短い答え
いいえ。ある説法の中でブッダは、人々が自分はあらゆる瞬間にすべてを知っていると主張するとき、自分を誤って伝えていると言う。彼は彼らに、自分には三つの特別な知識があるとだけ言えと告げる。ところが別の説法の中で、彼は自分を「一切を知る者」と呼んでいる。彼自身の記述は、これが自分の最後の誕生であるという知識は悟りのときに彼の中に生じたと言う。ところが別の説法は、彼に生まれた日にまさにその言葉を宣言させている。預言者(ﷺ)の存命中に書き記されたクルアーンは、初めから彼が何であったかを定めた。見えない世界を知らない人である。
詳しい説明
常にすべてを知っているのではない
ある説法の中で、ヴァッチャゴッタという名の遊行の求道者がブッダに語りかける。彼は、ブッダは、歩いていても、立っていても、眠っていても、目覚めていても、常に知識が自分に現れており、すべてを知り見ていると主張していると聞いている。ブッダは、そう言う人々は偽りによって自分を誤って伝えていると言う。彼らはただ、彼には三つの知識があるとだけ言うべきである。それらは、過去の生の記憶、行いによって生まれ変わる衆生を見ること、そして人を再生に縛る内なる汚れの滅尽である。
“「尊師よ、私はこう聞きました。『沙門ゴータマは、一切知者であり一切見者であって、余すところなくすべてを知り見ると称している。すなわち「歩いていても、立っていても、眠っていても、目覚めていても、知と見が常に絶えず私に現前している」と』。そう言う人々は仏陀の言ったことを繰り返しているのであって、偽りによって彼を誤り伝えているのではないと信じてよいでしょうか。彼らの説明は教えに沿っていますか。反論と批判の正当な根拠はありますか」。「ヴァッチャよ、そう言う者たちは私の言ったことを繰り返していない。彼らは偽りで真実でないことによって私を誤り伝えている」。”
“「沙門ゴータマは三明を持っている」。このように答えれば、あなたは私の言ったことを繰り返すのであり、偽りによって私を誤り伝えることはない。あなたは私の教えに沿って説明するのであり、反論と批判の正当な根拠はないであろう。”
一切を知る者
自分の探求についての彼自身の記述の中で、ブッダは、悟りの間もなく後に、道でウパカという名の苦行者に出会ったことを語っている。彼は偈で彼に答える。彼は一切に打ち勝った者、一切を知る者である。彼には師がなく、彼に等しい者はいない。
“私は一切に打ち勝つ者、一切を知る者であり、一切の物事の中にあって汚れない。私は一切を捨て、渇愛の尽きることによって解き放たれた。私は自ら知るのだから、誰の弟子となるべきであろうか。私には師がない。私に等しい者はいない。”
すべてを同時にではない
別の説法の中で、パセーナディ王は、ブッダは誰も全知であると主張することはできないと教えていると聞いたと言う。ブッダは、これは自分を誤って伝えていると言う。自分が言ったのは、と彼は説明する、誰も同時にすべてを知りすべてを見ることは決してないということである。
“「尊師よ、私は、沙門ゴータマがこう言っていると聞きました。『一切知者であり一切見者であって、余すところなくすべてを知り見ると称する沙門やバラモンは決していないであろう。それはありえない』と。そう言う人々は仏陀の言ったことを繰り返しているのであって、偽りによって彼を誤り伝えているのではないと信じてよいでしょうか。彼らの説明は教えに沿っていますか。反論と批判の正当な根拠はありますか」。「大王よ、そう言う者たちは私の言ったことを繰り返していない。彼らは偽りで真実でないことによって私を誤り伝えている」。”
“「大王よ、私はこう述べたことを覚えている。『一切を同時に知り、一切を同時に見る沙門やバラモンは決していないであろう。それはありえない』と」。”
目的としての全知
彼の前世のジャータカ物語は、三蔵のジャータカの偈への注釈が語るとおり、さらに進む。ヴェッサンタラ王子は自分の子供たちを与えてしまう。彼は全知となれるよう祈り、すべてを知ることは自分にとって息子よりも十万倍愛しいと叫ぶ。ここでは、全知であることこそブッダになることのまさに目的である。ページ「ヴェッサンタラが自分の子どもたちを与えたのは正しかったのか?」がその話を載せている。
“それから彼は水差しに水を取り、バラモンを近くに呼んで、一切知を得られるようにと祈りながら水を注いだ。「わが子よりも百倍、千倍、十万倍も愛しいのは一切知である」と彼は叫んで大地を響かせ、バラモンに子供たちというこの尊い贈り物を与えた。”
生まれながらに知っていたのか、悟って知ったのか?
ある説法の中で、アーナンダは、ブッダが生まれてすぐに何が起こったかを彼から聞いたと言う。彼は立ち、七歩歩み、宣言した。これは私の最後の生である。今やもはや来世はない。ところがブッダ自身の悟りの記述の中では、それらは彼に来た知識のまさにその言葉である。それは何年も後のことであった。
“「生まれるとすぐに、覚りを志す者は自分の足でしっかりと地に立つ。北を向き、白い傘を上にさしかけられて七歩進み、四方を見渡し、こう劇的に宣言する。『私は世界で最上の者である。私は世界で最も年長の者である。私は世界で第一の者である。これが私の最後の生である。もはや来世はない』と」。”
“私の中に知と見が生じた。「私の解脱は揺るがない。これが私の最後の生である。もはや来世はない」。”
どの描写が真実か?
聖典は異なる方向に引いている。ある所では彼はあらゆる瞬間に全知であると呼ばれることを拒んでいる。別の所では彼は自分を一切を知る者と呼んでいる。ある所では、これが自分の最後の誕生であるという知識は悟りのときに来る。別の所では、生まれたばかりの赤子がそれを宣言する。仏教徒は、彼は心を向けたものは何でも知っていたというような後の説明によってこれらをまとめている。しかし聖典そのものはそれを決着させていない。そして仏教にはそれらの間を決める神からの言葉がない。
“「尊師よ、私はこう聞きました。『沙門ゴータマは、一切知者であり一切見者であって、余すところなくすべてを知り見ると称している。すなわち「歩いていても、立っていても、眠っていても、目覚めていても、知と見が常に絶えず私に現前している」と』。そう言う人々は仏陀の言ったことを繰り返しているのであって、偽りによって彼を誤り伝えているのではないと信じてよいでしょうか。彼らの説明は教えに沿っていますか。反論と批判の正当な根拠はありますか」。「ヴァッチャよ、そう言う者たちは私の言ったことを繰り返していない。彼らは偽りで真実でないことによって私を誤り伝えている」。”
“私は一切に打ち勝つ者、一切を知る者であり、一切の物事の中にあって汚れない。私は一切を捨て、渇愛の尽きることによって解き放たれた。私は自ら知るのだから、誰の弟子となるべきであろうか。私には師がない。私に等しい者はいない。”
“「生まれるとすぐに、覚りを志す者は自分の足でしっかりと地に立つ。北を向き、白い傘を上にさしかけられて七歩進み、四方を見渡し、こう劇的に宣言する。『私は世界で最上の者である。私は世界で最も年長の者である。私は世界で第一の者である。これが私の最後の生である。もはや来世はない』と」。”
“私の中に知と見が生じた。「私の解脱は揺るがない。これが私の最後の生である。もはや来世はない」。”
見えない世界を知らない人
クルアーンは預言者(ﷺ)に、自分は周りの人々と同様の人であり、彼に啓示が来るのだと言うよう告げている。そしてそれは彼に、もし自分が見えない世界を知っていたなら、どんな害も自分に触れなかったであろうと言うよう告げている。それは、神は見えない世界のうちかれが望まれるものを、かれが選ばれる使徒に啓示されると言う。クルアーンは、それが来るとおりに彼の存命中に書き記され、彼の死の後まもなく一つの書に集められた。それでムスリムが彼について言うことは初めから定められていたのである。
“(使徒よ、)言え。「私は、『あなた方の(真に)崇拝すべきは、ただ一つの神』と啓示が下されている、あなた方と同様の一人の人間に過ぎない。それで自分の主との拝謁を望む者は、正しい行いに励み、自分の主の崇拝において、いかなるものも並べてはならない」。”
“(使徒よ、)言うがよい。「私は自分自身に対し、アッラーがお望みになったものの外、益(する力)も害(する力)も有してはいない。そして、もし私が不可視の世界を知っていたら、善いことを増や(すことばかり)しただろうし、私に悪が降りかかることもなかっただろう。私は、信仰する民に警告を告げる者、吉報を伝える者に過ぎないのである」。”
“(アッラーは、)不可視の世界をご存知のお方であり、かれの不可視の世界を、誰にも露わにはされない。ただ、かれがご満悦になった使徒である者は別(で、不可視の世界の一部を、お教えになる)。というのも、本当にかれは彼の前と後ろから、(天使の)護衛を遣わされるのだから。”
ザイド・イブン・サービトによれば、クルアーンを暗記していた多くの者がヤマーマで殺された後、アブー・バクルは彼に、アッラーの使徒のために啓示を書き記していたことを思い起こさせて、クルアーンを一冊にまとめるよう頼んだ。ザイドは書かれた断片と人々の記憶からそれを集め、完成した写本はアブー・バクルからウマルへ、そしてハフサへと受け継がれた。
よくある答え
クルアーン 18:110 — 洞窟章、第110節
“(使徒よ、)言え。「私は、『あなた方の(真に)崇拝すべきは、ただ一つの神』と啓示が下されている、あなた方と同様の一人の人間に過ぎない。それで自分の主との拝謁を望む者は、正しい行いに励み、自分の主の崇拝において、いかなるものも並べてはならない」。”
引用の目的
後のムスリムの話もまた、預言者(ﷺ)を人以上のものにした。
応答
クルアーンは彼の存命中に書き記され、それは彼が何であったかを定めている。啓示が来た人であり、神が啓示されること以外は見えない世界を知らない人である。どんな後の話もそれによって判断される。仏教の聖典そのものは、ブッダについて両方の描写を抱えている。
結論 — イスラームには預言者(ﷺ)の存命中からの定められた基準がある。仏教の聖典は自分自身と一致していない。
さまざまな視点
上座部の仏教徒
ブッダは心を向けたものは何でも知っていたのであり、それが全知の意味するところである。最後の生にある者は初めからそれを知っているが、なお道を歩まなければならない。
ブッダの全知とは、彼が心を向けたものは何でも知ることができたということであって、すべてが一度に彼の心の中にあったということではない。それで本文は一致している。
反論
その読み方でさえ、彼はヴァッチャゴッタに、人々はすべてのことの知識ではなく、三つの知識について語るべきであると告げた。そして聖典はその言葉について一致していない。ここでは彼はあらゆる瞬間に全知であると呼ばれることを拒んでいる。しかしウパカに対しては、彼は自分を一切を知る者と呼んでいる。
最後の生にある人は初めからそれを知ることができる。彼はなお、すべてのブッダがそうするように、悟りへの道を歩まなければならない。
反論
ブッダ自身の記述は、これが自分の最後の生であるという知識は悟りのときに生じたと言う。生まれたばかりの赤子は同じ言葉を一語一語言っている。もし彼が生まれたときからそれを知っていたなら、それは悟りのときに初めて生じたのではない。
聖典が言うこと
パーリ語の説法の中で、ブッダはあらゆる瞬間に全知であると呼ばれることを拒みながら、自分を一切を知る者と呼んでいる。ある説法では、生まれたばかりの赤子がこれが自分の最後の誕生であると宣言する。別の説法では、その知識は悟りのときに来る。
ブッダはヴァッチャゴッタに、自分はあらゆる瞬間にすべてを知り見ていると言う者たちは自分を誤って伝えていると告げた。
苦行者ウパカに対して、彼は自分を一切を知る者と呼んだ。
ある説法は、生まれたばかりの赤子がこれが自分の最後の生であると宣言したと言う。別の説法ではブッダはその知識は悟りのときに生じたと言う。
イスラームの視点
預言者(ﷺ)は啓示が来た人である。彼は見えない世界について、神が彼に啓示されることだけを知っている。
クルアーンは預言者(ﷺ)に、自分は人であり、見えない世界を知らないと言わせている。
神は見えない世界のうちかれが望まれるものを、かれが選ばれた使徒に啓示される。