短い答え
ほとんどの仏教徒はブッダに礼拝するが、彼や菩薩(他者を救うことを誓った存在)に助けを求めるのは一部の者だけである。それは宗派による。上座部の仏教徒はブッダに帰依し、守護のための偈を唱える。ところがパーリ語の経典は彼に、仏たちはただ道を示すだけであると言わせている。多くの浄土教やほかの大乗の仏教徒は、確かに阿弥陀や観音に救いを求めて呼びかける。イスラームはすべての者に一つの答えを与えている。クルアーンは、アッラー(﷾)と並べて何ものにも祈ってはならないと言う(72:18)。預言者(ﷺ)でさえ、自分はただ自分の主に祈るだけであり、誰をも正しい行いへ導く力を持たないと言うよう告げられている(72:20-21)。アッラー(﷾)はかれに呼びかける者たちを聞かれ(40:60)、かれのお許しの後でなければ誰もかれに執り成すことはできない(2:255)。
詳しい説明
二つの流れ、そして誰が誰に呼びかけるか
仏教には二つの大きな流れがある。上座部は主に南アジアと東南アジアに見られ、パーリ語の経典に従っている。大乗は主に東アジアに見られ、さらなる経を加え、多くの菩薩を敬っている。禅と浄土は大乗の宗派である。上座部の仏教徒は、ブッダ、法、そして彼の弟子たちの共同体であるサンガに帰依することによって仏教徒となる。多くの浄土教やほかの大乗の仏教徒はまた、阿弥陀や観音の名を呼ぶ。禅の実践者の多くは誰にも祈らず、座って瞑想する。このページは各々の実践がどの宗派に属するかを言っており、一つの宗派の実践をほかの宗派のものとして描かない。
“私は仏に帰依する。私は法に帰依する。私は僧に帰依する。”
上座部:帰依、礼拝、そして守護のための偈
パーリ語の経典では、ブッダの信奉者たちは彼、彼の教え、そしてサンガに帰依する。『法句経』は、この帰依はそこに赴く者を四つの聖なる真理を見ることへと導くと言う。それはまた、ブッダやその弟子を敬うことは大きな功徳をもたらすと言う。上座部の仏教徒はまた『宝経』を守護の偈(パリッタ)として唱える。その繰り返し、「この真理によって、あなたがたが幸せであるように」は、集まった存在たちに向けて言われる。その結びで唱える者は、同じ存在たちに「われらは仏陀に礼拝する。あなたがたが安らかであるように」と言う。ここで引用された本文は、苦しみを超えた師への敬意を示している。それらは呼びかける者を聞いて答えるブッダを示していない。
“私は仏に帰依する。私は法に帰依する。私は僧に帰依する。”
“仏とその教えと僧に帰依した者は、正しい理解をもって四つの聖なる真理を見る。苦、苦の生起、苦の超越、そして苦の静まりへと導く聖なる八つの道である。このような帰依こそ安らぎの場であり、それこそ最上の帰依である。その帰依に行くことによって、あなたはすべての苦しみから解き放たれる。”
“ある人が、戯論を超え、悲しみと嘆きを捨て、静まり、いずこからも何も恐れない尊ぶべき者──仏陀あるいはその弟子──を敬うとき、そのような者を敬う者の功徳は、誰にも、ただこれだけと言って量ることはできない。”
“この世にも次の世にも、天上にも崇高な宝で如来に等しいものはない。この崇高な宝は仏陀にある。この真理によって、あなたがたが幸せであるように。”
“地上であれ空中であれ、ここに集まったどんな存在も、如来は神々と人間に敬われる。われらは仏陀に礼拝する。あなたがたが安らかであるように。”
パーリ語のブッダが自分自身について言うこと
『法句経』の中でブッダは聞き手たちに、彼らは自分でその務めをしなければならず、仏たちはただ道を示すだけであると告げている。別の偈は、自己こそ自己の主であると言う。生涯の終わり近く、長部の中で、彼はアーナンダに、僧たちは自らを島とし、自らを帰依所として生きるべきであると告げる。教えもまた彼らの島であり帰依所であるべきであり、ほかの何ものでもない。これらのパーリ語の経典の中で、ブッダは自分自身から離れて、努力と教えを指し示している。
“あなたがた自身が努めねばならない。如来たちはただ道を示すだけである。”
“まことに自分こそ自分の主である。他の誰が自分の主であろうか。よく調えられた自己によって、人はまことに得がたい主を得る。”
“それゆえアーナンダよ、自分自身を島とし、自分自身を拠り所とし、他を拠り所とせずに生きよ。教えを島とし、拠り所とし、他を拠り所とするな。”
大乗:観音と阿弥陀
『法華経』はパーリ語の経典ではなく、大乗の経である。その中でブッダは、観音菩薩の名を聞く者、あるいは彼に懇願する者は、苦難から解き放たれると言う。名指される苦難には火と洪水が含まれる。同じく大乗の『大無量寿経』は浄土教の主要な文献の一つである。その第19願、その結びの部分は漢訳のよく知られた第十八願と合致しているが、その中で阿弥陀は仏となる前に誓願を立てる。十度の念によってであっても、彼の国に生まれようと思いを向ける者たちは、そこに生まれるであろう。その誓願は、五つの最も重い悪を犯した者や善い法をそしる者を除いている。これらが、名を呼ぶことが立っている本文である。
“良家の若者よ、この世で苦難を受けている何十万億コーティもの衆生は、観世音菩薩摩訶薩の名を聞くなら、その苦難の塊から解き放たれるであろう。良家の若者よ、この観世音菩薩摩訶薩の名を保つ者は、大きな火の塊の中に落ちても、その菩薩摩訶薩の光輝の力によってそこから救い出されるであろう。良家の若者よ、もし衆生が川の流れに押し流されて観世音菩薩摩訶薩に懇願するなら、すべての川は彼らに浅瀬を与えるであろう。”
“世尊よ、もし私が菩提を得たとき、量りがたく数えきれない仏国土にいる衆生が、私の名を聞いた後、私のその仏国土に生まれようと思いを向け、そのために自らの功徳の蓄えを熟させるとして、もしこれらの者が、たとえ(その仏国土を)わずか十回思っただけの者であっても、(五つの)無間罪を犯した衆生と、善き法を妨げ誹謗した者を常に除いて、その仏国土に生まれないなら、そのときには私は最高の完全な知恵を得ないであろう。”
自分自身から離れて指し示す師、そして誰へと
クルアーンは預言者(ﷺ)に、自分はただ自分の主に祈るだけであり、誰もかれと並べないと言わせている。彼はまた、害を与えることも、誰をも正しい行いへ導くことも自分の力にはないと言う。彼は、と彼は言う、神は唯一であるという霊感を受けたほかの者たちと同様のただの人間にすぎない。それでパーリ語の経典のブッダとクルアーンの預言者は両方とも自分自身から離れて指し示している。イスラームは誰へとかを言う。私たちを造られ、ただかれだけが答えることのできる一なる方へと。
“(使徒よ、不信仰者たちに)言ってやれ。「私は我が主(だけ)に祈願(しつつ崇拝)するのであり、かれ(の崇拝)に誰も並べたりはしない」。(使徒よ、)言うのだ。「本当に私は、あなた方に対して、害悪も善も有してはいない」。”
“(使徒よ、)言え。「私は、『あなた方の(真に)崇拝すべきは、ただ一つの神』と啓示が下されている、あなた方と同様の一人の人間に過ぎない。それで自分の主との拝謁を望む者は、正しい行いに励み、自分の主の崇拝において、いかなるものも並べてはならない」。”
“あなたがた自身が努めねばならない。如来たちはただ道を示すだけである。”
聞かれる方、そして近くにおられる方
クルアーンはアッラー(﷾)がこう言われることを記録している。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」。それは、かれは本当にご自身の僕たちの近くにおられ、呼びかけるすべての祈願者に耳を傾けられると言う。それは、すべての主権はかれに属すると言う。かれ以外に祈られる者たちは少しの力も持たず、呼びかけを聞かず、答えることができない。それでムスリムはアッラー(﷾)だけに求める。すべての礼拝の中で読誦されるクルアーンの最初の章は言う。「私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います」。祈り、信仰、人格は共に一つの生き方を作っており、信仰者の求めることはその一部である。
“また(人々よ)、あなた方の主は仰せられた。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう。本当にわれの崇拝に対して奢り高ぶる者たちは、やがて蔑まれた者となって、地獄に入ることになる。”
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
“かれは夜を昼にお入れになり、また昼を夜にお入れになり、太陽と月を仕えさせられた。(その)いずれも、定められた時期(である復活の日)まで運行し続けるのである。そのお方がアッラー、あなた方の主、かれにこそ(全ての)王権はある。そして彼らが、彼をよそに祈っている者たちは、薄皮すら有してはいないのだ。”
“(人々よ、)もし、あなた方が(アッラーをよそに)彼らに祈っても、彼らにはあなた方の祈願が聞こえない。また、たとえ聞こえたとしても、彼らがあなた方に応じることはない。そして復活の日、彼らはあなた方のシルクを否定するのである。(使徒よ、誰も、全てに)通暁されるお方(アッラー)のようには、あなたに(正しいことを)伝えることはないのだ。”
“私たちはあなただけを崇拝し、あなただけにお力添えを乞います。”
アッラー(﷾)と並べて何ものにも祈ってはならない
クルアーンは、礼拝の場はアッラー(﷾)のためのものであり、それでかれと並べて誰にも祈ってはならないと言う。これは、ムスリムであれそうでなかれ、すべての読者のための規則である。それは師への敬意を禁じていない。それは、アッラー(﷾)だけにふさわしい呼びかけ、信頼、献身を人にささげることを禁じているのである。
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
執り成し:ただかれのお許しによってのみ
イスラームは執り成しが存在することを否定しない。クルアーンは誰がアッラー(﷾)に執り成すことができるかを言っている。かれのお許しの後でなければ誰もできず、かれが受け入れられる者たちのためだけである。それは、天使たちの執り成しでさえ、アッラー(﷾)がお許しを与えられた後でなければ何の役にも立たないと言う。それで執り成しは、誰かが自分自身の権利として持つ力ではない。どの人もアッラー(﷾)を迂回する道、かれの代わりに求められるべき者ではない。その日、預言者(ﷺ)は執り成すが、それはただアッラー(﷾)がお許しを与えられた後であり、かれが受け入れられる者たちのためだけである。それで信仰者はアッラー(﷾)にその執り成しを求め、かれの代わりに誰にも求めない。
“アッラーは、かれの外に(真に)崇拝すべきものがなく、永世するお方、全てを司るお方。まどろみも眠りも、かれを捉えることはない。諸天にあるものと、大地にあるものは(全て)、かれに属する。かれのお許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか?かれは、彼ら(全存在)の前にあるものも、彼らの背後にあるものも、ご存知である。そしてかれのお望みになることの外、彼らはかれの御知識について、何も把握することはないのだ。かれの玉座は、諸天と大地に広がり、その二つの護持が、かれを疲れさせることもない。そしてかれは至高のお方、この上なく偉大なお方であられる。”
“あなた方の主は、諸天と大地を六日間で創造され、それから御座にお上がりになったアッラーである。かれは、万事を司られる。かれのお許しの後でなくしては(復活の日)、いかなる執り成し手もいない。そのお方がアッラー、あなたの主。ゆえに、かれを崇拝せよ。一体、あなた方は教訓を得ないのか?”
“その日、慈悲あまねきお方が許可を授け、その言葉においてご満悦された者以外、執り成しは役に立たない。”
“一体、諸天にいるどれだけ多くの天使の執り成しが、少しも役に立たないことであろうか。アッラーが、かれがお望みにある者に(執り成しの)許可を授けられ、(執り成しを受ける者に対し、)ご満足する後でなければ。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、復活の日に誰が彼のとりなしによって人々の中で最も幸せになるかと尋ねられた。彼はアブー・フライラに、ハディースへの彼の熱心さを見て、彼より先にこのことを尋ねる者はいないだろうと思っていたと告げた。それから彼は、それは心から誠実に(ハーリサン)「アッラーのほかに神はない」と言った者であろうと言った。
「私たちは彼らを敬うのであって、崇拝するのではない」
クルアーンは、アッラー(﷾)以外に庇護者を取る者たちの言い分を記録している。彼らは言う。「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。それは、誠実な献身はアッラー(﷾)にふさわしく、アッラー(﷾)は意見を異にする者たちの間を裁かれると答えている。ほかの所で、かれ以外のものに仕える者たちは「この者たちはアッラーの御許での、私たちの執り成し手なのである」と言う。クルアーンは、彼らはアッラー(﷾)がご存じないことをかれにお知らせするのかと問うている。その原則はすべての読者に及ぶ。かれに呼びかけるのに仲介者は必要ない。アッラー(﷾)は近くにおられ、聞かれるからである。
“アッラーにこそ、純粋な宗教が属するのではないか。けれども、かれをよそに庇護者を設ける者たちは、(こう言っている。)「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。本当にアッラーは(復活の日)、彼ら(信仰者とシルクの徒)が意見を異にしていたことにおいて、彼らの間をお裁きになる。本当にアッラーは、噓つきで不信仰この上ない者を、お導きにならないのだ。”
“彼ら(シルクの徒)はアッラーを差しおいて、彼らを害しなければ、益もしないようなものを崇めている。そして(彼らは、)言うのだ。「この者たちはアッラーの御許での、私たちの執り成し手なのである」。(使徒よ、)言ってやるがいい。「アッラーに対し、かれが諸天においても大地においても関知されないことを、申し上げるというのか?」かれに称えあれ、かれは彼らがシルクを犯しているものから(無縁で)、遥かに高遠なお方。”
“そして(使徒よ、)わが僕たちが、われについてあなたに尋ねた時には、(われが、こう語っている、と言うのだ。)「本当にわれは、(あなた方の)近くにある。われに祈れば、われは、祈る者の祈願に応えよう。ならば、彼らが正しく導かれるように、われ(の呼びかけ)に応えさせ、われを信仰させるのだ」。”
呼びかけるべき方
クルアーンは注意深く量られることを求めている。それは全人類に遣わされたムハンマド(ﷺ)によってもたらされた。ムスリムは、仏教徒も含めすべての読者に、それを読み、それが描く一なる方に呼びかけるよう招いている。
“一体彼らは、クルアーンを熟慮しないのか?もしそれがアッラー以外のものに由来するものであったなら、彼らはその中に沢山の相違点を見出したであろうに。”
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
答えられた六つの応答
『クッダカパータ』1 — 小誦、第1(三帰依)
“私は仏に帰依する。私は法に帰依する。私は僧に帰依する。”
引用の目的
上座部の仏教徒はただ帰依し、礼拝し、守護のために唱えるだけである。それは師への敬意であり、あなたにはそれと争う理由がない。
応答
それは正当であり、このページは上座部の者たちがブッダに神に対するように祈るとは言っていない。パーリ語の経典は敬意を示しており、ブッダ自身、仏たちはただ道を示すだけであると言っている(『法句経』276)。残る問いは、人が困ったときにどこへ向かうかである。クルアーンは答える。アッラー(﷾)は言われる。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」(40:60)。そしてかれは近くにおられる(2:186)。
結論 — 経典が示すとおりの上座部の実践に対して、何の主張もなされていない。問いは、人が困ったときに誰に呼びかけるかである。
『ダンマパダ』195-196 — 仏陀の章、第195-196偈
“ある人が、戯論を超え、悲しみと嘆きを捨て、静まり、いずこからも何も恐れない尊ぶべき者──仏陀あるいはその弟子──を敬うとき、そのような者を敬う者の功徳は、誰にも、ただこれだけと言って量ることはできない。”
引用の目的
私たちはブッダを敬うのであって、彼を崇拝するのではない。礼拝は敬意であり、誰も彼に何かを求めてはいない。
応答
師への敬意はイスラームが禁じているものではない。クルアーンはアッラー(﷾)と並べて誰かに祈ることを禁じている(72:18)。それはまた、ほかの庇護者を取る者たちの言い分を記録している。「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」。それは、誠実な献身はアッラー(﷾)にふさわしいと答えている(39:3)。敬意が敬意のままである所では、答えるべきことは何もない。それが救いを求めることに変わる所では、クルアーンの規則が当てはまる。
結論 — 敬意は問題ではない。誰かに助けを求めて呼びかけ、アッラー(﷾)に属する献身を彼にささげることが問題なのである。
『大スカーヴァティー・ヴューハ』(『極楽荘厳経』)8.19 — 第8節、第19願、15ページ
“世尊よ、もし私が菩提を得たとき、量りがたく数えきれない仏国土にいる衆生が、私の名を聞いた後、私のその仏国土に生まれようと思いを向け、そのために自らの功徳の蓄えを熟させるとして、もしこれらの者が、たとえ(その仏国土を)わずか十回思っただけの者であっても、(五つの)無間罪を犯した衆生と、善き法を妨げ誹謗した者を常に除いて、その仏国土に生まれないなら、そのときには私は最高の完全な知恵を得ないであろう。”
引用の目的
私たちは自分自身の力ではなく、阿弥陀の力(他力)によって救われる。彼の名を称えることは、すでに与えられた救いへの感謝であって、嘆願ではない。
応答
感謝も、なお聞く誰かに向けて語られる。浄土教が立つ本文の中で、その誓願は、数えきれない世界でそれに向かう者たちに彼の国への往生を約束している。それはただ、五つの最も重い悪を犯した者や善い法をそしった者を除いているだけである。そのようなすべての呼びかける者を聞いて救う存在は、クルアーンがアッラー(﷾)だけに与えていることをしているのである(40:60、35:13-14)。パーリ語のブッダは、仏たちはただ道を示すだけであると言う(『法句経』276)。
結論 — もし阿弥陀がすべての呼びかける者を聞いて救うのなら、彼にはイスラームがアッラー(﷾)だけに与える力が与えられている。
『サッダルマ・プンダリーカ』(『法華経』)24 — 第24章(普門品、観世音菩薩の変化)、406ページ
“良家の若者よ、この世で苦難を受けている何十万億コーティもの衆生は、観世音菩薩摩訶薩の名を聞くなら、その苦難の塊から解き放たれるであろう。良家の若者よ、この観世音菩薩摩訶薩の名を保つ者は、大きな火の塊の中に落ちても、その菩薩摩訶薩の光輝の力によってそこから救い出されるであろう。良家の若者よ、もし衆生が川の流れに押し流されて観世音菩薩摩訶薩に懇願するなら、すべての川は彼らに浅瀬を与えるであろう。”
引用の目的
観音は慈悲の菩薩である。彼の名を呼ぶことは慈悲が私たちに届く仕方であり、それは人に何かを求めることではない。
応答
『法華経』は、火の中や洪水の中にいて彼の名を聞いたり懇願したりする衆生は解き放たれると言う。それはすべての呼びかける者への救いの約束である。もしその姿が象徴であるなら、何も呼びかける者を聞いていない。もしそれが存在であるなら、それはクルアーンが、近くにおられて答えられるアッラー(﷾)に与えていることをしているのである(2:186、40:60)。クルアーンは、かれ以外に祈られる者たちは答えることができないと言う(35:14)。
結論 — 象徴は聞くことができず、すべての呼びかける者を聞く存在はアッラー(﷾)だけの力を持っていることになる。
『ディーガ・ニカーヤ』16 — 『長部』第16経(大般涅槃経)、2.26.1節
“それゆえアーナンダよ、自分自身を島とし、自分自身を拠り所とし、他を拠り所とせずに生きよ。教えを島とし、拠り所とし、他を拠り所とするな。”
引用の目的
禅の実践者の多くも、パーリ語の経典の中のブッダ自身も、自分自身に頼れと言う。私は誰にも祈らないので、このどれも私には当てはまらない。
応答
それならこのページはあなたが祈るとは言っておらず、イスラームは努力と清い心を尊ぶ。クルアーンは、努力が答えることのできない問いを加えている。誰が私たちを造り、誰が私たちを保っておられるのか。それは、それをなさる方は近くにおられ、呼びかける者を聞かれ、求められるべき方であると言う(2:186、40:60)。
結論 — 自分に頼ることは道の半分である。クルアーンは、私たちを造り、答えられる方を加えている。
クルアーン 2:255 — 雌牛章、第255節
“アッラーは、かれの外に(真に)崇拝すべきものがなく、永世するお方、全てを司るお方。まどろみも眠りも、かれを捉えることはない。諸天にあるものと、大地にあるものは(全て)、かれに属する。かれのお許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか?かれは、彼ら(全存在)の前にあるものも、彼らの背後にあるものも、ご存知である。そしてかれのお望みになることの外、彼らはかれの御知識について、何も把握することはないのだ。かれの玉座は、諸天と大地に広がり、その二つの護持が、かれを疲れさせることもない。そしてかれは至高のお方、この上なく偉大なお方であられる。”
引用の目的
ムスリムもまた預言者(ﷺ)にアッラーへの執り成しを求め、助けを求めて墓を訪れる。イスラームはあなたが批判する仏教徒と同じことをしている。
応答
イスラームは墓を訪れることを許している(ムスリム977a)。それは、アッラー(﷾)だけが与えられるものを死者に呼びかけて求めることを禁じている。「あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない」(72:18)。すべての執り成しはアッラー(﷾)に属する(39:44)。預言者(ﷺ)はその日執り成すが、それはただアッラー(﷾)のお許しの後であり、かれが受け入れられる者たちのためである(2:255、20:109、ブハーリー99)。それでムスリムはアッラー(﷾)にその執り成しを求め、かれの代わりに誰にも求めない。ページ「ムスリムはアッラー以外の誰かに助けを呼び求めてよいのか?」がそれを取り上げている。
結論 — イスラームの規則は述べられ、引用されている。アッラー(﷾)と並べて誰にも祈るな、そして執り成しはただかれのお許しによってのみ。
さまざまな視点
上座部仏教の教え(パーリ語の経典)
上座部の仏教徒はパーリ語の経典から答える。彼は敬意と感謝としてブッダに帰依し、彼に礼拝し、守護の偈を唱える。ブッダ自身、仏たちはただ道を示すだけであり、各々の聞き手は自らの島、自らの帰依所でなければならないと言っている。
パーリ語の経典に従う上座部
上座部の仏教徒はブッダに帰依し、彼に礼拝し、守護のための偈を唱える。これは師への敬意であって、神への祈りではなく、パーリ語のブッダは仏たちはただ道を示すだけであると言う。
反論
認めよう。そしてイスラームは、上座部の者たちがブッダに神に対するように祈るとは言っていない。残るのは祈りが満たす必要であり、クルアーンがそれに答えている。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」(40:60)。
帰依は四つの聖なる真理を見ることへと導き、ブッダやその弟子を敬うことは大きな功徳をもたらす(『法句経』190-192、195-196)。それでブッダを敬うことは重要な宗教的行為である。
反論
その偈が帰依を理解に、敬うことを功徳に結びつけていることは認めよう。どちらの偈もブッダに聞いたり行ったりするよう求めていない。イスラームは、功徳も、帰依そのものも、アッラー(﷾)の御手にあるとする。
私たちはブッダを敬うのであって、彼を崇拝するのではない。礼拝は、弟子が師に礼をするように、敬意である。
反論
師への敬意はクルアーンが禁じているものではない。それはアッラー(﷾)と並べて誰かに祈ることを禁じている(72:18)。それはまた「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」という言い分を記録し(39:3)、それに答えている。
ブッダは聞き手たちに自らの島、自らの帰依所となれと告げ(長部第16経)、自己こそ自己の主であると言った(『法句経』160)。それゆえ祈りは不要である。務めは私たちのものなのだ。
反論
ムスリムは努力への呼びかけを尊ぶ。しかし誰も自分自身を造ったり、自分自身を生かしておいたりはしない。そしてクルアーンは、それをなさる方は近くにおられ、すべての呼びかける者に応えられると言う(2:186)。
浄土教とほかの大乗の宗派
多くの浄土教やほかの大乗の仏教徒は、大乗の経に基づいて、阿弥陀や観音に呼びかける。ある浄土教の師たちは、名を称えることはすでに与えられた救いへの感謝であると言い、ある大乗の読者たちはこれらの姿を象徴と取る。禅の実践者の多くは誰にも祈らない。
浄土と禅を含む大乗
阿弥陀の名を称えることは嘆願ではない。それは、彼の力(他力)がすでに与えた救いへの感謝である。その誓願は彼に向かう者たちに彼の国への往生を約束している。
反論
救い手への感謝も、なお聞く者に向けられている。その誓願は、数えきれない世界で彼に向かう者たちにこれを約束している。ただアッラー(﷾)だけが、すべての呼びかける者を聞き、救われる(40:60、35:13-14)。
『法華経』は、観音の名を聞く者、あるいは彼に懇願する者は苦難から解き放たれると言う。慈悲の菩薩に呼びかけることは、慈悲が私たちに届く仕方である。
反論
その経は、彼に呼びかける誰にでも火と洪水からの救いを約束している。クルアーンは、アッラー(﷾)以外に祈られる者たちは聞くことも答えることもできず、すべての主権はかれのものであると教えている(35:13-14)。
阿弥陀と観音は、私たちを聞く人格ではなく、すべての心の中にある仏性の象徴である。彼らに呼びかけることはその本性を目覚めさせることである。
反論
経はまだ来るべき本当の国と本当の救いについて語っている。もしその姿が象徴であるなら、何も聞いていない。もし人格であるなら、彼らはアッラー(﷾)だけがなされることをしているのである。
禅の実践者の多くは誰にも祈らない。座って瞑想し、正しいことを行うことが実践のすべてであり、パーリ語のブッダはすでに務めは私たちのものであると言っている。
反論
それならこのページは彼らが祈るとは言っておらず、イスラームはその努力を尊ぶ。クルアーンは、心はアッラー(﷾)を念じることによって安らぎを得ると言い、私たちにかれだけに呼びかけるよう求めている(13:28、1:5)。
イスラームの視点
両方の師が自分自身から離れて指し示している。パーリ語のブッダは、仏たちはただ道を示すだけであると言う。預言者(ﷺ)は、自分はただ自分の主に祈るだけであると言うよう告げられている。イスラームは誰へとかを言う。アッラー(﷾)は聞いて答えられ、かれと並べて誰にも祈ってはならず、執り成しはただかれのお許しによってのみである。信仰、崇拝、人格は共に一つの生き方を作っている。
クルアーンは預言者(ﷺ)に、自分はただ自分の主に祈るだけであると言わせている。害を与えることも、誰をも正しい行いへ導くことも、と彼は言う、自分の力にはない。
アッラー(﷾)は言われる。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう」。そして、かれは近くにおられ、すべての祈願者に耳を傾けられると言われる。かれ以外に祈られる者たちは聞くことも答えることもできない。
クルアーンは、礼拝の場はアッラー(﷾)のためのものであると言う。それでかれと並べて誰にも祈ってはならない。
かれのお許しの後でなければ、誰もアッラー(﷾)に執り成すことはできず、それもただかれが受け入れられる者たちのためだけである。これはイスラーム自身の規則であり、例外なしに述べられている。
クルアーンは「私たちが彼らを崇めるのは、彼らが私たちをアッラーのお傍へと近づけてくれるために外ならない」という言い分を記録している。それは、誠実な献身はアッラー(﷾)だけにふさわしいと答えている。
信仰者はアッラー(﷾)だけに助けを求め、祈り、信仰、人格は共に一つの生き方を作っている。