短い答え
はい。出エジプト記は、天と地を造った後、神は休み、いこわれたと言っている。創世記は、ヤコブが夜通し格闘し、神と争って勝ったと告げられたことを語っている。神はかれの契約(かれの厳粛な約束)を思い出すことができるように、虹を空に置かれる。ある詩篇(聖書の中の祈りの歌)は神に目を覚ましてくださいと叫び、なぜ眠っておられるのかと問う。別の詩篇は、かれは酒によって叫ぶ人のように目を覚まされたと言う。聖書はこれらの言葉を聖典として保っている。クルアーンは決して神を疲れた、眠っている、あるいは思い出させてもらう必要がある方として描いていない。それは、天と地を創造することにおいてどんな疲れもかれに触れなかったと言う。どんなまどろみも眠りもかれを捕らえることはできない。かれは決して忘れず、決してかれの約束を破られない。かれに似たものは何一つない。
詳しい説明
キリスト教徒はこれらの節をどう読むか
キリスト教徒は、これらは神について語る人間的な語り方であるとしている。彼らは、聖書はまた神は疲れも眠りもしないとはっきり言っていると付け加える。イザヤは、創造者は弱ることなく、また疲れることがないと言う。ある詩篇は、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもないと言う。
“あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。”
“見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。”
休み、いこわれた
出エジプト記は、神ご自身の言葉で、安息日(週ごとの休みの日)をしるしとして与えている。それはまた理由を与えている。六日のうちにかれは天と地を造り、七日目に休み、いこわれた。ただ自分を使い果たした存在だけがいこいを必要とする。クルアーンはこれに直接答えている。神は六日のうちに天と地を創られ、どんな疲れもかれに触れなかった。
“これは永遠に、わたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日のうちに天と地とを造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである。”
“われらは確かに、諸天と大地、その間にあるものを六日間で創った。疲れ一つ、われらに及ぶこともなしに。”
夜明けまで格闘した
創世記では、ある人が夜明けまでヤコブと格闘し、彼に勝つことができない。それから彼はヤコブをイスラエルと改名する。ヤコブは神と争って力を得、勝ったからである。ヤコブは顔と顔とを合わせて神を見たことでその場所を名づける。問題は「顔」のような語ではなく、クルアーンもまたそれを神について用いている(55:27)。問題は人が勝つ格闘である。クルアーンは、神に似たものは何一つなく、誰もかれに等しくないと言う。
“ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。”
“その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたは君のように神と人とに力をふるって勝ったからです」。”
“そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。”
“そしてあなたの主の、高貴さと荘厳さを湛えた御顔だけが残る。”
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
思い出させられ、眠り、忘れる
神は、かれの契約を思い出すことができるように虹を見ると言われる。ある詩篇は神に目を覚ますよう呼びかけ、なぜ眠っておられるのかと問う。別の詩篇は、かれは眠りから目をさましたように、酒によって叫ぶ勇士のように目を覚まされたと言う。クルアーンはその反対を言う。神は決して間違えることも忘れることもなく、どんなまどろみも眠りもかれを捕らえることはできない。かれは祈りを聞かれるお方であり、人々がするすべてのことをご覧になる。
“「にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべての肉なるすべての生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。”
“主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。われらをとこしえに捨てないでください。”
“その時、主は眠りから目をさましたように、また酒によって叫ぶ勇士のように目をさまされた。”
“彼(ムーサー)は言った。「その知識は、我が主の御許、書の中にあります。我が主は間違えることも、忘れることもありません。”
“そして(ジブリールよ、使徒ムハンマドにこう言うのだ、)「私たち(天使)は、あなたの主のご命令によらずしては、(天から地に)降臨することがない。かれにこそ、私たちの前にあるものと、後ろにあるもの、そしてその間にあるものが属するのだ。そしてあなたの主はもとより、忘れたりするお方ではない。”
“アッラーは、かれの外に(真に)崇拝すべきものがなく、永世するお方、全てを司るお方。まどろみも眠りも、かれを捉えることはない。諸天にあるものと、大地にあるものは(全て)、かれに属する。かれのお許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか?かれは、彼ら(全存在)の前にあるものも、彼らの背後にあるものも、ご存知である。そしてかれのお望みになることの外、彼らはかれの御知識について、何も把握することはないのだ。かれの玉座は、諸天と大地に広がり、その二つの護持が、かれを疲れさせることもない。そしてかれは至高のお方、この上なく偉大なお方であられる。”
“年老いた私に、イスマーイールとイスハークをお授けになったアッラーに、全ての称賛あれ。本当に我が主は、まさしく祈りを聞き届けられるお方。”
“本当にアッラーは、諸天と大地の不可視の世界をご存知である。そしてアッラーは、あなた方が行うことをご覧になるお方なのだ。”
神がかれの言葉を破ったと言う祈り
詩篇89篇で神は、かれの契約を破らないと言われる。四節後、その詩篇は神に、かれはかれの僕の契約を捨てられたと告げている。聖書はその祈りを一言の訂正もなく聖典として保っている。クルアーンは、アッラー(﷾)は決してかれの約束を違えられないと言う。それはまた罪人たちに、決してかれの慈悲に絶望するなと告げている。
“わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。”
“しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られた。あなたはしもべとの契約を破棄し、彼の冠を地に投げ捨てて汚された。”
“アッラーのお約束を(、信仰者たちに約束された)。アッラーはそのお約束を、破られない。しかし、(マッカの不信仰な)人々の大半は知らないのだ。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
| 問い | 聖書 | クルアーン |
|---|---|---|
| 神は疲れられるか? | 六日の後、かれは休み、元気を回復された(出エジプト記31:17)。 | 諸天と大地を創造するのに、どんな疲れもかれに触れなかった(クルアーン50:38)。 |
| 人は神に打ち勝つことができるか? | ヤコブは、神と争って勝ったと告げられる(創世記32:28)。 | いかなるものもかれには似ていない(クルアーン42:11)。 |
| 神は眠られるか? | ある詩篇はかれに、目を覚ませ、なぜ眠っておられるのかと尋ねている(詩篇44:23)。別の詩篇は、かれは酒から叫ぶ人のように目を覚まされたと言っている(詩篇78:65)。 | まどろみも眠りもかれをとらえることはない(クルアーン2:255)。 |
| 神はかれの言葉を破られるか? | ある詩篇はかれに、あなたはしもべとの契約を捨てられたと告げている(詩篇89:39)。 | アッラー(﷾)は決してかれの約束から離れられない(クルアーン30:6)。 |
キリスト教徒はこれらを人間的な語り方と呼びます。けれども出エジプト記31:17は神ご自身の言葉として挙げられており、詩篇78:65は祈りではありません。それは主が眠りから覚めた者のように目を覚まされたと物語っているのです。
誘惑され、知らなかった神
キリスト教徒にとって、イエスは神である。けれども新約聖書の福音書は、彼は悪魔に試みられるために荒野に導かれたと言っている。ヤコブの手紙は、神は悪に誘惑されることがないと言っている。イエスはまた、子はその日その時を知らず、ただ父だけが知っておられると言った。ヘブライ語聖典はすでに、神は人ではないと言っていた。
“さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。”
“だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪に誘惑されるようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。”
“その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。”
“神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。”
“わたしはわが激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは町に入らない。”
節ごとに
クルアーン 42:11 — 相談章、第11節
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
引用の目的
これらはただ神について語る人間的な語り方にすぎない。クルアーンも神の御顔と御手について語るとき同じことをしている。
応答
イスラームは、神はかれの被造物に似ていないことに同意している。クルアーンは確かにかれの御顔(55:27)とかれの御手(38:75、5:64)について語っている。ムスリムはそれらの言葉を、かれをどんな体にもたとえることなく、来たとおりに受け入れる。かれは、かれに似たものは何一つないと言われるからである(42:11)。このページの欠点は異なっている。それらは弱さと必要である。疲れ、眠り、忘れること、捨てられた約束である。クルアーンは神にこれらのどれも与えていない。
結論 — 「御顔」や「御手」のような語は欠点ではない。疲れ、眠り、忘れることは欠点であり、クルアーンは神にはそれらのどれもないと言う。
出エジプト記 31:17 — 律法(トーラー)、第31章17節
“これは永遠に、わたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日のうちに天と地とを造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである。”
引用の目的
「休み」は神が創造するのをやめられたことを意味し、「いこわれた」は完成した仕事におけるかれの喜びを描く人間的な語り方である。
応答
その節は詩篇作者の叫びではない。それは安息日のしるしを定める神ご自身の言葉として与えられている。「いこわれた」を表すヘブライ語の動詞はヴァイイナファシュであり、ネフェシュ(息)と同じ語根から来ている。それはダビデと彼の部下たちが疲れて着き、そこで元気を回復するときに使われる動詞である。クルアーンは、同じ六日について語りながら、その考えを排除している。どんな疲れもかれに触れなかった。
結論 — 出エジプト記の神ご自身の言葉は、クルアーンがかれには決してなかったと言う必要をかれに与えている。
詩篇 44:23 — 諸書(ケトゥビーム)、第44章23節
“主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。われらをとこしえに捨てないでください。”
引用の目的
詩篇は苦しみの中にある人々の祈りである。彼らが神に目を覚ますよう求めるとき、彼らはそれがどう感じられたかを口にしているのであって、神が眠ると教えているのではない。
応答
それなら聖書は神について偽りを言う祈りを聖典として保っていることになる。クルアーンは神についての偽りの言葉を伝えるとき、5:64のように、その場でそれを退ける。詩篇は訂正されることなく、歌われる祈りとして保たれている。そして詩篇78:65はそもそも祈りではない。それは、主が眠りから目をさましたように、酒によって叫ぶ人のように目を覚まされたことを語っている。クルアーンもまた苦難の中にある預言者たちの祈りを記録しているが、彼らのうちの誰もこのように神について語っていない。
結論 — その節を人間の感情と呼ぶことは、それらが神の真の描写ではないことを認めることであるが、それらはかれの言葉と呼ばれる書の中に立っている。
創世記 32:28 — 律法(トーラー)、第32章28節
“その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたは君のように神と人とに力をふるって勝ったからです」。”
引用の目的
ヤコブは天使と、あるいは人の姿の神と格闘したのであり、かれはヤコブを祝福できるようにヤコブにしがみつかせたのである。
応答
ホセアは後にその格闘者を天使と呼んでいる(ホセア書12:4)。しかし創世記自身はヤコブに、あなたは神と争って力を得、勝ったと告げている。それはまたヤコブに、自分は顔と顔とを合わせて神を見たと言わせている。それらが創世記が聖典として保っている言葉である。クルアーンは決して神を、あるいはかれの代わりに立つ誰をも、人が勝つ格闘の中に置いていない。
結論 — その格闘者がどう説明されるにせよ、創世記は人が神と争って勝ったと言い、クルアーンは何もかれに似ていないと言う。
クルアーン 9:67 — 悔悟章、第67節
“偽信者の男たちと偽信者の女たちは、同じ穴のむじなである。彼らは悪事を命じて善事を禁じ、(アッラーの道ゆえの施しから)その手を引っ込める。彼らがアッラーを忘れたゆえに、かれも彼らのことをお忘れになったのだ。本当に偽信者たちこそは、(アッラーとその使徒への信仰から逸脱した、)放逸な者たちなのである。”
引用の目的
クルアーン自身が、アッラーは偽善者たちを忘れられたと言っているので、それにも忘れる神がいる。
応答
その節は罪と同じ言葉で報いを与えている。彼らはアッラー(﷾)をなおざりにしたので、かれは彼らを彼らのなおざりに任せられる。クルアーン45:34は審判の日について同じことを言っている。彼らがその日を忘れたように、彼らはその中で忘れられたままにされる。どちらの節も記憶の欠落について語っていない。同じクルアーンが平明な言明で、「我が主は間違えることも、忘れることもありません」、また「あなたの主はもとより、忘れたりするお方ではない」と言っている。
結論 — 罰として放っておかれることは忘れることではない。クルアーンは神が忘れることをはっきりと否定している。
クルアーン 2:152 — 雌牛章、第152節
“ゆえに、われを思い起すのだ。(そうすれば)われも、あなた方を思い起そう。また、われに感謝し、われ(の恩恵)を蔑ろにするのではない。”
引用の目的
クルアーンはまた、アッラーは人々を思い出されると言っているので、思い出すことは欠点ではない。
応答
2:152では、アッラー(﷾)が思い出されることは、かれを思い出す者たちへのかれの報いである。創世記では、神は、それを見るときにかれの契約を思い出すように、空にしるしを置かれる。前者は約束である。後者は思い出させるものである。クルアーンは言う。「我が主は間違えることも、忘れることもありません」(20:52)。
結論 — 報いとして思い出すことは、思い出すためにしるしを必要とすることと同じではない。
さまざまな視点
主流のキリスト教
神は疲れず、眠らず、忘れない。聖典は時にかれについて人間的な言葉で語り、詩篇は苦しみの中にある人々の正直な祈りである。
聖書はほかの所で、神は弱ることも疲れることもないと言っている。
反論
イスラームは神が決して疲れられないことに同意している。しかし出エジプト記31:17は、かれが休み、いこわれたという神ご自身の言葉を与えており、イザヤはそれらを取り消していない。クルアーンは、どんな疲れもかれに触れなかったとはっきり言うことによって疑いを取り除いている(50:38)。
聖書はほかの所で、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもないと言っている。
反論
イスラームは、神はまどろむことも眠ることもないことに同意している(2:255)。しかし詩篇78:65は、主は「眠りから目をさましたように」目を覚まされたと言っており、それは祈りではなく、かれがなさったことを伝えている。それを比喩と呼んでも、なお眠っているように見えた神の絵が残り、クルアーンは決してかれをそのように描いていない。
イスラームの視点
神は完全であり、何もかれに似ていない。神からの聖典は、祈りの中でさえ、疲れ、眠り、忘れること、破られた約束をかれに帰さない。
出エジプト記31:17は、神は創造の六日の後に休み、いこわれたと言っている。
クルアーンは、六日のうちに天と地を創造することにおいて、どんな疲れも神に触れなかったと言う。
創世記32章は、ヤコブが夜明けまで格闘し、神と争って力を得、勝ったと告げられたと言っている。
聖書自身の節が、思い出す必要がある神、眠る神、酒からのように目を覚ます神について語っている。
聖書は、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもないと言っている。けれどもそれは、主が眠りから目をさましたように目を覚まされたと物語っている。
詩篇89篇は、神がかれの契約を破らないと誓われたとしている。四節後、それはかれがそれを捨てられたとかれに告げる祈りを聖典として保っている。
イエスは神であるというキリスト教の信仰は、誘惑と無知を神に帰している。それは神は誘惑されることがないという聖書自身の言明に反している。
クルアーンは、神は決して眠らず、決して忘れず、すべての祈りを聞き、決してかれの約束を破られないと教えている。何もかれに似ていない。