短い答え
いいえ。何もアッラー(﷾)に似ていないので、かれの手は私たちのような肢体ではない。クルアーンは言う。「いかなるものも、かれには似ていない」、そして「誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。それは確かにアッラー(﷾)の手について語っている。それは、かれはアーダムを「わが両手によって」創造されたと言い、終末の日に天はかれの右手の中に巻き上げられると言う。ムスリムはこれらの言葉を、アッラー(﷾)がそれらを用いられるとおりに、どのようにかと問うことなく、何か創造されたものに似せることなく受け取る。それは、マーリク、シャーフィイー、アフマドを含む初期の学者たちの道である。それでムスリムはアッラー(﷾)を思い描かず、かれの像を作らない。聖書は、それに対して、神が園を歩かれ、休んで元気を回復されることを描いている。
詳しい説明
何もかれに似ていない
アッラー(﷾)についてのすべての言葉のためのクルアーンの規則はこうである。「いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である」。神についてのイスラームの信仰を要約する短い章はこう終わっている。「誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。クルアーンはまた、どんな視覚もかれを捉えることはできないと言う。そしてそれはかれのために似姿を作り出すことを禁じている。アッラー(﷾)はご自身について多くのことを言われる。ムスリムはそのどれも、自分が見たことのある何かの形に思い描かない。
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
“視覚が(現世で)かれ(アッラー)を捉えることはない。かれが視覚を捉え給うのであり、かれは霊妙なお方、通暁されるお方なのだ。”
“ならば(人々よ)、アッラーに同類を設けてはならない。本当にアッラーがご存知なのであり、あなた方は知らないのだから。”
クルアーンがかれの手について言うこと
クルアーンは確かにアッラー(﷾)の手について語っている。アッラー(﷾)はイブリースに、何がかれが「わが両手によって」創造された者にひれ伏すことを妨げたのかと問われ、それはアーダムを残りの被造物の上に尊んでいる。信仰者たちが預言者(ﷺ)に誓いを立てたとき、クルアーンは言う。「アッラーの御手は、彼らの手の上にある」。審判の日には、地はかれの一握りとなり、天はかれの右手の中に巻き上げられる。これらの言葉はアーダムを尊び、アッラー(﷾)の力と心遣いを示している。そのどれも私たちのような体を描いていない。
“かれ(アッラー)は仰せられた。「イブリースよ、わが両手によって創造したものに対し、あなたがサジダするのを妨げたのは、何なのか?一体あなたは(アーダムに対し)高慢だったのか、それとも(われに対して)奢り高ぶる者たちの類いだったのか?」”
“(預言者よ、)あなたに誓う者たちこそは、まさしくアッラーに誓っているのである。アッラーの御手は、彼らの手の上にあるのだから。(その誓いを)破った者は誰であろうと、(その罰が自分に返ってくるゆえ、)自分に対して破っているのである。そして誰であろうと、アッラーと契約したことを全うする者に対し、アッラーは偉大な褒美をお授けになろう。”
“彼ら(シルクの徒)は、アッラーを真に敬わなかった。そして復活の日、大地は全てかれの一掴みの中にあり、諸天はかれの右手で折りたたまれた状態となる。アッラーに称えあれ、かれは彼らの言うようなこと(シルク)から(無縁で)、遥か高遠なお方であられる。”
“そして彼らは、われらが彼らのために、われらの手がなしたものである家畜を創造したのを見なかったのか?彼らはそれらの所有者なのである。”
初期の学者たちはそのような言葉をどう読んだか
14世紀のクルアーン学者イブン・カスィールは、ムスリムがアッラー(﷾)がご自身について用いられる言葉をどう扱うかを説明している。彼は初期の学者たちに従い、マーリク、アウザーイー、サウリー、ライス・イブン・サアド、シャーフィイー、アフマド、イスハーク・イブン・ラーフワイフを名指している。彼らはその言葉を、どのようにかと問うことなく、来たとおりに受け入れた。彼らはそれらを創造されたものに似せず、変えも否定もしなかった。何もアッラー(﷾)に似ていないからである。彼はブハーリーの師ヌアイム・イブン・ハンマードを引用している。アッラー(﷾)をかれの被造物に似せる者は不信仰に陥った、とヌアイムは言った。そしてアッラー(﷾)がご自身について言われることを否定する者は不信仰に陥った。それでムスリムは両方を保つ。彼はその言葉を信じ、そしてそれのどんな像も拒む。
「それから御座に上がられた(イスタワー)」について、イブン・カスィールは、人々は相反する意見を持っていたと言い、自分はマーリク、アル=アウザーイー、アッ=サウリー、アル=ライス・イブン・サアド、アッ=シャーフィイー、アフマド、イスハーク・イブン・ラーハワイフのような初期の学者たちの道に従うと言う。それは、語が来たとおりにそれを受け入れ、どのようにかを論じず、それを被造物の属性になぞらえず、それを変えも否定もしないことである。いかなるものも、かれには似ていないからである(42:11)。彼はアル=ブハーリーの師であるヌアイム・イブン・ハンマードの言葉を引いている。アッラーをかれの被造物になぞらえる者は不信仰に陥り、アッラーがご自身を描かれたものを否定する者は不信仰に陥った。アッラーとかれの使徒(ﷺ)がかれを描かれたものの中に、被造物との類似はない。
“(アッラーは)諸天と大地の創成者。かれはあなた方自身の内から、あなた方のために配偶者を創られ、家畜の内からも雌雄をお創りになった。かれはそこにおいて、あなた方を繁茂させるのである。いかなるものも、かれには似ていない。そしてかれはよくお聞きになるお方、よくご覧になるお方である。”
聖書は神をどう描いているか
聖書はしばしば神を人の言葉で語っている。それもかれの腕について語っている。エレミヤ書で神は言われる。「わたしは大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の上にいる人と獣とを造り」。エレミヤは祈る。「あなたは大いなる力と、伸ばした腕とをもって天と地を造られました」。それでクルアーンの「手」はアッラー(﷾)に体を与えていると言う批判者は、聖書についても同じことを言わなければならないであろう。キリスト教徒は、子なる神はイエスにおいて人となったと教えている。エレミヤはイエスの何世紀も前に生きたので、彼ら自身の教えによれば、彼が語る腕は体の腕ではありえない。創世記では、アダムとエバは「日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音」を聞く。出エジプト記では、神は七日目に休み、「いこわれた」。創世記では、ヤコブは一人の人と一晩中組み打ちし、その後で言う。「わたしは顔と顔をあわせて神を見た」。それでも同じ聖書は言う。「神は人のように偽ることはなく」。そしてイエスは言った。「神は霊である」。クルアーンは一度も、アッラー(﷾)が歩まれた、休まれた、組み打ちされたとは言っていない。それは、かれが天と地を造られたとき何の疲れもかれに触れなかったと言う。
“わたしは大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の上にいる人と獣とを造り、わたしの心にかなう者にこれを与える。”
“ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸ばした腕とをもって天と地を造られました。あなたにできない事は一つもありません。”
“彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、アダムとその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。”
“これは永遠に、わたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日のうちに天と地とを造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである。”
“ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたは君のように神と人とに力をふるって勝ったからです」。ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所でヤコブを祝福した。そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。”
“神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。”
“神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。”
“われらは確かに、諸天と大地、その間にあるものを六日間で創った。疲れ一つ、われらに及ぶこともなしに。”
さまざまな視点
キリスト教
キリスト教徒は、子なる神はイエスにおいて、人間の体と人間の手を持つ人となったと教えている。
イエスにおいて神は人間の体を取られたので、神には手があると言うことができる。
反論
聖書そのものが言う。「神は人のように偽ることはなく」、そして「わたしは神であって、人ではなく」。イエスは言った。「神は霊である」。そしてまた「霊には肉や骨はない」。霊である神には肉の手はない。
イスラームの視点
何もアッラー(﷾)に似ていない。クルアーンはかれの手について語っており、ムスリムは初期の学者たちがしたように、どのようにかと問うことなく、何か創造されたものに似せることなく、かれが用いられるとおりにその言葉を受け入れる。
クルアーンは何もアッラー(﷾)に似ていないと言う。
クルアーンは、かれがアーダムを「わが両手によって」創造されたときのように、アッラー(﷾)の手について語っている。
イブン・カスィールは、そのような言葉をどのようにかと問うことなく受け入れることにおいて初期の学者たちに従っている。彼らはそれらを被造物に似せず、否定もしない。