短い答え
いいえ。イスラームでは、すべての人が、司祭、聖人、仲介者なしに、直接神に向かう。クルアーンは、神は近くにおられ、かれに呼びかけるすべての者に応えられると言う。それは、かれは人にとってその人自身の頸静脈、首の大きな静脈よりも近いと言う。罪を犯したムスリムは神だけに告白し、それを悔やみ、かれに立ち返る。悔悟の扉は死まで開いたままである。預言者(ﷺ)は、神に呼びかけることはそれ自体崇拝であり、それでそれは神だけに属すると教えた。彼は自分自身の娘ファーティマにさえ、自分はアッラー(﷾)に対して彼女を少しも助けることはできないと告げた。イマームは礼拝を導き教えるが、彼は告白を聞かず、赦しを与えない。イスラームの答えは、神ご自身が赦されるということである。
詳しい説明
神は近くにおられ、呼びかける者に応えられる
クルアーンは神が近くにおられると述べている。かれはご自身に呼びかけるすべての人を聞き、応えられる。かれは人にとってその頸静脈よりも近く、人自身の魂が何をささやくかを知っておられる。それで誰も祈りをかれのもとへ運ぶ必要はない。かれの僕についての何もかれから隠されていない。
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
“われらは確かに、人間を創った。われらは彼の心が自らに囁くものを知っており、頸静脈の管よりも彼に近いのである。”
“また(人々よ)、あなた方の主は仰せられた。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう。本当にわれの崇拝に対して奢り高ぶる者たちは、やがて蔑まれた者となって、地獄に入ることになる。”
悔悟はまっすぐ神へと向かう
クルアーンの記述の中の最初の人間の罪は、仲介者もいけにえもなしに赦される。アーダムとその妻は誰も責めなかった。共に彼らは自分たちの主に、自分たちは自らに不正をしたと言い、神は慈悲をもってアーダムに向き直られた。同じ扉は死まですべての人に開いている。クルアーンは、重く罪を犯した者たちにさえ絶望するなと告げている。それはまた、善い行いは悪い行いを消し去ると言う。
“二人は申し上げた。「我らが主よ、私たちは自分自身に不正を犯しました。そしてあなたが私たちをお赦しになり、ご慈悲をかけて下さらなければ、私たちは間違いなく損失者の類いとなってしまいます」。”
“それからアーダムは、彼の主から御言葉を授かった。そして(その御言葉で悔悟し)、かれらはその悔悟をお受け入れになった。本当にかれこそは、よく悔悟をお受け入れになるお方、慈愛深いお方なのだから。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
“そして(アッラーに受け入れられる)悔悟とは、あなた方の内、悪行を行い続け、死が訪れる時になって「私は今、悔い改めました」などと言う者たちや、不信仰者のままで死を迎える者たちのためのものではない。それらの者たちのためにこそ、われらは痛ましい懲罰を準備しておいたのである。”
“また(預言者よ、)昼の両端と夜の一部に、礼拝を遵守せよ。本当に善行は、悪行を駆逐するのだから。それは教訓を得る者たちにとっての、教訓である。”
仲介者のない慈悲
預言者(ﷺ)は、神はかれの慈悲の九十九の部分をご自身のために取っておかれ、一つの部分を地上に送られたと教えた。彼は、神はかれのもとへ歩いて来る僕のもとへ走って来られると教えた。善い行いは十倍から七百倍に書き記され、悪い行いはただ一度だけである。それでどんな司祭も教会も神に代わって赦しを与えることはできない。善い行いでさえ、それだけでは楽園を得させない。人は神の慈悲によってそこに入るのであり、それを彼は神ご自身に求める。
アブー・フライラは、預言者(ﷺ)がこう言うのを聞いた。アッラーは慈悲を百に分け、九十九をご自分のもとに留め、一つを地上に下された。その一つから、すべての被造物は互いに慈悲を示し、雌馬も子馬を踏むのを恐れて蹄を上げるのである。サヒーフ・ムスリム2752にもある。
預言者(ﷺ)は、アッラーがこう言われると伝えている。わたしは、わがしもべがわたしについて思うとおりの者であり、彼がわたしを想い起こすとき、わたしは彼とともにいる。彼がわたしに手の幅だけ近づけば、わたしは彼に腕の長さだけ近づき、彼が歩いてわたしのもとに来れば、わたしは走って彼のもとに行く。サヒーフ・ムスリム2675にもある。
イブン・アッバースによれば、預言者(ﷺ)は、自らの主が言われたことを伝えて、こう教えた。善い行いを意図して行わなかったなら、それは完全な善行一つとして書き記される。それを行えば、十倍から七百倍、あるいはそれ以上として書き記される。悪い行いを意図して行わなかったなら、それは完全な善行一つとして書き記される。それを行えば、悪行一つとしてだけ書き記される。サヒーフ・ムスリム131にもある。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、誰の行いもその人を救いはしないと言った。あなたもそうなのかと問われると、彼は、私もそうだ、アッラーが私を慈悲で包んでくださらない限りは、と言った。そして、善い行いを正しく、誠実に、ほどほどに行うよう彼らに言った。
神に呼びかけることは崇拝であるので、それは神だけに向かう
預言者(ﷺ)は、祈願(ドゥアー、神に呼びかけることを意味する)はそれ自体崇拝であると言った。すべての礼拝の中でムスリムは神に言う。「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」。それで聖人や天使に送られる祈りは、崇拝の一部を神以外の誰かに与えることになる。クルアーンは、アッラー(﷾)以外に呼びかけられる者たちは、彼らに呼びかける人々と同じような僕であると言う。それはまた、そのような助け手はただ人々をアッラー(﷾)により近づけるだけだという古い言い訳を退けている。
アン=ヌウマーン・イブン・バシールによれば、預言者(ﷺ)は、祈願はそれ自体が崇拝であると言い、それから、わたしに祈れ、そうすればあなた方に応えよう、と神が言われる節(クルアーン40:60)を読誦した。
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
“本当に、あなた方がアッラーを差しおいて祈っているものは、あなた方同様(アッラー)の僕たちなのだ。ならば、それらを呼び、あなた方に応えさせてみるがいい。もし、あなた方が本当のことを言っているのならば。”
“アッラーにこそ、純粋な宗教が属するのではないか。けれども、かれをよそに庇護者を設ける者たちは、(こう言っている。)「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。本当にアッラーは(復活の日)、彼ら(信仰者とシルクの徒)が意見を異にしていたことにおいて、彼らの間をお裁きになる。本当にアッラーは、噓つきで不信仰この上ない者を、お導きにならないのだ。”
預言者(ﷺ)でさえ赦しを与えることはできない
クルアーンは預言者(ﷺ)に、自分は自分自身にさえ善も害ももたらす力を持たないと言うよう告げている。彼が自分自身の家族に警告したとき、彼は娘ファーティマに、自分はアッラー(﷾)に対して彼女を少しも助けることはできないと告げた。イスラームは確かに、審判の日にある者たちが執り成す(ほかの者のために嘆願する)と教えているが、それは神が許される者たちだけである。この世では誰も人とその主の間に立たない。
“(使徒よ、)言うがよい。「私は自分自身に対し、アッラーがお望みになったものの外、益(する力)も害(する力)も有してはいない。そして、もし私が不可視の世界を知っていたら、善いことを増や(すことばかり)しただろうし、私に悪が降りかかることもなかっただろう。私は、信仰する民に警告を告げる者、吉報を伝える者に過ぎないのである」。”
アブー・フライラによれば、「あなたの近親者に警告せよ」という節(クルアーン26:214)が下ったとき、預言者(ﷺ)はクライシュ族に、おじのアル=アッバース、おばのサフィーヤ、娘のファーティマに呼びかけ、それぞれに、アッラーに対しては自分はあなたを少しも助けられないと告げた。ファーティマは彼に何でも好きなものを求めてよいが、アッラーに対しては、彼は彼女を少しも助けられないのであった。
“その日、慈悲あまねきお方が許可を授け、その言葉においてご満悦された者以外、執り成しは役に立たない。”
キリスト教徒が信じていること
次にキリスト教の見方である。カトリック教会と正教会は、司祭は告解の秘跡、教会の儀式の中で罪を赦すと教えている。彼らは、キリストはこの権威を使徒たち、彼が選んだ弟子たちに与えたと言い、ヨハネ20:23をこのように読んでいる。ほとんどのプロテスタント教会は司祭への告白を求めない。しかし彼らは皆、キリストは神と人々の間の唯一の仲保者(仲介者)であるとする。彼らは、罪はただ彼のいけにえを通してのみ赦されるとする。
“あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。”
“神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。”
イエスが祈りと赦しについて教えたこと
イエス自身の教えは別の方向を指している。福音書の中で彼は人々を直接神へと送っている。彼は彼らに、ひそかに父に祈り、自分で父に自分を赦してくださるよう求めよと告げた。失われた息子についての彼のたとえ(教訓のある話)では、父は息子を迎えに走り、仲介者なしに彼を赦す。自分自身の言葉で神に憐れみを求めた取税人は、義とされて(神の前に正しいとされて)家に帰った。
“あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、公にあなたに報いて下さるであろう。”
“わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。”
“そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。”
“ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。”
節ごとに
テモテへの第一の手紙 2:5 — 第2章5節
“神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。”
引用の目的
キリスト教徒はこれを、神であり人であるキリストを通してでなければ誰も神に至らないと教えているものと読む。
応答
その節そのものが「神は唯一であり」を仲保者から分け、その仲保者を「人なるキリスト・イエス」と呼んでいる。そしてイエスは弟子たちに、ひそかに父に祈り、父に自分たちを赦してくださるよう求めよと教えた。
結論 — その節は唯一の神と人なるキリスト・イエスを分けている。イエスが教えた祈り(マタイ6:9-13)の中で、罪人はどの仲保者も名指さずに父に赦しを求めている。
ヨハネによる福音書 14:6 — 第14章6節
“イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」”
引用の目的
イエスは、自分によらなければ誰も父のもとに来ることはできないと言ったので、すべての祈りはキリストを通らなければならない。
応答
イエスは、その教えが神へと導く使徒として道である。同じ福音書の中で彼は、永遠の命とは「唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリスト」とを知ることであると言う。彼が教えた道は直接父に祈ることであり、彼自身の模範の祈りは間に立つ誰も名指していない。ヨハネが彼に「わたしの名によって求める」と言わせている所でさえ、彼は付け加えている。彼は彼らのために父に願いはしない。父ご自身が彼らを愛しておられるからである(ヨハネ16:26-27)。
結論 — イエスによって父のもとに来ることは、神が遣わされた者のメッセージに従うことを意味する。それは彼に、あるいは彼を通して祈ることを意味しない。
ヨハネによる福音書 20:23 — 第20章23節
“あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。”
引用の目的
カトリックと正教会のキリスト教徒はこれを、キリストが使徒たちに、そして彼らの後の司祭たちに、告解の中で罪を赦す力を与えたものと読む。
応答
その節は祭司職も後継者も名指しておらず、ほかの人に告白することについて何も言っていない。ルカによる福音書では、取税人はただ神だけに語り、義とされて家に帰った。失われた息子の父は、彼がまだ遠く離れていたときに迎えに走った。
結論 — その節の中の何も罪人に司祭を通るよう求めておらず、イエス自身の教えは直接神に求められる赦しを示している。
さまざまな視点
キリスト教
赦しは唯一の仲保者キリストを通して来る。カトリックと正教会のキリスト教徒はまた司祭に告白し、司祭はキリストの名によって赦す。ほとんどのプロテスタントはキリストを通して直接神に告白する。
神と人々の間には唯一の仲保者、キリスト・イエスがおられ、赦しは彼を通して来る。
反論
その節は確かに唯一の仲保者について語っている。しかしそれは「神は唯一であり」を「人なるキリスト・イエス」から分けている。そしてイエスが教えた祈りは、いけにえも間に立つ者も名指さずに、父に赦してくださるよう求めている。
ヨハネ20:23で、イエスは使徒たちに罪を赦したり留めたりする権威を与えている。カトリック教会と正教会は、それは彼らの司祭たちに受け継がれるとする。
反論
その節は確かに罪を赦すことについて語っている。しかしそれは祭司職も後継者も名指しておらず、ほかの人に告白することについて何も言っていない。イエス自身の話の中で、取税人はただ神だけに求め、義とされて家に帰った。クルアーンは問う。「アッラーの外に、誰が罪を赦すことが出来ようか?」
イスラームの視点
すべての人は直接神の前に立つ。かれはすべての呼びかける者を聞き、誠実にかれに向き直る者は誰でも赦され、司祭も聖人もいけにえも必要とされない。預言者(ﷺ)は人々にただ神だけに求めるよう教えた。
クルアーンは、神は近くにおられ、すべての呼びかける者に応えられると述べている。かれは人にとってその頸静脈よりも近い。
祈願は崇拝であるので、神以外の誰かに、あるいは誰かを通して祈ることは、被造物に崇拝を与えることになる。
クルアーンは、人々を神により近づけるためにほかの存在が必要であるという主張を退けている。
アーダムとその妻は自分自身の言葉で神に悔悟した。神は仲介者もいけにえもなしにアーダムを赦された。
悔悟の扉は、どれほど罪が大きくても、死まですべての人に開いている。そして善い行いは悪い行いを消し去る。
サヒーフ(確かな)ハディースは預言者(ﷺ)の言葉の報告である。それらは、かれに向き直る者に対する神の慈悲を描いている。それらは、かれの御許に取っておかれた慈悲の九十九の部分、僕を迎えに走られるかれ、そして何倍にもされる善い行いについて語っている。
預言者(ﷺ)は自分自身の娘に、自分はアッラー(﷾)に対して彼女を助けることはできないと告げた。クルアーンは彼に、自分は自分自身の善や害に対してさえ力を持たないと言わせている。
審判の日の執り成し(ほかの者のための嘆願)は、ただ神が許される者たちだけに属する。それは人がこの世で通らなければならない門ではない。
イエスは人々に、直接父に祈り、自分でかれに赦しを求めるよう教えた。