る者たちは、不死となる。”
『リグ・ヴェーダ』の第10巻は集成のはっきりと後の層を表していること、『リグ・ヴェーダ』の四分の一以上がインドラの讃美に充てられていること、そしてその讃歌のうち神々や神格化された対象に向けられていないものは三十ほどにすぎないことを述べている。さまざまな神々は一つの神的存在の形であるという考えは、新しい讃歌1.164のような後の讃歌に見いだされる、と彼は書いている。そのような言葉は、リグ・ヴェーダ時代の終わりまでに、聖仙たちの多神教が一神教的な色合いを帯びていたことを示している。時には讃歌は、すべての神々であり自然でもある神格をさえほのめかしている。この汎神論の芽は後のヴェーダ文献を通してヴェーダーンタへと育った。マックス・ミュラーの単一神教の理論は、各々の神をあたかもそれが至高であるかのように呼び求める詩人たちの習慣から生じた。マクドネルの見るところ、聖仙たちはソーマの儀礼における各々の神の正確な位置を知っていたのだから、この習慣は、歌い手が自分の呼び求める神を自然に誇張することにすぎない。ヴェーダの詩人たちは神々には始まりがあると考えていた、と彼は付け加えている。
“月は彼の心から生まれ、太陽は彼の目から生まれた。インドラとアグニは彼の口から生まれ、ヴァーユは彼の息から生まれた。”
“まことに誰が知り、誰がここでそれを宣言できようか、それがどこから生まれ、この創造がどこから来たのかを。神々はこの世界の生成より後である。それでは誰が、それが最初にどこから存在するに至ったかを知ろうか。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
答えられた反論
『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』6.7 — 第6章第7詩
“主たちの最高の大いなる主、神々の最高の神、主人たちの主人、上なる最高者、神として、世界の主として、崇めるべき者を、われわれは知ろう。”
引用の目的
私たちは神々を神として崇拝していない。ウパニシャッドは主を「神々の最高の神」、「主人たちの主人」と呼んでいる。デーヴァ(ヴェーダの神々)はイスラームの天使たちのように、かれの力であり僕である。ラーマーヌジャは、神々は主の体を成していると教えているので、彼らにささげられるものはかれに届く。私たちは人が王の大臣たちを敬うように彼らを敬っており、彼らが与えるものは、クリシュナが言うとおり、本当はかれによって与えられている。
応答
イスラームにも神の敬われた僕がいる。天使たち、かれの命令によって行動し、ただかれが嘉される者のためにだけ執り成す「誉れ高き僕」である。イスラームは彼らにどんな礼拝も、平伏も、供え物も与えない。どの預言者も、とクルアーンは言う、人々に「天使や預言者たちを主とせよ」とは告げないであろう。そして天使たちは自分たちを崇拝した者たちを否認するであろう。メッカの人々は自分たちの崇拝に同じ理由を与えた。彼らはアッラー(﷾)により近づけられるためにほかの存在に仕えたのである。クルアーンの答えは、「あなた方がアッラーを差しおいて祈っているものは、あなた方同様(アッラー)の僕たち」であるということである。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の三十三の神々には、火、大地、太陽、月、月々、雷が含まれる。彼らがこれらであれ、それらを司る神格であれ、『リグ・ヴェーダ』は神々は世界の後に来たと言っている。ラーマーヌジャは確かに、インドラとほかの神々は主の体を成していると教えている。彼は彼らにささげられる儀式を、「その崇拝の真の対象」である主の崇拝と数えている。これを理解しない者たちは、と彼は言う、「堕ちる性質を持つ」。もし主が真の対象なら、かれは直接崇拝されうるのであり、かれはすべての呼びかける者をご自身で聞かれる。王はすべての臣下を聞くことができないので大臣を必要とする。神は、かれは近くにおられ、すべての嘆願者に耳を傾けられると言われる。そしてもし賜物が、クリシュナが言うとおり、本当は主によって与えられているなら、平明な道は与え主に求めることである。シュヴェーターシュヴァタラの詩句自身がかれを「崇めるべき者」と呼んでいる。
結論 — 神の僕を敬うことは彼らを崇拝することではない。礼拝、平伏、供え物は、すべての呼びかける者をご自身で聞かれる主人に属する。
クルアーン 29:61 — 蜘蛛章、第61節
“(使徒よ、)もしも、あなたが彼ら(シルクの徒)に「諸天と大地をお創りになり、太陽と月を仕えさせられたお方は誰なのか?」と尋ねれば、彼らは決まって(こう)言うのだ。「アッラーである」。ならば一体、どうしてあなた方は(アッラーの信仰から)背かされるのか?”
引用の目的
あなた方自身のクルアーンが、メッカの人々はイスラーム以前にすでに創造主をアッラーと呼んでいたと言っている。それでイスラームはどんな新しい神ももたらさなかった。それはアラブ人の高位の神を保ち、彼を唯一のものとし、残りを落としたのである。ヒンドゥー教徒はすでに彼らの唯一の神、イーシュワラあるいはバグワーンを持っており、かれに取って代わるアラブの神を必要としない。
応答
アッラー(﷾)は神を表すアラビア語の語である。アラブのキリスト教徒もそれを用いており、標準的なアラビア語のプロテスタント聖書はその最初の節でそれを用いている。クルアーンは新しい神をもたらすとは主張していない。それは、メッカの人々は自分たちの創造主を知っていたが、かれの崇拝をほかのものにも与えたと言う。それが論争の核心であった。預言者(ﷺ)が彼らにただかれだけを崇拝するよう呼びかけたとき、彼らは言った。「一体彼は、神々を一つの神とするというのか?本当にこれは、まさしく驚愕すべきこと」。クルアーンはその崇拝を、館で告げられたアブラハムにまでさかのぼらせている。「われに、何ものも並べてはならない」。イスラームがメッカで変えたのは崇拝であって、神の名ではなかった。それはすでに唯一の神を信じているヒンドゥー教徒に同じことを求めている。新しい神ではなく、ただかれだけの崇拝である。
結論 — イスラームは神の名を変えなかった。それはメッカの人々に、彼らがすでに知っていた創造主にただかれだけの崇拝を与えるよう求め、ヒンドゥー教徒にも同じことを求めている。
『バガヴァッド・ギーター』7:19 — 第7章第19節
“多くの生の終わりに、知識を持つ人は、ヴァースデーヴァがすべてであると(信じて)私に近づく。そのような高い魂の人は非常に見いだしがたい。”
引用の目的
クリシュナは知識を持つ人は「ヴァースデーヴァがすべてである」とすると言い、ウパニシャッドは神を「すべての存在の中に隠れ」と呼んでいる。神はすべてのものの中におられる。それで人がどんな形を、神、像、太陽、川を崇拝しようとも、彼はその中で唯一の神を崇拝しているのである。
応答
その詩句をその場所で読みなさい。ヴァースデーヴァがすべてであるとする人は、二詩句前で「その崇拝がただ一つの(存在)に(向けられている)」知識を持つ人である。まさに次の詩句は、ほかの神格に近づくのは「さまざまな欲望によって知識を奪われた」者たちであると言っている。それで『ギーター』では、すべてのものの中に神を見ることは、すべてのものを崇拝することとではなく、ただ一人を崇拝することと共に行く。『ケーナ』は、それによって目が見、心が考える唯一者について語っている。五度それは言う。「それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない」。もしすべてのものが、何かの崇拝がかれの崇拝となるような仕方で神であるなら、どんな崇拝も道を誤ることはありえないであろう。そうなると『ギーター』の規則に外れてという言葉は何も意味しなくなるであろう。イスラームは神が近くにおられることに同意している。かれはあなたがどこにいようともあなたと共におられ、「アッラーは、あなた方が行うことに通暁されたお方である」。しかし何一つかれに似ておらず、すべての被造物は僕としてかれのもとに来る。クルアーンは、太陽と月にではなく、それらを創られたアッラー(﷾)にひれ伏せと言っている。
結論 — 『ギーター』では、すべてのものの中に神を見る人はただ一つの存在だけを崇拝し、『ケーナ』は人々がここで崇拝するものがブラフマンであることを否定している。イスラームもまた、神は物の中にあることによってではなく近くにおられ、何もかれではないと言う。
シャンカラ『ケーナ・ウパニシャッド』1.5注解 — S・シーターラーマ・シャーストリ訳、1898年、48ページ
“これらを顧みず、アートマンそのものを無条件のブラフマンと知れ。これが意味である。ブラフマンは、人々がここで崇拝するもの、すなわちアートマンではなく、条件づけられ、「これ」と呼ばれるイーシュワラのようなものではない。”
引用の目的
あなたは『ケーナ』を引用しているが、それをシャンカラと共に読みなさい。彼はその繰り返しを説明している。「ブラフマンは、人々がここで崇拝するもの…イーシュワラのようなものではない」。自分自身とは別のものとして崇拝される主こそ、まさに「人々がここで崇拝するこれ」である。あなた方の「私たちはあなただけを崇拝し」は、私たちの寺院の崇拝と同じ線の下に入る。
応答
それはシャンカラの読み方である。それは、崇拝者自身の自己がブラフマンであるという彼の教えに基づいており、彼はそれを『チャーンドーギヤ』の「シュヴェータケートゥよ、汝はそれである」の中に読んでいる。ほかのヒンドゥー教の師たちはそれを退けている。ラーマーヌジャは同じ聖典から、主の上に純粋な存在はないと答えている。シャンカラの読み方では、ヒンドゥー教徒が崇拝する主、「イーシュワラのようなもの」もまたブラフマンではない。それで彼の読み方は神々の崇拝を保つどんな理由も与えない。『ケーナ』自身がブラフマンについて言っている。「彼はタドヴァナムという名で崇拝されるべきである」。それでウパニシャッドは唯一者を崇拝することを禁じていない。それは、人々がここで崇拝するものは唯一者ではないと言っているのである。クルアーンは同意している。『ケーナ』のブラフマンは「目によって見られず、それによって目が見ることができるもの」である。クルアーンは神について言う。「視覚が(現世で)かれ(アッラー)を捉えることはない。かれが視覚を捉え給う」。ムスリムはどんな視覚も捉えることのできない唯一者を崇拝し、かれのどんな像も作らない。
結論 — 『ケーナ』は崇拝を唯一者からではなく、ここで見えるものから背けている。それはブラフマンが崇拝されるべきであると言っている。イスラームは崇拝をただ見えない唯一者だけに与えている。
サヒーフ・ブハーリー 4476 — タフスィールの書(キターブ・アッ=タフスィール)、ハディース4476
アナスによれば、預言者(ﷺ)は言った。復活の日、信仰者たちは集まる。彼らは自分たちのために主にとりなしてくれる者を探す。彼らは順にアーダム、ヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーのもとに行き、それぞれが自分はそれにふさわしくないと言う。それから彼らは彼のもとに来る。彼は主の許しを求め、それを与えられる。主を見ると、彼はひれ伏し、アッラーが望まれるかぎりそのままでいる。それから彼は頭を上げるよう告げられる。願え、そうすれば与えられる。語れ、そうすれば聞かれる。とりなせ、そうすればあなたのとりなしは受け入れられる。彼は主が教えられる言葉で主を讃え、それからとりなす。アッラーは彼に限度を定められ、彼はその内にある者たちを楽園に入れる。彼は戻り、同じことがまた起こる。
引用の目的
ムスリムにも執り成し手がいる。彼らは預言者(ﷺ)が復活の日に自分たちのために執り成すことを望んでいる。多くの者はまた預言者(ﷺ)と聖者たちを通して神への近さを求めている(タワッスル)。それはヒンドゥー教徒が自分たちのために嘆願できる神を通して至高者に近づくときにしていることである。
応答
クルアーンは確かに執り成しについて語っており、それは言う。「アッラーにこそ、全ての執り成しが属する」。誰もかれが許される場合を除いてかれに執り成さず、ただかれが嘉される者のためにだけである。天使たちの執り成しでさえ、かれが許しを与えられるまで何の役にも立たない。執り成しのハディースはそれが何を意味するかを示している。預言者(ﷺ)はまず自分の主の許しを求め、かれの前に平伏して倒れるであろう。ただ頭を上げて執り成すよう告げられたときにだけ、彼は、アッラー(﷾)が定められる限度の中で執り成すであろう。執り成し手はそれ自身神にひれ伏す崇拝者であり、彼はどんな崇拝も与えられない。彼の執り成しは、アッラー(﷾)が望まれるなら、アッラー(﷾)に何も並べることなく死ぬ彼の共同体の誰にでも届くであろう。それで最も幸せな者は、心から誠実に「アッラーのほかに神はない」と言う者である。ムスリムは神にそれを求めるのであって、預言者(ﷺ)に祈ってはならない。タワッスルについては、ムスリムは生きている人に自分のために神に祈ってくれるよう頼んでよい。預言者(ﷺ)が亡くなった後、ウマルは預言者(ﷺ)の生きている叔父アッバースに雨を祈ってくれるよう頼んだ。彼は墓の中の預言者(ﷺ)に呼びかけなかった。禁じられているのは神のほかの誰かに祈ることである。「アッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない」。預言者(ﷺ)は自分自身の娘ファーティマに、アッラー(﷾)に対しては自分は彼女を全く助けることができないと告げた。メッカの人々はその逆をした。彼らは、それらの存在が自分たちのために執り成すように、ほかの存在に仕えた。
結論 — イスラームでは執り成しは神から、かれの許しによって、ただかれだけを崇拝する者たちのために来る。ムスリムは生きている者に自分たちのために祈ってくれるよう頼んでよいが、神のほかの誰にも祈らない。
サヒーフ・ムスリム 975 — 葬儀の書(キターブ・アル=ジャナーイズ)、ハディース975
ブライダによれば、預言者(ﷺ)は、墓地に出かけるときに何を言うべきかを教友たちに教えるのが常であった。彼らはそこに住む信仰者たちとムスリムたちに平安の挨拶をし、アッラーが望まれるなら自分たちも彼らに加わるであろうと言うべきであった。それから彼らは生きている者と死んだ者のためにアッラーに安寧を願うべきであった。
引用の目的
ムスリムも墓を訪れる。預言者(ﷺ)自身がそこで何を言うべきかを教えた。インド中のムスリムの聖者の廟で、人々は花と布を持って来て、糸を結び、聖者に助けを求めている。それはヒンドゥー教徒が寺院でしていることである。
応答
預言者(ﷺ)が墓地のために教えた言葉は、そこに横たわる信仰者たちへの平安の挨拶である。それらは彼らと私たちの安寧のためのアッラー(﷾)への祈りで終わる。死者はそのために祈られるのであって、彼らに祈るのではない。亡くなる五日前、彼は、以前の民が自分たちの預言者と正しい人々の墓を礼拝の場所にしたと警告した。彼はそれを禁じた。彼自身の墓は、それがそのようなものとなることを恐れて、公の所から隔てられた。ムスリムが墓に葬られている者に祈ったり、彼に供え物を持って来たりする所では、彼らは自分自身の預言者(ﷺ)の平明な言葉に反している。慣行はそれが従うと主張する聖典によって判断される。神々の崇拝はヒンドゥー教の聖典そのものの中にある。『リグ・ヴェーダ』の讃歌は彼らに向けられており、その四分の一以上がインドラの賛美にささげられている。イスラーム自身の文献は墓での崇拝を禁じている。
結論 — イスラームは死者のために祈るために墓を訪れることを許し、そこでの崇拝を禁じている。ヴェーダ自身の讃歌は神々に向けられている。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『バクティ・ヨーガについての講演』、「主な象徴」
“マホメット教徒は、祈るとき、カアバ、すなわち黒石を中に収めた神殿の心の像を作ろうとし、西の方を向くなら、それはまったく正しいが、教会の形の像を作るならそれは偶像崇拝だと考える。これが像崇拝の欠点である。しかしこれらはみな必要な段階であるように思われる。”
引用の目的
ヴィヴェーカーナンダははっきりとそれを言った。ムスリムは祈るときカアバの心の像を形づくり、西に向くことは差し支えないと考えている。けれども彼らは教会の形をした像を偶像崇拝と呼ぶ。巡礼で彼らはその周りを回り、黒石に口づけする。もしそれが石の崇拝でないなら、私たちのものもそうではない。
応答
カアバについてのページがこれに詳しく答えている。手短に言えば、クルアーンはムスリムに彼らの顔を聖モスクに向けるよう告げている。それはメッカの人々に、館ではなく、「この館(カァバ神殿)の主を崇拝させる」よう告げている。預言者(ﷺ)がマディーナに着いてから十六か十七か月の間、ムスリムは、方向が啓示によって変えられるまで、エルサレムに向かって礼拝した。崇拝者は自分が崇拝するお方を変えることなく自分が向く方向を変えることができ、彼がどこに向こうとも、そこにアッラー(﷾)の御顔がある。ウマルは黒石に口づけし、それが害することも益することもできない石であることを知っていると言った。彼はただ預言者(ﷺ)がそうしたからそれに口づけしただけであった。館の周りを回ることも神の言葉によってなされる。アブラハムは「わが館をタワーフする者たち」のために清めよと告げられた。カアバにも石にも何も求められず、それらに何もささげられない。礼拝の場所はアッラー(﷾)のためのものであり、誰もかれと並べて呼び求められない。
結論 — カアバは礼拝の方向であって、祈られる対象ではない。
『バガヴァッド・ギーター』7:20-23 — 第7章第20-23節
“さまざまな欲望によって知識を奪われた者たちは、さまざまな規則を守り、自らの本性に支配されて、他の神々に近づく。いかなる崇拝者が信をもっていかなる(神の)形を崇拝しようと望もうとも、その形に向けた彼の信を私は確かなものにする。その信を持って、彼はその(形の中の神)をなだめようとし、そこから自分の望む益あるものを得る(が、それは)実は私によって与えられるのである。しかし判断の乏しい彼らが(得る)その果報は滅びるものである。神々を崇拝する者たちは神々のもとへ行き、私を崇拝する者たちもまた私のもとへ来る。”
引用の目的
神がご覧になるのは心である。クリシュナは、崇拝者が信をもって崇拝するためにどんな形を選ぼうとも、自分はその信を堅固にし、求められるものを与えると言う。心のすべてをもって神を愛する誠実なヒンドゥー教徒は、彼がどんな名や形を用いようとも受け入れられる。
応答
イスラームもまた誠実さを求めている。「アッラーを崇拝せよ、かれだけに真摯に崇拝行為を捧げつつ」。人々は「アッラーに真摯に崇拝行為を捧げつつ、純正な状態でかれ(だけ)を崇拝し…ことしか、命じられはしなかった」。しかし「真摯」の背後にあるアラビア語の語は、純粋で混じりけのないこと(ハーリス)を意味する語根から来ている。クルアーンは、ただアッラー(﷾)だけに呼びかけ、それから陸の上で安全になるとほかのものに自分たちの崇拝の分け前を与える船の中の人々を描いている。そこでのそのアラビア語は今引用した節と同じ言葉(ムフリスィーナ・ラフ・ッ=ディーン)を持っており、ユースフ・アリーはそれらを誠実に(そして専一に)と訳している。彼が誠実な献身はアッラー(﷾)に負うものではないかと訳している所で、アラビア語は「アッラーにこそ、純粋な宗教が属するのではないか」と言っている。神の唯一性を宣言する章はアル=イフラース、誠実と名づけられている。それでほかのものと分け合われた献身はクルアーンの意味ではまだ誠実ではない。『ギーター』もまた信だけでは足りないと言っている。まさにこの箇所の中で、そのような崇拝の果報は「滅びるもの」である。9章では、ほかの神々を「信をもって」崇拝する者たちは「規則に外れて」崇拝し、「堕ちる」。イスラームは、使徒が届く前に神が誰かを罰せられるとは言わない。しかしひとたび使信が聞かれたなら、誠実さとは崇拝をただ神だけに与えることを意味する。
結論 — 誠実さは求められており、クルアーンでは誠実な献身とはただ神だけに与えられる献身を意味する。『ギーター』でさえ、ほかの神々の信ある崇拝を規則に外れたものと呼んでいる。
『バガヴァッド・ギーター』9:30 — 第9章第30節
“たとえ非常に行いの悪い人であっても、他の誰をも崇拝せずに私を崇拝するなら、彼はよく決意したのであるから、確かに善い者とみなされねばならない。”
引用の目的
それなら『ギーター』はすでにあなたが求めることを教えている。クリシュナは「他の誰をも崇拝せずに」彼を崇拝する人を善いと呼び、ただ一つの存在に献身する崇拝者を最も高く位置づけている。ヒンドゥー教徒は自分の献身のすべてを唯一の神に与えてヒンドゥー教徒のままでいることができる。多くのヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌの崇拝者)とシャイヴァ(シヴァの追随者)はそうしている。
応答
ただ一人への献身は正しい一歩であり、それはイスラームが求める一歩である。三つのことが『ギーター』だけからそれを踏み出すことを妨げている。第一に、『ギーター』はこの献身をクリシュナに与えており、彼は自分について「私は時代ごとに生まれる」と言っている。彼は自分を本質において生まれないものと呼んでいるが、「私の惑わしの力によって生まれる」と言っている。クルアーンは神について「お産みすることもなければ、お産まれにもならなかった」と言い、決してかれがどんな仕方であれ生まれることについて語らない。ウパニシャッドもまたかれについて「彼には親も主もない」と言っている。第二に、同じ『ギーター』はほかの神々を崇拝する者たちの信を堅固にし、彼らの願いをかなえている。クルアーンはその冒頭の章からただ神だけの崇拝を求めている。「私たちはあなただけを崇拝し」。それは人々にかれのほかの誰にも呼びかけるなと告げている。第三に、クルアーンはこれがすべての使徒の使信であったと言い、ムハンマド(ﷺ)を「あなた方全員への」神の使徒として示している。『ギーター』の最も高い崇拝をその終わりまでたどりなさい。決して生まれない、ただ一人で崇拝される唯一の神である。それは『ギーター』自身が手前で止まる所、クルアーンが教えることに行き着く。
結論 — 『ギーター』の最も高い崇拝はただ一人の崇拝である。クルアーンはかれのほかにどんな神もなしにそれを求め、それをどんな仕方でも決して生まれない神に与えている。
『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』4.19-20 — 第4章第19-20詩
“誰も彼を上にも、横にも、中ほどにもとらえたことはない。大いなる栄光という名を持つ彼の像はない。彼の姿は見ることができず、誰も目で彼を知覚しない。心と思いを通して、このように心の中に住む彼を知る者たちは、不死となる。”
引用の目的
アーリヤ・サマージを含む多くのヒンドゥー教徒は、すでにただ一人の形のない神だけを崇拝している。彼らはかれのどんな像も作らず、ほかのどの神にも祈らない。彼らはどんなアヴァターラ(体の形で降りて来た神)も受け入れない。彼らはウパニシャッドと共に「彼の像はない」としている。そのようなヒンドゥー教徒はすでにこのページが求めるすべてをしている。なぜ彼はムスリムになるべきなのか?
応答
それなら彼はクルアーンが求める最初の一歩を踏み出したのである。それを踏み出すために、彼は自分自身の伝統の多くを脇に置いた。アーリヤ・サマージを創始したダヤーナンダは、像崇拝を命じるタントラとプラーナをヴェーダに反するものと呼んだ。残るのは、どの啓示がこの崇拝を平明に教えているかである。『リグ・ヴェーダ』の讃歌は神々に向けられており、その四分の一以上がインドラの賛美にささげられている。ある讃歌は確かに「一なるものに、聖仙たちは多くの名を与える」と言っている。しかし同じヴェーダは、インドラとアグニは宇宙的な人の口から生まれたと言っている。それはまた「神々はこの世界の生成より後である」と言っている。讃歌のすべての神を一人の形のない神の名と取るためには、読者はそれらの言葉に反しなければならない。クルアーンはそのような読み方を必要としない。それは彼が信じることを平明に言っている。「言え。『かれはアッラー、唯一なるお方』」。そしてそれは「あなた方全員への」使徒と共に来る。ムハンマド(ﷺ)は本当に神の使徒であったのかを問うページが、彼のための論拠を述べている。
結論 — ただ一人の形のない神だけを崇拝するヒンドゥー教徒はクルアーンの最初の一歩を踏み出したのである。クルアーンはその崇拝を平明に教え、それを使徒と共にもたらしている。
『バガヴァッド・ギーター』10:41 — 第10章第41節
“力あるもの、栄光あるもの、輝かしいもの、(そこにある)いかなるものも、すべて私の力の部分から生み出されたものと知れ。”
引用の目的
神はエネルギー、すべてのものを貫いて流れる力である。ある者たちは、元素、あるいは世界を動かし続ける天体であると言う。クリシュナ自身が、輝かしいものは何であれ「私の力の部分から生み出された」と言っている。
応答
その詩句では、その力は「私の力」である。それは「私」として語る者に属している。ウパニシャッドは、神の力は力と知識として働くと言っている。『ギーター』では、賢い者はクリシュナをすべての源として崇拝する。エネルギーは知らず、選ばず、祈りを聞かない。クルアーンは神を「永世するお方、全てを司るお方」と呼び、問う。「創造されたお方が、(彼らのことを)ご存知にならないとでも?」アブラハムは空を用いて自分の民と論じた。クルアーンはそれを「われらがイブラーヒームに、その民に対して、授けた論拠」と呼んでいる。星が沈んだとき、彼は言った。「私は、消え行くものが好きではない」。月と太陽も沈み、彼は「諸天と大地を創成されたお方」に顔を向けた。クルアーンは言う。「太陽にも月にもサジダせず、それらをお創りになったアッラーにサジダせよ」。
結論 — 神は力でも星でもない。かれは知り創造される生けるお方である。昇り沈むものは支配されるのであって、それが支配するのではない。
さまざまな視点
多くの姿で敬われる唯一の神
ヒンドゥー教徒は一人の至高の神、イーシュワラあるいはバグワーンを信じている。神々はかれの力であり僕であり、かれご自身が彼らを通して求められるものを与えられる。それで彼らに、あるいはどんな姿においてであれかれにささげられる崇拝は、最終的にかれに届く。神がご覧になるのは献身的で誠実な心である。これを信じるヒンドゥー教徒はすでに唯一の神を持っており、ほかの宗教を必要としない。
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと多くの現代のヒンドゥー教の教え、神々を主の体とするラーマーヌジャ
『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』は神を神々の最高の神と呼んでいる。それはかれを主人たちの主人、世界の主と呼んでいる。
反論
イスラームは、神は神々の最高の神であり、主人たちの主人であることに同意している。その詩句自身がかれを「崇めるべき者」と呼んでおり、クルアーンは誠実な献身がただかれだけに行くことを求めている。
1030年頃、ムスリムの学者ビールーニーは、ヒンドゥー教徒は神を唯一、永遠、全能であり、すべての似姿を超えたものと信じていると記録した。
反論
ビールーニーがヒンドゥー教徒が神を唯一であり似姿を超えたものと信じていることを見いだしたことを認めよう。クルアーンは、この信仰は決して事柄のすべてではなかったことを示している。メッカの人々はアッラー(﷾)が天と地を創られたと言ったが、ほかのものに仕えた。イスラームはただかれだけの崇拝を求めている。
ヴィヴェーカーナンダは1893年に宗教会議に、インドには多くの神々への信仰はないと告げた。崇拝者たちは、と彼は言った、像に神のすべての性質を与えている。
反論
多くの崇拝者が唯一者を敬うつもりであることを認めよう。メッカの人々は自分たちのものに同じような理由を与えた。彼らはただアッラー(﷾)により近づけられるためにだけそれらに仕えたのである。クルアーンの答えは、誠実な献身はただアッラー(﷾)だけに負うものであるということである。
ラーマーヌジャは、インドラとほかの神々は主の体の一部であると教える。それで彼らにささげられる供犠は本当はかれに向けられている。
反論
ラーマーヌジャがこれを教えていることを認めよう。彼自身の言葉によれば、主は「その崇拝の真の対象」である。それならかれは直接崇拝されうるのであり、クルアーンはまさにそれを求めている。
クリシュナは、崇拝者が信をもって崇拝するためにどんな形を選ぼうとも、自分はその信を堅固にすると言う。求められる賜物は本当は彼によって与えられている。
反論
クリシュナがこれを言っていることを認めよう。もし賜物が本当は主によって与えられているなら、平明な道は与え主に求めることである。9章は、信をもってほかの神々を崇拝する者たちはただ規則に外れて彼を崇拝しており、彼を本当には知らないので落ちると付け加えている。
クリシュナは、知識を持つ人はヴァースデーヴァがすべてであるとすると言う。
反論
それを認めよう。しかし彼は、二詩句前でその崇拝がただ一つの存在に向けられている、同じ知識を持つ人である。次の詩句は、ほかの神格に近づく者たちは欲望によって知識を奪われていると言っている。
ただ一人への信愛(アナニヤ・バクティ)
『ギーター』自身が、ただ一つの存在に献身する崇拝者を最も高く位置づけている。それは主を崇拝し、ほかの誰も崇拝しない人を善いと呼んでいる。この見解では、ヒンドゥー教徒は、『ギーター』が教えるとおり、自分自身の伝統の中で自分の献身のすべてを唯一の神に与えることができる。
『バガヴァッド・ギーター』と、それに続く信愛(バクティ)の伝統
クリシュナは、その崇拝がただ一つの存在に向けられている知識を持つ人を最も高く位置づけている。
反論
イスラームは、最も高い崇拝はただ一つの存在に向けられていることに同意している。クルアーンはかれを平明に名指している。かれは産まず、産まれもせず、誰もかれに似ていない。それは、すべての使徒がこの呼びかけをもたらしたと言う。
クリシュナは、非常に行いの悪い人でさえ、彼を崇拝し、ほかの誰も崇拝しないなら、善いと数えられねばならないと言う。テランはこれを、ただ至高の存在だけが崇拝されるべきであるという堅い決意と説明している。
反論
イスラームは、ただ一人の崇拝が正しい決意であることに同意している。それはその一人が誰であるかを問う。クルアーンは、かれは決して生まれず、誰もかれと共に呼び求められてはならないと言う。
クリシュナは、彼以外の誰にも向かわない信愛で彼を崇拝する者たちを救い出すと約束している。彼はアルジュナに、自分を唯一の避け所として来るよう求めている。
反論
イスラームは、人はただ一人の助け手と一つの避け所だけに向かうべきであることに同意している。クルアーンはこれが決して生まれない神であることを求めている。「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」。
イスラームの視点
神が唯一であると信じることは、ただかれだけを崇拝することと共に行かなければならない。礼拝、身をかがめること、犠牲、助けを求めるすべての呼びかけは神に属し、かれのほかの誰にも属さない。これはすべての使徒の使信であり、クルアーンはそれをムハンマド(ﷺ)を通してすべての人々にもたらした。『ギーター』の最も高い崇拝も同じ方向を指している。イスラームは、かれのほかにどんな神もなしに、その崇拝を求めている。
クルアーンは、メッカの人々はアッラー(﷾)を天と地の創造主として、また自分たち自身の創造主として名指していたと言う。けれども彼らはかれと並べてほかのものを崇拝した。
彼らは、自分たちはただアッラー(﷾)により近づけられるためにだけほかの存在に仕えていると言い、それらをかれとの間の仲介者と呼んだ。クルアーンはどちらの理由も退けている。
イスラームはどんな新しい神ももたらさなかった。アッラー(﷾)は神を表すアラビア語の語であり、アラブのキリスト教徒もそれを用いている。メッカの人々は、預言者(ﷺ)が神々を一つにしたと異議を唱えた。
すべての使徒は一つの使信と共に遣わされた。アッラー(﷾)のほかに神はない、それゆえかれを崇拝せよ。
礼拝と犠牲、平伏と助けを求めるすべての呼びかけは、ただ神だけに属する。
神のほかに呼び求められる者たちは、天使たちも含め、かれの僕であり、どんな崇拝も受けない。
神はすべての人の近くにおられる。けれども何一つかれに似ておらず、すべての被造物は僕としてかれのもとに来る。
執り成しはただ神だけに属し、誰もかれの許しなしには執り成さない。
預言者(ﷺ)は復活の日について語った。彼はただ自分の主にひれ伏し、嘆願するよう告げられた後にだけ、ほかの者たちのために嘆願するであろう。
彼は、アッラー(﷾)が望まれるなら、自分の嘆願が誰に届くかについて語った。それは、アッラー(﷾)に同位者を立てることなく死ぬ彼の共同体のすべての者に届くであろう。それから最も多くを得る者は、心から誠実にアッラー(﷾)のほかに神はないと言う者たちであろう。
預言者(ﷺ)は墓で死者のために祈ることを教え、墓を礼拝の場所とすることを禁じた。
ムスリムは生きている人に自分のために神に祈ってくれるよう頼んでよい。ウマルはこのようにしてアッバースに雨を祈ってくれるよう頼んだ。しかし預言者(ﷺ)は自分自身の娘に、アッラー(﷾)に対しては自分は彼女を全く助けることができないと告げた。
クルアーンでは、誠実な献身とはただ神だけのために純粋にされた献身を意味する。