短い答え
いいえ。ムスリムはただ神だけに祈り、カアバにも石にも何も求めない。第二代カリフ、ウマルは石に接吻し、それは害することも助けることもできないただの石にすぎないと言った。彼がそれに接吻したのは、ただ預言者(ﷺ)がそれに接吻するのを見たからであった。カアバは礼拝の方向であって、祈りが向けられる方ではない。マディーナで十六か月か十七か月の間、預言者(ﷺ)は、神が方向を変えられるまでエルサレムに向かって礼拝した。クルアーンは、あなたがどこへ向いても、そこに神のお顔があると言う。それはマッカの人々に「この館(カァバ神殿)の主」を崇拝するよう告げている。ある人々は、その石はシヴァの象徴である柱の形をしたシヴァ・リンガであると言う。その最もよく知られた擁護者P・N・オークは、これを1795年のイギリスの将校の報告の上に立てている。どちらの人も、そう言っている聖典を挙げなかった。イスラームの答えは唯一の神だけの崇拝である。
詳しい説明
ヒンドゥー教徒の応答:あなた方にも聖なる石がある
ムスリムが像の崇拝を問うとき、多くのヒンドゥー教徒はカアバで答える。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは1893年にシカゴの宗教会議でヒンドゥー教のために語った。彼は自分の講演の中でその論拠を示した。ヒンドゥー教徒は、と彼は言った、像が神ではないことを知っている。彼は自分が祈る一なる方に心を留めておくためにそれを用いるのである。ムスリムは、と彼は言った、像を偶像崇拝と呼びながら、カアバを思い描き、礼拝するときそれに向かう。巡礼の際に彼らは黒石に接吻する。彼は、彼らはその接吻が審判の日に自分たちのために証言すると信じていると言った。ほかの者たちは、巡礼者はヒンドゥー教徒が寺院の周りを歩くようにカアバの周りを歩くと付け加える。イスラーム以前、と彼らは言う、アラブ人は石を崇拝してその周りを歩き、イスラームはこの一つを保ったのである。
“兄弟たちよ、われわれは呼吸せずに生きられないのと同じく、心の像なしに何かを考えることはできない。連想の法則によって、物質的な像は心の観念を呼び起こし、その逆もまた然りである。だからヒンドゥー教徒は礼拝するとき外的な象徴を用いるのである。彼は、それが自分の祈る存在に心を据え続ける助けになると言うであろう。彼はあなたがたと同じくらいよく、像が神ではなく、遍在するものではないことを知っている。”
“マホメット教徒は、祈るとき、カアバ、すなわち黒石を中に収めた神殿の心の像を作ろうとし、西の方を向くなら、それはまったく正しいが、教会の形の像を作るならそれは偶像崇拝だと考える。これが像崇拝の欠点である。しかしこれらはみな必要な段階であるように思われる。”
すべての象徴を拒む改革者たちは決して成功しないと論じている。たいていの人は何か具体的なものを必要とし、大衆はある象徴を別の象徴と取り替えるにすぎないからである。彼の例の一つはムスリムで、ムスリムは他の人々のあらゆる像、形、儀式を罪深いものとみなすが、自分の聖所カアバはそうみなさない。どこで祈るにせよ、とヴィヴェーカーナンダは言う、彼は自分がその前に立っていると想像しなければならない。巡礼では黒石に口づけしなければならない。そして何百万もの巡礼者の口づけが、審判の日に信者のために証言するであろう、と。
アブー・ラジャー・アル=ウターリディーは、イスラーム以前、自分の民は石を崇拝していたと回想している。よりよい石を見つけると、最初の石を投げ捨てて別の石を取った。石が見つからないと、土を盛り上げ、その上で羊の乳をしぼり、その周りを回った。彼は、預言者(ﷺ)が遣わされたとき、自分は家族のラクダを放牧する少年であったと付け加えている。これはイスラーム以前の時代についてのアブー・ラジャー自身の言葉であって、預言者の言葉ではない。
ウマルが石に言ったこと
ウマルは預言者(ﷺ)の教友であり、アブー・バクルの後のムスリムの指導者、第二代カリフであった。彼自身がその答えを与えた。彼は黒石に接吻し、自分はそれが害することも益することもできない石であると知っているとそれに告げた。もし預言者(ﷺ)がそれに接吻するのを見ていなかったなら、と彼は言った、自分はそれに接吻しなかったであろう。もう一人の証人は、アッラー(﷾)にかけての誓いと共に同じ言葉を伝えている。三つ目の伝承では、彼は自分はそれが石であると知っていると誓い、害と益についての言葉なしに同じ理由を挙げている。四つ目では、彼は石に接吻してそれにすがりつき、アッラー(﷾)の使徒(ﷺ)がそれを大いに大切にするのを見たと言った。これらの伝承の各々の中で、ウマルが挙げる理由は預言者(ﷺ)がしたことである。イブン・ハジャルに引用された学者タバリーは、なぜウマルがそのように語ったかを説明した。人々はつい最近偶像の崇拝を離れたばかりであった。ウマルは無知な者たちに、石に触れることがイスラーム以前に行われていた石の崇敬であると思わせたくなかったのである。それに接吻することは預言者(ﷺ)に従うことであって、石に何かを求めることではない。またそれは義務でもない。預言者(ﷺ)はあるときらくだに乗ってカアバの周りを回り、石の角を指して、アッラーフ・アクバル、アッラー(﷾)は最も偉大なりと言った。ヴィヴェーカーナンダは、ムスリムは石に与えられた接吻が審判の日に自分たちのために証言すると信じていると言う。たとえそうでも、証人は神ではない。クルアーンは、業火に連れて来られる者たちの皮膚が、すべてのものに言葉を与えられる神によって言葉を与えられて、彼らに不利な証言をすると言う。
アービス・イブン・ラビーアによれば、ウマルは黒石のところに来てそれに口づけした。ウマルは、それが害も益も与えられない石であることを知っている、もし預言者(ﷺ)がそれに口づけするのを見なかったなら、自分はそれに口づけしなかったであろうと言った。
アブドゥッラー・イブン・サルジスによれば、彼はウマルが石に口づけし、アッラーにかけて誓って、それが害も益も与えられない石であると知りながら口づけするのであり、もしアッラーの使徒(ﷺ)がそれに口づけするのを見なかったなら、自分はそれに口づけしなかったであろうと言うのを見た。
サーリムはその父アブドゥッラー・イブン・ウマルから、ウマルが黒石に口づけし、アッラーにかけて誓って、それが石であることを知っている、もしアッラーの使徒(ﷺ)がそれに口づけするのを見なかったなら、自分はそれに口づけしなかったであろうと言ったと伝えている。
スワイド・イブン・ガファラによれば、彼はウマルが黒石に口づけしてそれにすがりつき、アッラーの使徒(ﷺ)がそれを大切に扱うのを見たと言うのを見た。次の伝承(1271b)は同じ言葉を伝え、預言者(ﷺ)をアブー・アル=カースィムと呼び、すがりつくことには触れていない。
黒石へのウマルの言葉について、イブン・ハジャルはアッ=タバリーを引いている。ウマルがこう言ったのは、人々が偶像崇拝をやめたばかりだったからである。彼は、無知な者たちが、石に触れることはイスラーム以前にアラブが行っていたある種の石の崇敬だと考えるのを恐れた。彼は、異教徒たちが自分たちの偶像について信じていたように石がそれ自体で益や害を与えるからではなく、預言者(ﷺ)に従うために自分がそれに触れるのだと人々に知ってほしかったのである。注解は、ウマルの言葉は、一部の無知な人々が抱く、黒石にはそれ自体の特別な力があるという考えを退けるものだと付け加えている。
イブン・アッバースによれば、預言者(ﷺ)はラクダに乗ってカアバを回った。黒石の角に来るたびに、彼は手に持っていたものでそれを指し、アッラーフ・アクバル(アッラーは最も偉大なり)と言った。
“やがて彼らがそこに到来(し、自分たちの罪を否定)すると、彼らの耳と目と皮膚は、彼らが(現世で)行っていたことについて、彼らに不利な証言をする。そして彼らは、自分たちの皮膚に(こう)言う。「あなた方は、どうして私たちに不利な証言をするのか?」彼ら(皮膚)は、言う。「全てのものに言葉を喋らせられるアッラーが、私たちを喋らせられたのだ。かれがあなた方を最初にお創りになったのであり、かれの御許にこそ、あなた方は戻らされる。”
神格ではなく、方向
クルアーンはムスリムに、マッカの聖なるモスクの方に顔を向けるよう求めている。それは彼らにそれを思い描くよう求めていない。すべての礼拝の中で彼らは神に、ただかれだけを崇拝し、ただかれだけに助けを求めると告げる。マディーナに着いた後の十六か月か十七か月の間、預言者(ﷺ)と彼の信奉者たちはエルサレムに向かって礼拝した。それから方向は啓示によって変えられた。神は、以前の方向は、誰が使徒(ﷺ)に従うかを試すためだけに定められたのだと言われた。ある会衆は礼拝の最中にその知らせを聞き、立っている所で向きを変えた。マッカからマディーナへ旅する間、預言者(ﷺ)はらくだの上で、それがどこへ行こうとそれに向かって任意の礼拝をささげた。それを伝えたイブン・ウマルは、どこへ向いても神のお顔があるという節はこれについて啓示されたと言った。礼拝者は一つの方向から別の方向へ向きを変えることはできるが、自分が崇拝する一なる方から向きを変えることはできない。東も西も神に属し、どこへ向いても、そこにかれのお顔がある。
“(使徒よ、)われらは、あなたの顔が天を何度も仰ぐのを見る。では、われらはあなたの満足するキブラへと、必ずやあなたを向けさせよう。ならば、あなたの顔をハラーム・マスジドの方向に向けるがよい。また(ムスリムたちよ)、どこにあろうとも、(礼拝の時は)あなた方の顔をそちらへと向けるのだ。本当に、啓典を授けられた民は、それ(キブラの変更)が彼らの主からもたらされた真理であるということを、まさしく知っている。そしてアッラーは、彼らが行っていることに、迂闊ではあられないのだ。”
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
ウバーダ・イブン・アッ=サーミトによれば、預言者(ﷺ)は、開端章が読誦されない礼拝は有効ではないと言った。
アル=バラーウ・イブン・アーズィブによれば、マディーナに着いた後、預言者(ﷺ)は十六か月か十七か月の間エルサレムに向かって礼拝し、やがて礼拝の方向がカアバに変えられた。
アブドゥッラー・イブン・ウマルによれば、クバーの人々が暁の礼拝をしていたとき、ある者が来て、その夜預言者(ﷺ)にクルアーンが下され、彼はカアバに向くよう命じられたと告げた。彼らはエルサレムの方、シャームに向いていたが、向きを変えてカアバに向いた。
“人々の中の、愚かな者たちは言うだろう。「それまで向かっていた彼らのキブラから、彼ら(ムスリムたち)を転じさせたものは、何なのか?」(使徒よ、)言ってやるがよい。「東も西も、アッラーのもの。かれは、かれがお望みになる者を、まっすぐな道に導かれる」。”
“また(ムスリムたちよ、あなた方を導いたのと)同様に、われらはあなた方を最良の共同体とした。(それは)あなた方が人々に対する証人となり、使徒(ムハンマド)があなた方の証人となるためである。また、われらが、あなたが以前向かっていたキブラ(と、その変更)を定めたのは、使徒に従う者と、後ろへ引き返す者とを如実に表すためであった——それ(キブラの変更に従うこと)はアッラーが導かれた者以外の者にとっては、困難だったのだ——。またアッラーは、あなた方の信仰を無駄にはなされない。本当にアッラーは人々に対し実に哀れみ深いお方、慈愛深いお方なのだから。”
イブン・ウマルによれば、マッカからマディーナへ旅するとき、預言者(ﷺ)はラクダの上で、それがどちらを向いていてもその向きで礼拝したものであり、「あなた方がどこを向こうとも、そこにはアッラーの御顔がある」(2:115)という節はこのことについて下されたと言う。ムスリムはこれを、旅の途中で乗り物の上で、それがどの方向を向いていても行う任意の礼拝についての章に置いている。
“東も西も(その間のものも全て、)アッラーのもの。あなた方がどこを向こうとも、そこには、アッラーの御顔がある。本当にアッラーは公量なお方、全知者であられる。”
聖書の中の神の家に向かっての祈り
祈りの中で聖なる場所に向かうことは聖書の中にも見られ、そこではそれは建物を崇拝することを意味しない。イスラエルの王ソロモンはエルサレムの神殿を献げた。彼は、天そのものも神を入れることはできない、まして自分が建てた家はなおさらであると言った。彼は神に、それに向かって祈る者たちを天から聞いてくださるよう求めた。バビロンに捕らわれていたユダヤ人ダニエルは、窓をエルサレムに向けて開いて、日に三度祈った。ユダヤ教徒とキリスト教徒はこれを建物の崇拝とは読まない。
“しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。”
“しもべとあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いを聞いてください。あなたのすみかである天において聞き、聞いてゆるしてください。”
“ダニエルはその文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からしていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、感謝した。”
| 誰が | 向かう先 | 祈る相手 |
|---|---|---|
| 今日のムスリム | マッカのカアバ | ただ神だけ |
| マディーナの最初のムスリム、十六か十七か月の間 | エルサレム | ただ神だけ |
| 神殿の奉献の際のソロモン | 神殿 | 天におられる神 |
| バビロンのダニエル | エルサレム | 彼の神 |
館ではなく、館の主
ある人々は、ヒンドゥー教の寺院がそこに安置された神格の家であるように、クルアーン自身もカアバを神の館と呼んでいると答える。しかしクルアーンはマッカの人々に、彼らを養い安全に保ってくださるこの館の主を崇拝するよう告げている。二つの節がカアバを「わが館」と呼んでいる。両方とも、それが、その周りを回り、礼拝の中で屈み、平伏する者たちのために清く保たれるよう命じている。そのうちの一つでは、アブラハムへの神の最初の命令は、かれに何ものも並べるなということである。館の周りを回ることは屈むことと平伏することと共にあり、そのすべてが神のためのものである。クルアーンは、すべての礼拝の場は神に属し、それでかれと並べて誰にも呼びかけてはならないと言う。ヒンドゥー教の寺院では、帰依者は神格がその像、ムールティの中に安置された祠の周りを歩く。カアバにはその中に像はなく、そこに安置された神格もない。ヴィヴェーカーナンダは、インドに多神教はないと言った。それを示すために、彼は、どの寺院でも崇拝者たちは神のすべての属性を像に当てはめていると言った。イスラームはカアバにも石にも神の属性を何も与えていない。それはそれらに祈りも食べ物も花もささげず、それらに何も求めない。ある人々は、ヒンドゥー教徒がムールティに衣を着せ沐浴させるように、ムスリムはカアバを布で覆い、それを洗うと付け加える。彼らは確かにそうする。礼拝の家が清く保たれ敬われるように。その世話は、両方の節が言うように、礼拝者たちのためであって、建物への献げ物ではない。
“ならば彼らに、この館(カァバ神殿)の主を崇拝させるのだ。空腹ゆえに食べ物を彼らにお授けになり、彼らを恐怖から安らげて下さったお方を。”
“また、われらがこの館(カァバ神殿)を人々にとっての(不断の)拠り所とし、かつ安全(な場)とした時のこと(を思い起こすがよい)。(われらは言った。)「イブラーヒームの立ち所を、礼拝(の場)とせよ」。われらは、イブラーヒームとイスマーイールに「タワーフする者たち、イァティカーフする者たち、ルクーゥする者たち、サジダする者たちのために、わが館を清めるのだ」と命じた。”
“(預言者よ、)われらがイブラーヒームに館(カァバ神殿)の場所を明確にし、準備してやった時のこと(を思い起こさせるがよい。われらは彼に、こう命じたのだ)。「われに、何ものも並べてはならない。そしてわが館をタワーフする者たち、(礼拝のために)立つ者たち、サジダしルクーゥする者たちのために清めよ。”
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
イブン・アッバースによれば、預言者(ﷺ)はマッカに着いたとき、偶像がある間はカアバに入ろうとせず、それを運び出すよう命じた。それから初めて彼は中に入り、四方に向かって神の偉大さを唱えた。
“まず最初に申し上げておくが、インドには多神教はない。どの寺院でも、そばに立って耳を傾ければ、礼拝者たちが遍在を含む神のすべての属性を像に当てはめているのがわかるであろう。”
カアバはシヴァの寺院であったという主張
ある人々はさらに進む。彼らは、カアバはかつてシヴァの寺院であり、黒石はシヴァ・リンガであったと言う。その周りを歩くムスリムは、と彼らは言う、なおシヴァリンガの周りを回っているのである。インドの著述家P・N・オーク(1917-2007)は、これを『世界ヴェーダ遺産』(1984年)の中で示した。彼はインド史書き換え研究所を創設した。彼は、カアバが古代のシヴァの寺院であることはよく知られていると書いた。巡礼者は、と彼は書いた、ヒンドゥー教の仕方でシヴァリンガの周りを七回回る。彼の説明では、カアバはヴィシュヌを中心とする寺院群であり、その中で石はシヴァの象徴であった。ほかの者たちは、古代の物語と予言のヒンドゥー教の聖典である『バヴィシュヤ・プラーナ』の一節を挙げる。その中でボージャ王はシヴァを砂漠に住む者(マルスタラ・ニヴァーシン)として讃えている。同じ讃辞の中で、彼はシヴァを、外国人であるムレーッチャに守られる者(ムレーッチャイル・グプターヤ)と呼んでいる。その章はまた、外国の師マハーマダを名指している。
時の始めから全世界がヴェーダ文化を実践し、サンスクリットを話していたと論じている。黒石をシヴァリンガと呼び、その根拠として1850年に初めて出版された英国人の旅行回想録を引き、巡礼者はヒンドゥー式にその周りを七回回ると言う(110ページ)。カアバが古代のシヴァ寺院であることはよく知られていると言う(171ページ)。それが『ハリハレーシュワラ・マーハートミヤ』と呼ぶものから二行連句を引き、それをヴィシュヌの足跡をマッカに置くものと読んでいる。これとムスリムの伝承にある360の偶像から、カアバはシヴァを含む神々を祀るヴィシュヌ寺院の複合体であり、ムスリムはシヴァの標章である石を残したと推論している(121-122、669-670ページ)。ヴィシュヌを中心の神、カアバをヴィシュヌの聖所と呼んでいる(642、648ページ)。それが『サイル・ウル・オクール』と呼ぶ詞華集から三つのアラビア語の詩を引き、それは1742年にハールーン・アッ=ラシードのために作られた以前の集成から編まれたと言い、それらはかつてカアバの中の金の板に掛けられていたと言う。それ自身の翻訳では、一つはヴィクラマーディティヤ王を、一つはマハーデーヴァの崇拝とインドへの巡礼を、一つはヴェーダを讃えている(686-689、693-697ページ)。
ボージャ王は軍とともにインダス川を渡り、ガンダーラとカシミールの民を破る(3-4節)。その間に、と章は言う、マハーマダと呼ばれる異国の(ムレーッチャの)師が弟子たちとともに現れる(5節)。王は砂漠に住む者(マルスタラ・ニヴァーシン)マハーデーヴァ(シヴァ)をガンジスの水と牛の五つの産物で沐浴させる。彼は彼を、ギリジャーの主、悪魔トリプラの破壊者、そしてムレーッチャたちに守られた、あるいは隠された者(ムレーッチャイル・グプターヤ)と讃える(6-8節)。シヴァは彼にマハーカーレーシュワラ(ウッジャインのシヴァの寺院)の聖所に行くよう告げる。ヴァーヒーカと呼ばれる地はムレーッチャたちによって堕落させられ、アーリヤのダルマがない。マハーマダがそこに来たのであり、王はその悪魔的な地に行ってはならない、と彼は言う(9-13節)。王は家に帰る(14節)。マハーマダは後に王に、自分の民は割礼を受け、頭頂の髷がなく、ひげを生やし、大声で呼ばわるであろうと告げる(25節)。この章はマッカも、カアバも、石も名指していない。同じ部の後の章(3.4.22.72-78)は、神の子(イーシャプトラ)の信仰を持つ西の島からの商人たちについて語り、その王はカリカタ(カルカッタ)の町から治め、その妃ヴィカターヴァティーは西の島にいたという。
シヴァの主張の背後にある資料
黒石について、オークは1850年のイギリスの旅行記を引用している。その文は、インドにいたイギリスの将校フランシス・ウィルフォードが1795年に印刷した報告を、ほとんど一語一語繰り返している。ヒンドゥー教徒は、とウィルフォードは書いた、その石はマハーデーヴァのリンガであると言い張った。彼らは、ムハンマド(ﷺ)が、彼らがそうであったと断言するように、カアバを再建したとき、それは侮蔑から壁の中に置かれたと付け加えた。真正な伝承は違うことを言っている。クライシュは彼の存命中にカアバを再建し、彼は石を運ぶのを手伝った。イスラームの後、彼の民はイスラームに入ったばかりであったので、彼はそれを再建しないことを選んだ。ウィルフォードはまた、西インドのバラモンたちがマッカをプラーナの伝説の中の聖地と同一視していると伝えた。彼は石をリンガと呼ぶ本文を何も挙げなかった。彼が挙げたアラビア語とペルシア語の著述家たちは、カアバとその石を土星と結びつけていた。十年後、彼は自分の主任パンディト、自分のヒンドゥー教の学者が、自分のためにプラーナの抜粋を偽造したことを認めた。それらには、『スカンダ・プラーナ』と『ブラフマーンダ・プラーナ』の一部として通された二つの長い部分が含まれていた。彼は、1795年の論考のセミラミスの伝説を、パンディトが「最も恥ずべき仕方で歪めた」ものの一つとして名指した。彼はまた、自分がマッカと結びつけたその論考の二羽の鳩の話は、プラーナの学者たちに知られていないと書いた。彼はなお、西インドのヒンドゥー教徒は「もっともらしく」黒石を自分たちのものだと主張していると考えていた。しかし彼らの伝説は、と彼は書いた、プラーナに基づくものと称しているが、それは「はっきりと見いだされるのではないかもしれない」。それでその主張をもっともらしいと考えたウィルフォードでさえ、そのための聖典を何も名指さなかったのである。
インドでの年月についての英国人女性の回想録。マッカへの巡礼についての一節で、引用符に入れ、出典を示さずに、ヒンドゥー教徒はカアバの壁の黒石はマハーデーオ(シヴァ)の一形態であり、ムハンマド(ﷺ)が侮蔑からそこに置いたのであり、新しい改宗者たちはその崇拝をやめようとしなかったと主張している、という言葉を載せている。
インドの英国人士官によるヒンドゥーの伝説についての論考。西インドのバラモンたちが、プラーナの伝説でマハーデーヴァがモクシェーシュワラとして崇拝された聖地モクシャ・スターンはマッカの町であると主張したと伝えている。ヒンドゥー教徒は、カアバの壁の黒石はマハーデーヴァ(シヴァ)のリンガであり、彼らの断言するところでは、ムハンマド(ﷺ)がカアバを再建したときに侮蔑からそこに置かれたのであり、新しい改宗者たちはその崇拝をやめようとしなかったと主張したと付け加えている。それはこれらの伝説を『スカンダ・プラーナ』と『ヴィシュヴァ・サーラ・プラカーシャ』から取ったものとして示している。またマッカの神殿と石を土星と結びつけたアラビア語とペルシア語の著述家を引き、土星はマハーデーヴァであったと示唆している。アラビアの著述家たちは、石はアラビア全土で、とりわけマッカで崇拝されていたと言うと付け加え、黒石は最も遠い昔から偶像崇拝の対象であったと結論している。
アーイシャによれば、預言者(ﷺ)は彼女に、彼女の民クライシュがカアバを建てたとき、イブラーヒームの土台に届かなかったと告げた。彼女は、なぜそれをその土台の上に建て直さないのかと尋ねた。彼は、彼女の民が不信仰から抜け出したばかりでなければ、そうしたであろうと言った。
ジャービル・イブン・アブドゥッラーによれば、カアバが建てられたとき、預言者(ﷺ)とアル=アッバースはそのために石を運びに行った。アル=ブハーリーはこれをカアバの建設についての章に置いている。
ウィルフォードは、自分の主任パンディトが自分を欺いたことを認めている。書物を調べるのを避けるため、パンディトはプラーナについて覚えていたことと、ウィルフォードとの会話で拾ったことから伝説をこしらえた。彼は写本の中の名前を変え、『スカンダ・プラーナ』と『ブラフマーンダ・プラーナ』の一部として通した約12,000行の二つの長い部分を書いた(249-253ページ)。伝説の多くは、国の名前を除けばきわめて正確であった、とウィルフォードは言う。抜粋は常に多くの真実を含んでいるのでなお自分の役に立つが、切り離された一節を何か特定の目的に使うのは危険であろう(251、253ページ)。彼は、1795年の論考の主題であるセミラミスの伝説を、パンディトが最も恥ずべき仕方で歪めたものとして名指している(256ページ)。彼は、その論考の二羽の鳩の話はプラーナの学者たちに知られていないと付け加えている。彼は、西インドの鳩についての伝説は、ムハンマド(ﷺ)がカアバで見つけた鳩からこしらえられたのかもしれないと示唆しているが、なおそこのヒンドゥー教徒にはカアバを元来自分たちのものだと主張するいくらかの理由があると考えていた(257ページ)。後に彼は、西インドのヒンドゥー教徒は、カアバの黒石、二羽の鳩、そしてそこの石の上の足跡を、もっともらしく自分たちのものだと主張していると言う。彼らの伝説は、プラーナにはっきりと見いだされるのではないかもしれないが、プラーナに基づくものと称している、と彼は言う(304-305ページ)。
シヴァの主張のために挙げられるほかの本文
オークがカアバのために引用するサンスクリット語の本文は、彼が『ハリハレーシュワル・マーハートミャ』と呼ぶものからの二行連句である。それは、彼がヴィシュヌのものと取る三つの足跡の一つを「マカ」に置いている。それはシヴァについても石についても何も言っていない。オークは、その二行連句と、ムスリムの伝承の360の偶像から、石はシヴァの象徴であったと推論した。彼はまた、1742年に編纂されたと彼が言う詞華集から三つのアラビア語の詩を引用している。それらはヴィクラマーディティヤ王、マハーデーヴァの崇拝、そしてヴェーダを讃えている。彼自身の翻訳においてさえ、どれもカアバをシヴァの寺院とは呼んでいない。彼は、それらはかつてカアバの中の金の板に掛けられていたと言う。それでも彼の翻訳では、マハーデーヴァへの詩はインドへの巡礼を切望している。『バヴィシュヤ』の一節はマッカも、カアバも、石も名指していない。その中でボージャ王はインダス川を渡り、ガンダーラとカシミールの民を打ち負かした。それからシヴァは、外国人たちがヴァーヒーカと呼ばれる地を堕落させたと言い、王にそこへ行くなと告げる。彼は代わりに王をウッジャインの自分のマハーカーレーシュヴァラの祠へと送り、王は家に帰る。同じ章の中で外国の師マハーマダは、自分の民は割礼を受け、ひげを生やし、声高に呼ばわるであろうと言う。その章自身の言葉はシヴァの祠をインドのウッジャインに置いており、マッカも石も名指していない。
時の始めから全世界がヴェーダ文化を実践し、サンスクリットを話していたと論じている。黒石をシヴァリンガと呼び、その根拠として1850年に初めて出版された英国人の旅行回想録を引き、巡礼者はヒンドゥー式にその周りを七回回ると言う(110ページ)。カアバが古代のシヴァ寺院であることはよく知られていると言う(171ページ)。それが『ハリハレーシュワラ・マーハートミヤ』と呼ぶものから二行連句を引き、それをヴィシュヌの足跡をマッカに置くものと読んでいる。これとムスリムの伝承にある360の偶像から、カアバはシヴァを含む神々を祀るヴィシュヌ寺院の複合体であり、ムスリムはシヴァの標章である石を残したと推論している(121-122、669-670ページ)。ヴィシュヌを中心の神、カアバをヴィシュヌの聖所と呼んでいる(642、648ページ)。それが『サイル・ウル・オクール』と呼ぶ詞華集から三つのアラビア語の詩を引き、それは1742年にハールーン・アッ=ラシードのために作られた以前の集成から編まれたと言い、それらはかつてカアバの中の金の板に掛けられていたと言う。それ自身の翻訳では、一つはヴィクラマーディティヤ王を、一つはマハーデーヴァの崇拝とインドへの巡礼を、一つはヴェーダを讃えている(686-689、693-697ページ)。
ボージャ王は軍とともにインダス川を渡り、ガンダーラとカシミールの民を破る(3-4節)。その間に、と章は言う、マハーマダと呼ばれる異国の(ムレーッチャの)師が弟子たちとともに現れる(5節)。王は砂漠に住む者(マルスタラ・ニヴァーシン)マハーデーヴァ(シヴァ)をガンジスの水と牛の五つの産物で沐浴させる。彼は彼を、ギリジャーの主、悪魔トリプラの破壊者、そしてムレーッチャたちに守られた、あるいは隠された者(ムレーッチャイル・グプターヤ)と讃える(6-8節)。シヴァは彼にマハーカーレーシュワラ(ウッジャインのシヴァの寺院)の聖所に行くよう告げる。ヴァーヒーカと呼ばれる地はムレーッチャたちによって堕落させられ、アーリヤのダルマがない。マハーマダがそこに来たのであり、王はその悪魔的な地に行ってはならない、と彼は言う(9-13節)。王は家に帰る(14節)。マハーマダは後に王に、自分の民は割礼を受け、頭頂の髷がなく、ひげを生やし、大声で呼ばわるであろうと告げる(25節)。この章はマッカも、カアバも、石も名指していない。同じ部の後の章(3.4.22.72-78)は、神の子(イーシャプトラ)の信仰を持つ西の島からの商人たちについて語り、その王はカリカタ(カルカッタ)の町から治め、その妃ヴィカターヴァティーは西の島にいたという。
マッカの偶像、そしてそれらがどうなったか
クルアーンは、アブラハムとイシュマエルが館の土台を築き上げ、神に自分たちの業を受け入れてくださるよう求めたと言う。預言者(ﷺ)の時代までに、マッカの人々はその周りと内部に偶像を立てていた。クルアーンは彼らが仕えていた女神たちを名指している。アッラート、アル・ウッザー、マナートである。彼らの主な偶像はフバルであった。あるアラブ人たちは石も崇拝した。アブー・ラジャー・アル・ウターリディーは、預言者(ﷺ)が遣わされたとき少年であった。彼は、自分の民は一つの石を崇拝し、より良いものを見つけるとそれを投げ捨てたことを思い起こした。クルアーンは石を献じることを忌まわしいこと、シャイターンの業と呼んでいる。巡礼についてのその節は、巡礼者に偶像を避け、決して神に同位者を配するなと告げている。預言者(ﷺ)がマッカに入ったとき、360の偶像がカアバの周りに立っていた。彼は杖でそれらを打ち、真理が来て、偽りは戻らないと言った。彼は、アブラハムとイシュマエルの絵を含め、内部の偶像が運び出されるまで中に入ろうとしなかった。それから彼は中に入り、あらゆる方向に神の偉大さを宣言した。館は、クルアーンが言うように、アブラハムとイシュマエルがそのために築き上げた唯一の神の崇拝へと返されたのである。
“また、イブラーヒームとイスマーイールが、その館(カァバ神殿)の礎を上げ(て建設し)た時のこと(を思い起こさせよ。二人は、こう祈っていた。)「我らが主よ、私たちから(祈りと行いを)お受け入れ下さい。あなたは本当に、よくお聴きになるお方、全知者であられますから。”
“(シルクの徒よ、)言ってみよ、アッ=ラートとアル=ウッザーについて、また、別の三番目、マナートについて(、それらが害する力や益する力を有しているのかを)。”
古代南アラビアでは、それぞれの民が自分たちの月の神を崇拝していたと述べる。ミナ人のワッド、カタバーン人のアンム、ハドラマウトのスィーン、サバア人のアルマカフ(イルムクフ)である。フバルをマッカで最も重要な神とし、伝説では雨の神、戦士の神として描かれているとする。
アブー・ラジャー・アル=ウターリディーは、イスラーム以前、自分の民は石を崇拝していたと回想している。よりよい石を見つけると、最初の石を投げ捨てて別の石を取った。石が見つからないと、土を盛り上げ、その上で羊の乳をしぼり、その周りを回った。彼は、預言者(ﷺ)が遣わされたとき、自分は家族のラクダを放牧する少年であったと付け加えている。これはイスラーム以前の時代についてのアブー・ラジャー自身の言葉であって、預言者の言葉ではない。
“信仰する者たちよ、酒、賭け事、(アッラーを差しおいて崇めるために)立てられたもの、賭矢を引くことは、シャイターンの行いであり、穢れに外ならない。ゆえにあなた方が成功するように、それ(ら)を避けるのだ。”
“それ(が、アッラーのご命令)である。(ゆえにそれを厳粛に受け止めよ。)アッラーの神聖な諸事を厳粛なものとする者ならば、それが彼の主の御許で、より善いことなのである。また、あなた方に誦んで聞かされるものを除いて、あなた方には家畜(の食用)が許された。ならば偶像による穢れを避け、偽りの言葉を避けるのだ。アッラーに対して純正に、かれに(いかなるものも)並べることなく(、それらを避けよ)。そしてアッラーにシルクを犯す者は誰でも、(その様子は)天から墜落して、鳥が彼をさらってしまうか、あるいは風が彼を遠い場所へと(運び去って)放り落してしまうかのようである。”
アブドゥッラー(・イブン・マスウード)によれば、預言者(ﷺ)が征服の日にマッカに入ったとき、カアバの周りには360体の偶像が立っていた。彼は手にした杖でそれらを打ち、真理が来た、虚偽はもう始まることも戻ることもない、と言った。
イブン・アッバースによれば、預言者(ﷺ)はマッカに来たとき、偶像がある間はカアバに入ろうとせず、それを運び出すよう命じた。取り除かれたものの中には、イブラーヒームとイスマーイールの絵もあった。
イブン・アッバースによれば、預言者(ﷺ)はマッカに着いたとき、偶像がある間はカアバに入ろうとせず、それを運び出すよう命じた。それから初めて彼は中に入り、四方に向かって神の偉大さを唱えた。
答えごとに
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『バクティ・ヨーガについての講演』、「主な象徴」
“マホメット教徒は、祈るとき、カアバ、すなわち黒石を中に収めた神殿の心の像を作ろうとし、西の方を向くなら、それはまったく正しいが、教会の形の像を作るならそれは偶像崇拝だと考える。これが像崇拝の欠点である。しかしこれらはみな必要な段階であるように思われる。”
引用の目的
ムスリムは日に五回カアバに向かい、礼拝するときそれを思い描く。それは、像の代わりに建物を置いた像の崇拝である。
応答
クルアーンはムスリムに、聖なるモスクの方に顔を向けるよう求めている。それは彼らにそれを思い描くよう求めておらず、すべての礼拝の中で彼らは神に、「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」と言う。その方向そのものが命令によって定められた。マディーナで十六か月か十七か月の間、預言者(ﷺ)はエルサレムに向かって礼拝した。神は、その以前の方向は誰が使徒(ﷺ)に従うかを試すためだけに定められたと言われる。その変更が告げられたとき、ある会衆は礼拝の最中に向きを変えた。ダニエルもまたエルサレムに向かって祈り、ユダヤ教徒とキリスト教徒は彼が建物を崇拝したとは言わない。マッカからマディーナへ旅する間、預言者(ﷺ)はらくだの上で、それがどこへ行こうとそれに向かって任意の礼拝をささげた。それを伝えたイブン・ウマルは、「あなた方がどこを向こうとも、そこには、アッラーの御顔がある」という節はこれについて啓示されたと言った。ムスリムがカアバに向かうのは神がそう言われたからであり、彼は神に祈っている。どこへ向いても、そこにアッラー(﷾)のお顔がある。
結論 — カアバに向かうことは方向についての従順である。礼拝そのものは神だけの崇拝である。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「ヒンドゥー教についての論文」、万国宗教会議、シカゴ、1893年9月19日
“兄弟たちよ、われわれは呼吸せずに生きられないのと同じく、心の像なしに何かを考えることはできない。連想の法則によって、物質的な像は心の観念を呼び起こし、その逆もまた然りである。だからヒンドゥー教徒は礼拝するとき外的な象徴を用いるのである。彼は、それが自分の祈る存在に心を据え続ける助けになると言うであろう。彼はあなたがたと同じくらいよく、像が神ではなく、遍在するものではないことを知っている。”
引用の目的
ヒンドゥー教徒もまた像が神ではないことを知っている。ちょうどウマルが石はただの石にすぎないと知っていたように、彼は心を神に留めておくためにそれを用いるのである。それで二つの実践は同じである。
応答
違いは崇拝者が何を知っているかではなく、彼がその物の前で何をするかにある。ヴィヴェーカーナンダは、インドに多神教はないと言った。それを示すために、彼は、どの寺院でも崇拝者たちは、遍在さえ含め、神のすべての属性を像に当てはめていると言った。イスラームはカアバと黒石に神の属性を何も与えていない。それはそれらに祈りも食べ物も花もささげず、それらに何も求めない。礼拝の場は神だけのためのものだからである。ウマルは石に、お前は害することも益することもできず、自分はただ預言者(ﷺ)がそうしたからお前に接吻するのだと告げた。その角のところで預言者(ﷺ)は、アッラーフ・アクバル、アッラー(﷾)は最も偉大なりと言った。
結論 — 神の属性をもって呼びかけられる像は崇拝を受ける。害することも益することもできないと告げられる石は受けない。
ヴィヴェーカーナンダ「バクティ、すなわち信愛」
すべての象徴を拒む改革者たちは決して成功しないと論じている。たいていの人は何か具体的なものを必要とし、大衆はある象徴を別の象徴と取り替えるにすぎないからである。彼の例の一つはムスリムで、ムスリムは他の人々のあらゆる像、形、儀式を罪深いものとみなすが、自分の聖所カアバはそうみなさない。どこで祈るにせよ、とヴィヴェーカーナンダは言う、彼は自分がその前に立っていると想像しなければならない。巡礼では黒石に口づけしなければならない。そして何百万もの巡礼者の口づけが、審判の日に信者のために証言するであろう、と。
引用の目的
ヒンドゥー教徒が寺院の周りを歩き、ムールティに触れるように、ムスリムはカアバの周りを歩き、黒石に接吻する。ヴィヴェーカーナンダは、彼らはその接吻が審判の日に自分たちのために証言すると信じていると付け加えている。あるムスリムはまた、その石は楽園から降って来たと言う。それは石にそれ自身の力を与えることである。
応答
外側の行いは似て見えるので、問いは何がそれらを受けるかである。寺院では帰依者は、神格がその像の中に安置された祠の周りを歩く。そこでは神格が献げ物と祈りを受ける。カアバにはその中に像はなく、そこに安置された神格もない。預言者(ﷺ)はその偶像を運び出させ、彼が中に入ったとき、あらゆる方向に神の偉大さを宣言した。石の角のところで彼は、アッラーフ・アクバル、アッラー(﷾)は最も偉大なりと言った。あるとき彼はただらくだの上からそれを指しただけであったので、それに接吻することは義務でさえない。ウマルがそれに接吻したのはただ預言者(ﷺ)がそうしたからであり、彼はそれに、お前は害することも益することもできないと告げた。ある伝承は確かに、その石は楽園から降って来たと言っている。たとえそうでも、それは創造された石であり、ウマルの言葉はなお立っている。証言することについて言えば、証人は神ではない。クルアーンは、その日、業火に連れて来られる者たちの皮膚が彼らに不利な証言をすると言う。アッラー(﷾)がそれらに言葉を与えられるのである、「全てのものに言葉を喋らせられるアッラー」が。神のお許しによって証言するものは、かれの証人であって、かれの同位者ではない。
結論 — 巡礼者は、その中に像も神格もない家の周りを回り、そこでの彼の言葉は神に向けられている。石に接吻することは預言者(ﷺ)に従うことであって義務ではなく、神のお許しによって語る証人は神ではない。
サヒーフ・ブハーリー 4376 — 遠征の書(キターブ・アル=マガーズィー)、ハディース4376
アブー・ラジャー・アル=ウターリディーは、イスラーム以前、自分の民は石を崇拝していたと回想している。よりよい石を見つけると、最初の石を投げ捨てて別の石を取った。石が見つからないと、土を盛り上げ、その上で羊の乳をしぼり、その周りを回った。彼は、預言者(ﷺ)が遣わされたとき、自分は家族のラクダを放牧する少年であったと付け加えている。これはイスラーム以前の時代についてのアブー・ラジャー自身の言葉であって、預言者の言葉ではない。
引用の目的
イスラーム以前、アラブ人は石を崇拝し、その周りを歩いた。ブハーリー自身の中の伝承がそれを記録している。黒石は彼らの聖なる石の一つであり、イスラームはそれと、その周りを歩くことを保った。古い石の崇拝は新しい名の下で続いているのである。
応答
その伝承は、預言者(ﷺ)が遣わされたとき少年であったアブー・ラジャー・アル・ウターリディーの記憶である。彼の民は、と彼は言う、一つの石を崇拝し、より良いものを見つけるとそれを投げ捨てた。イスラームはそれを終わらせた。クルアーンは石を献じることを忌まわしいこと、シャイターンの業と呼び、巡礼者に偶像を避け、決して神に同位者を配するなと告げている。ムスリムの学者たちはこの問いにずっと前に向き合った。イブン・ハジャルに引用されたタバリーは、なぜウマルが石にあのように語ったかを説明している。人々はつい最近偶像の崇拝を離れたばかりであった。ウマルは無知な者たちに、それに触れることが古い石の崇敬であると思わせたくなかった。彼がそれに触れたのは預言者(ﷺ)に従うためであって、異教徒が自分たちの偶像について信じたように、それがそれ自身で害したり益したりできるからではなかった。周りを歩くことは石にではなく、館に属している。クルアーンは、アブラハムとイシュマエルが館を築き上げたと言う。それはアブラハムに、その周りを回り、そこで礼拝する者たちのためにそれを清く保てと告げている。預言者(ﷺ)は、その周りと内部に立てられていた偶像を一掃した。
結論 — イスラームは石の崇拝を終わらせた。それはアブラハムの館を神だけの崇拝のために保った。それは石を、ただ預言者(ﷺ)が触れた角、害することも益することもできない石としてだけ保った。
クルアーン 22:26 — 巡礼章、第26節
“(預言者よ、)われらがイブラーヒームに館(カァバ神殿)の場所を明確にし、準備してやった時のこと(を思い起こさせるがよい。われらは彼に、こう命じたのだ)。「われに、何ものも並べてはならない。そしてわが館をタワーフする者たち、(礼拝のために)立つ者たち、サジダしルクーゥする者たちのために清めよ。”
引用の目的
クルアーン自身がカアバを神の館と呼んでいる。それで、ヒンドゥー教徒が神は聖別された像の中におられると信じるように、ムスリムは神がそこに住んでおられると信じている。彼らは、ヒンドゥー教徒がムールティに衣を着せ沐浴させるように、それを布で覆い、洗いさえする。
応答
二つの節がカアバを「わが館」と呼んでいる。両方とも、それは、その周りを回り、礼拝の中で屈み、平伏する者たちのために清く保たれるべきであると言う。神が巡礼章でそれを「わが館」と呼ばれる所で、アブラハムへのかれの最初の命令はこうである。「われに、何ものも並べてはならない」。クルアーンは、すべての礼拝の場は神に属し、それでかれと並べて誰にも呼びかけてはならないと言う。神の家とは、かれの崇拝のために建てられた家である。ソロモンは自分の神殿について同じことを言った。いと高き天も神を入れることはできない、「ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」。ムスリムは確かに、礼拝の家が清く保たれ敬われるように、カアバを覆い洗う。その世話は、両方の節が言うように、礼拝者たちのためであって、建物への献げ物ではない。預言者(ﷺ)がカアバの中に入ったとき、その偶像が運び出された後、彼はあらゆる方向に神の偉大さを宣言した。
結論 — 巡礼章でクルアーンは、かれに何ものも並べることを禁じる同じ節の中でカアバを神の館と呼んでいる。それはかれの崇拝のための家であって、かれの住まいではない。
P・N・オーク『世界のヴェーダの遺産』(1984年)
時の始めから全世界がヴェーダ文化を実践し、サンスクリットを話していたと論じている。黒石をシヴァリンガと呼び、その根拠として1850年に初めて出版された英国人の旅行回想録を引き、巡礼者はヒンドゥー式にその周りを七回回ると言う(110ページ)。カアバが古代のシヴァ寺院であることはよく知られていると言う(171ページ)。それが『ハリハレーシュワラ・マーハートミヤ』と呼ぶものから二行連句を引き、それをヴィシュヌの足跡をマッカに置くものと読んでいる。これとムスリムの伝承にある360の偶像から、カアバはシヴァを含む神々を祀るヴィシュヌ寺院の複合体であり、ムスリムはシヴァの標章である石を残したと推論している(121-122、669-670ページ)。ヴィシュヌを中心の神、カアバをヴィシュヌの聖所と呼んでいる(642、648ページ)。それが『サイル・ウル・オクール』と呼ぶ詞華集から三つのアラビア語の詩を引き、それは1742年にハールーン・アッ=ラシードのために作られた以前の集成から編まれたと言い、それらはかつてカアバの中の金の板に掛けられていたと言う。それ自身の翻訳では、一つはヴィクラマーディティヤ王を、一つはマハーデーヴァの崇拝とインドへの巡礼を、一つはヴェーダを讃えている(686-689、693-697ページ)。
引用の目的
カアバは古代のシヴァの寺院であり、黒石はシヴァ・リンガである。ムスリムは、ヒンドゥー教徒がシヴァリンガの周りを歩くように、なおその周りを七回歩く。『バヴィシュヤ・プラーナ』の一節は、シヴァを、外国人に守られる、砂漠に住む者として讃えてさえいる。
応答
P・N・オーク自身の資料をさかのぼると、黒石がシヴァ・リンガであるという主張は1795年より前にはさかのぼらない。石について、オークは1850年のイギリスの旅行記を引用している。それは、インドにいたイギリスの将校フランシス・ウィルフォードが1795年に印刷した報告をほとんど一語一語繰り返している。ヒンドゥー教徒は、とウィルフォードは書いた、その石はマハーデーヴァのリンガであると言い張った。彼はそう言っている本文を何も挙げなかった。十年後、彼は自分の主任パンディトが自分のためにプラーナの箇所を偽造したことを認めた。彼は1795年の論考のセミラミスの伝説を、パンディトが「最も恥ずべき仕方で歪めた」ものの一つとして名指した。彼はなおその主張をもっともらしいと考えていたが、石についてのヒンドゥー教徒の伝説は、プラーナに「はっきりと見いだされるのではないかもしれない」と書いた。オークが引用するサンスクリット語の二行連句は、彼がヴィシュヌのものと取る足跡を「マカ」に置いている。それはシヴァについても石についても何も言っていない。彼が引用する三つのアラビア語の詩のどれも、彼自身の翻訳においてさえ、カアバをシヴァの寺院とは呼んでいない。『バヴィシュヤ』の一節はマッカも、カアバも、石も名指していない。その章でシヴァは王に、外国人たちが堕落させた地へ行くなと告げる。その章の外国の師マハーマダは、自分の民は割礼を受け、ひげを生やすであろうと言う。それでもそれは王をインドのウッジャインのシヴァの祠へと送っている。マッカで読誦されたクルアーンは、マッカの人々が仕えていた女神たちを名指している。アッラート、アル・ウッザー、マナートである。彼らの主な偶像はフバルであった。以前そこに何が立っていたにせよ、預言者(ﷺ)はカアバの周りの偶像を杖で打ち、真理が来たと宣言した。彼は内部のものを運び出させ、ムスリムはそこで神だけに祈っている。
結論 — シヴァの主張についてのオークのたどる道は、1795年の報告より前にはさかのぼらない。クルアーンは異教のマッカの女神たちを名指しており、預言者(ﷺ)はそこでの偶像の崇拝に終止符を打った。
さまざまな視点
ヴィヴェーカーナンダ:すべての宗教にはその象徴がある
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、誰も心の像なしには考えることができないので、すべての宗教は象徴を用いるとした。ヒンドゥー教徒は、と彼は言った、像が神ではないことを知っており、心を神に留めておくためにそれを用いる。彼はカアバと黒石を、同じ種類のムスリムの象徴と数えた。
ヒンドゥー教徒は心を神に留めておくために像を用い、像が神ではないことを知っている。
反論
多くのヒンドゥー教徒は確かにこう言うが、違いはその物の前で何がなされるかである。ヴィヴェーカーナンダは、寺院の崇拝者たちは神のすべての属性を像に当てはめていると言う。イスラームはカアバと石にそのどれも与えておらず、ウマルは石に、お前は害することも益することもできないと告げた。
像を偶像崇拝と呼ぶムスリムは、礼拝するときカアバを思い描き、それに向かう。
反論
クルアーンはムスリムに、聖なるモスクに向かうよう求めているのであって、それを思い描くよう求めているのではない。その方向は命令によって定められた。彼らは初めエルサレムに向かって礼拝したからであり、礼拝の中で彼らは神に「私たちはあなただけを崇拝し」と言う。ユダヤ教徒とキリスト教徒は、ダニエルがエルサレムに向かって祈ったとき建物を崇拝したとは言わない。
ムスリムは巡礼の際に黒石に接吻する。彼らは、その接吻が審判の日に自分たちのために証言すると信じている。
反論
証人は神ではない。クルアーンは、その日、業火に連れて来られる者たちの皮膚が、神の言葉の賜物によって証言すると言う。石に接吻することは預言者(ﷺ)に従うことであり、義務ではない。
シヴァの寺院という主張
何人かのヒンドゥー教の著述家、とりわけP・N・オークは、カアバはかつてヒンドゥー教の寺院であったと主張している。彼らは、黒石はムスリムがなおその周りを歩くシヴァ・リンガであると言う。
カアバは古代のシヴァの寺院であり、黒石はシヴァリンガである。
反論
石についてのオークのたどる道は、そのための本文を何も挙げていない1795年の報告で終わる。彼が引用するサンスクリット語とアラビア語の箇所のどれも、カアバをシヴァの寺院とは呼んでいない。クルアーンは異教のマッカの女神たちを名指しており、預言者(ﷺ)はその偶像に終止符を打った。
あるイギリスの将校は1795年に、ヒンドゥー教徒は黒石がマハーデーヴァのリンガであると言い張ったと記録した。
反論
彼は確かにヒンドゥー教徒が言い張ったことを記録したが、石をリンガと呼ぶ本文を何も挙げなかった。十年後、彼は自分の主任パンディトがプラーナの箇所を偽造したことを認めた。彼は、まさにこの1795年の論考の中の一つの伝説を、パンディトが「最も恥ずべき仕方で歪めた」ものとして名指した。
『バヴィシュヤ・プラーナ』の一節は、シヴァを、外国人に守られる、砂漠に住む者として讃えている。ある人々はこれをマッカのシヴァと読む。
反論
その節はマッカも、カアバも、石も名指していない。その中でシヴァは王に、外国人たちが堕落させた地へ行くなと告げる。彼は代わりに王をウッジャインの自分自身の祠へと送るので、その節はシヴァの祠をインドに置いているのである。
イスラームの視点
ムスリムは神だけを崇拝している。カアバは神が定められた礼拝の方向であり、かれの崇拝のために建てられた家である。黒石は、ただ預言者(ﷺ)がそれに接吻したからというだけで接吻される。どちらも祈られず、助けを求められず、献げ物を与えられない。
ウマルは黒石に接吻し、それに、お前は害することも益することもできないと告げた。彼がそれに接吻したのは、ただ預言者(ﷺ)がそれに接吻するのを見たからであった。
石のところのウマルについての伝承があり、あるものでは彼はそれにすがりついた。そこでさえ、彼の理由は預言者(ﷺ)がするのを見たことである。
らくだに乗って、預言者(ﷺ)はカアバの周りを回り、黒石の角を指した。彼は、アッラーフ・アクバル、アッラー(﷾)は最も偉大なりと言った。
クルアーンは館の主の崇拝を命じている。神がカアバを「わが館」と呼ばれる22:26で、かれはまず、かれに何ものも並べることを禁じておられる。
預言者(ﷺ)と彼の信奉者たちは、クルアーンが彼らをマッカへと向けるまで、十六か月か十七か月の間エルサレムに向かって礼拝した。クルアーンは、以前の方向は試しとして定められたと言う。
カアバに向かうことは方向についての命令への従順であって、建物の崇拝ではない。どこへ向いても、そこにアッラー(﷾)のお顔がある(2:115)。
預言者(ﷺ)はカアバの周りの360の偶像を杖で打ち、真理が来たと宣言した。彼は内部の偶像を運び出させた。
P・N・オークの資料をたどると、黒石がシヴァ・リンガであるという主張は1795年にさかのぼる。そのときあるイギリスの将校が、ヒンドゥー教徒がそう言い張ったと伝えたが、彼はそう言っている聖典を何も挙げなかった。彼は後に、自分のパンディトが自分のためにプラーナの箇所を偽造したことを認めた。