短い答え
はい。最も古い仏教の聖典であるパーリ語の経典は、地獄と裁き手を描いている。ある説法では、地獄の獄卒が悪を行った者をヤマ王の前に連れて来る。ヤマは彼に、生きている間に無視した警告について問う。それから彼は火の地獄で苦しみ、そこで自分の悪い行いが尽きるまで死なない。ブッダは自分でこれを知っていると言う。別の説法は、一つの地獄での一つの寿命を、百年ごとに一粒ずつ取り去られる一車分の胡麻で測っている。それで最も古い仏教の文献は審判を逃れていない。それらに欠けているのは、赦すことのできる裁き主である。クルアーンは、アッラー(﷾)は完全な公正をもってすべての魂を裁かれると言う。それはまた、かれはご自身に立ち返る者のすべての罪を赦されると言う。
詳しい説明
ヤマ王の前に連れて来られる
天使経の中で、ブッダは、地獄の獄卒たちが悪を行った者の腕を取ってヤマ王の前に差し出すと言う。彼らはヤマに彼を罰するよう求める。ヤマは彼に、生きている間に見た五人の使者について問う。生まれたばかりの赤子、老人、病人、罰せられている罪人、そして死体である。各々は、時のあるうちに善を行えという警告であった。その男は自分が怠慢であったことを認める。ヤマは彼に、ほかの誰もお前の悪い行いをしたのではなく、お前だけがその結果を負うと告げる。
“地獄の番人たちは彼らの腕を取り、ヤマ王の前に差し出して言う、「王よ、この者は母と父、沙門とバラモンに然るべき敬意を払わず、家の年長者を敬いませんでした。どうか王が彼を罰してくださいますように」。ヤマ王は神々の最初の使者について彼を追及し、問い詰め、尋問する。”
ヤマ王は悪を行った者に、彼が人間の間で見た神々の五人の使者について尋ねる。自分の小便と大便の中に横たわる幼い赤子、腰が曲がり震える老人、重い病の人、支配者に捕らえられ罰せられた罪人、そして死んで二、三日たった死体である。そのたびに彼はなぜその男が善を行おうと思わなかったのかを尋ね、男は怠っていたと言う。
“その悪い行いは、あなたの母、父、兄弟、姉妹がしたのではない。友人や同僚、親族や縁者、沙門やバラモン、あるいは神々がしたのではない。その悪い行いはあなた一人がしたのであり、あなた一人がその結果を受けるであろう。”
大地獄
それから大地獄が来て、そこでは炎が壁から壁へと押し寄せる。そこで彼は鋭く激しい痛みに苦しむが、自分の悪い行いが尽きるまで死なない。ブッダは、自分はこれをほかの者から繰り返しているのではないと言って終える。彼がそれを言うのは、自分で知り、見たからである。
“さて大地獄では、炎が壁から噴き出し、向かいの壁に打ちつける。東から西へ、西から東へ、北から南へ、南から北へ、下から上へ、上から下へ。そしてそこで彼らは痛ましく、鋭く、激しく、厳しい苦受を受けるが、その悪い行いが尽きるまで死なない。”
“さて、私がこれを言うのは、他の沙門やバラモンから聞いたからではない。私がこれを言うのは、ただ私自身がそれを知り、見、悟ったからである。”
それはどれほど続くのか
コーカーリカという名の僧は、ブッダの二人の主な弟子を恨んだために紅蓮地獄に生まれ変わった。そこでの寿命はどれほど続くのかと尋ねられて、ブッダは一つの測りを与える。一車分の胡麻を取り、百年ごとに一粒を取り去れ。車は最初の地獄での一つの寿命が終わる前に空になるであろう。その後の九つの地獄の各々は、前のものの二十倍長く続く。それらの最後が紅蓮地獄である。ブッダはまた、そこから出ることがどれほど難しいかを言っている。片目の亀が百年に一度海から浮かび上がる。それは、地下の世界に堕ちた愚か者が再び人間に生まれるより早く、そこに浮かぶくびきの穴に首を通すであろう。
“彼はサーリプッタとモッガッラーナへの恨みのために、紅蓮地獄に生まれ変わった。”
“「コーサラの二十荷の胡麻の積み荷があるとしよう。そして百年ごとに誰かがそこから一粒の種を取り除くとしよう。この方法によって、コーサラの二十荷の胡麻の積み荷は、アッブダ地獄での一つの寿命よりも早く尽きるであろう。さて、アッブダ地獄での二十の寿命はニラッブダ地獄での一つの寿命に等しい。ニラッブダ地獄での二十の寿命はアババ地獄での一つの寿命に等しい。アババ地獄での二十の寿命はアタタ地獄での一つの寿命に等しい。アタタ地獄での二十の寿命はアハハ地獄での一つの寿命に等しい。アハハ地獄での二十の寿命は黄蓮地獄での一つの寿命に等しい。黄蓮地獄での二十の寿命は香睡蓮地獄での一つの寿命に等しい。香睡蓮地獄での二十の寿命は青睡蓮地獄での一つの寿命に等しい。青睡蓮地獄での二十の寿命は白蓮地獄での一つの寿命に等しい。白蓮地獄での二十の寿命は紅蓮地獄での一つの寿命に等しい。比丘コーカーリカは、サーリプッタとモッガッラーナへの恨みのために、紅蓮地獄に生まれ変わったのである」。”
“比丘たちよ、ある人がただ一つの穴のあるくびきを大海に投げ込んだとしよう。東風はそれを西へ漂わせ、西風はそれを東へ漂わせ、北風はそれを南へ漂わせ、南風はそれを北へ漂わせる。そして百年に一度浮かび上がる片目の亀がいたとしよう。比丘たちよ、どう思うか。その片目の亀は、それでもそのくびきの穴に首を突き入れるであろうか」。「いいえ、尊師よ。もしあるとしても、非常に長い時の後にだけでしょう」。「その片目の亀がそのくびきの穴に首を突き入れる方が、悪道に落ちた愚か者が人間に生まれ変わるよりも早い、と私は言う。それはなぜか。その場所には法に適った振る舞いも道徳的な振る舞いもなく、善く巧みなことを行うこともないからである。”
赦す者のいない審判
それでパーリ語の経典は死後の審判を教えている。ヤマが問い、獄卒が罰し、痛みは行いが尽きるまで続く。その話の中の誰もそれを赦すことができない。ヤマ自身、ただ人間に生まれ変わってブッダの教えを聞くことを願うだけである。そして輪廻の巡りには知られた始まりがないので、存在は何度も何度も堕ちうる。
“さて大地獄では、炎が壁から噴き出し、向かいの壁に打ちつける。東から西へ、西から東へ、北から南へ、南から北へ、下から上へ、上から下へ。そしてそこで彼らは痛ましく、鋭く、激しく、厳しい苦受を受けるが、その悪い行いが尽きるまで死なない。”
“その悪い行いは、あなたの母、父、兄弟、姉妹がしたのではない。友人や同僚、親族や縁者、沙門やバラモン、あるいは神々がしたのではない。その悪い行いはあなた一人がしたのであり、あなた一人がその結果を受けるであろう。”
“昔、ヤマ王は考えた。「世においてこのような悪い行いをする者は、これほど多くのさまざまな罰を受ける。ああ、私が人間に生まれ変わりますように。そして如来――阿羅漢、完全に目覚めた仏陀――が世に現れますように。そして私が仏陀に礼拝できますように。その仏陀が私に法を教え、私がその教えを理解できますように」。”
“この輪廻には知られた始まりがない。無明に覆われ渇愛に縛られて、さまよい輪廻する衆生の最初の点は見いだされない。”
イスラームが同意する所
クルアーンは、誰もほかの者の重荷を負わないことに同意している。各人は自分が努めたものだけを持つ。それはまた、神は使徒を遣わされるまでは、どの民も罰せられないと言う。仏教の説法は、赤子、老い、病、罰、そして死を神々の使者と呼んでいる。クルアーンは本当の使徒、神の言葉をもたらした人々を遣わしている。
“(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことがない、ということを(、知らされなかったのか)?また人間には、自分が努力したもの(の報い)しかない、ということを?”
“導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ。また(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。そしてわれらは使徒を遣わすまで、(いかなる民も)罰することなどないのである。”
赦す裁き主
イスラームでは裁き主はアッラー(﷾)ご自身であり、かれはすべての行いを知っておられる。かれは公正の秤を立てられ、どの魂も少しも不正を受けないようにされる。一粒の重さの善と悪のすべてが見られる。しかしかれの慈悲はすべてのものに及ぶ。かれは自らに不正をした者たちに絶望するなと告げられる。かれはご自身に立ち返る者のすべての罪を赦されるからである。預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)は慈悲を百の部分に分けられ、そのうちただ一つだけを地上に下されたと言った。
“われらは復活の日に、公正な秤を設ける。誰一人、僅かたりとも不正を受けることはない。そして、たとえ(現世での行いが)からし種一粒きりの重さであったとしても、われらはそれを(勘定に入れるべく)持って来るのだ。われらだけで、清算者は十分なのである。”
“それで、僅かな重みでも善いことを行う者は誰でも、(来世で)それ(に対する褒美)を見出すのであり、僅かな重みでも悪いことを行う者は誰でも、(来世で)それ(に対する応報)を見出すのだ。”
“また、私たちにこの現世において、善きものをお定め下さい。そして来世においても。本当に私たちは、あなたに悔悟したのですから」。かれ(アッラー)は仰せられた。「わが懲罰、われはそれで、われが望む者を襲うのだ。そしてわが慈悲は、あらゆるものに広く及んでいる。われは(われを)畏れ、浄財を払う者たち、われらの御徴を信じるその者たちに、それ(慈悲)を定めよう。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
アブー・フライラは、預言者(ﷺ)がこう言うのを聞いた。アッラーは慈悲を百に分け、九十九をご自分のもとに留め、一つを地上に下された。その一つから、すべての被造物は互いに慈悲を示し、雌馬も子馬を踏むのを恐れて蹄を上げるのである。サヒーフ・ムスリム2752にもある。
さまざまな視点
仏教徒の応答
仏教徒はいくつかの答えを与える。仏教の地獄は永遠には続かない。それらは心の状態として読まれうる。カルマはそれ自体で働き、裁く神はいない。そして東アジアとチベットの仏教の聖典である大乗の経は、地獄からさえ救いを約束している。
大乗の経は地獄からさえ救いを約束している。『法華経』は、観音菩薩を通して、地獄にいる者たちの生、老い、病は終わると言う。阿弥陀は、その浄土に思いを向けるすべての者をそこへ連れて行くと誓った。
反論
浄土の聖典は最悪の罪人について一致していない。浄土の仏である阿弥陀の誓願は、五逆罪を犯した者を誰でも締め出している。パーリ語の経典はこれらを、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、仏を傷つけること、そして僧の教団を分裂させることとして挙げている。『観無量寿経』は彼らを入れており、その翻訳者はその衝突を記している。クルアーンは一つの声で語っている。悔い改め、信じ、善を行う殺人者でさえ、その悪は善へと変えられる。
どの仏教の地獄も永遠には続かない。悪い行いが尽きると存在は去るのであり、それは永遠の地獄より優しい。
反論
紅蓮地獄での一つの寿命は、一世紀に一粒ずつ一車分の胡麻を空にするのにかかるよりも何倍も長く続く。そこを去る存在は、片目の亀がくびきを見つけるよりもまれにしか人間に生まれ変わらない。そして輪廻の巡りには知られた始まりがないので、彼は再び堕ちうる。イスラームは死の前に出口を差し出している。神はご自身に立ち返る者のすべての罪を赦される。
地獄は心の状態の絵であって、本当の場所ではない。
反論
天使経は獄卒、裁き手、そして火の壁を描いている。刑罰は悪い行いが尽きるまで続く。そしてブッダは、自分はこれをほかの者が告げたことからではなく、自分で知っていると言う。
カルマは自然の法則のようにそれ自体で働くので、どの神も誰をも裁かない。
反論
ブッダ自身の説法の中で、獄卒たちは悪を行った者をヤマ王のもとへ連れて来て罰するよう求め、ヤマは彼に問う。本文は審判を描いている。それらに欠けているのは赦すことのできる裁き手である。
イスラームの視点
パーリ語の経典は地獄と、赦すことのできる者のいないヤマ王の前での審判を教えている。イスラームでは裁き主はアッラー(﷾)である。かれは完全に公正であり最も慈悲深く、ご自身に立ち返る者を赦される。
天使経の中で、獄卒たちは悪を行った者をヤマ王のもとへ連れて来て、王は彼に問う。それから彼は自分の悪い行いが尽きるまで大地獄で苦しむ。
ブッダは紅蓮地獄での一つの寿命を一車分の胡麻で測っている。百年ごとに一粒を取り去っても、その地獄はなお車よりも何倍も長く続く。
クルアーンは、審判の日にどの魂も不正を受けないと教えている。一粒の重さの善と悪のすべてが見られる。
アッラー(﷾)はご自身に立ち返る者のすべての罪を赦され、かれの慈悲はすべてのものに及ぶ。