短い答え
はい。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、コリント人に、自分はクリスポとガイオの二人のほかは彼らの誰にもバプテスマを授けなかったと書いた。すぐ後に、彼はステパナの家の者たちにもバプテスマを授けたことを思い出す。それから彼は、ほかに誰かにバプテスマを授けたかどうか知らないと付け加える。その言い違い、訂正、そして疑いのすべてが、キリスト教徒が神の言葉と呼ぶ聖書の中に残っている。次の節でパウロは、キリストは自分をバプテスマを授けるために遣わされたのではないと言う。ところがマタイでは、イエスは自分の信奉者たちを一つの命令と共に諸国民へ遣わしている。彼らを教え、彼らにバプテスマを授けよ。これらは記憶から書いている人の言葉である。クルアーンでは神が語られ、クルアーンは神は決して忘れられないと言う。それは、自分の欲望から語らなかった預言者(ﷺ)によってもたらされた。
詳しい説明
誤り、訂正、そして疑い
バプテスマを授けるとは、キリスト教の信仰に加わるしるしとして、人を水に浸すか、その人に水を注ぐことを意味する。パウロはギリシアの町コリントのキリスト教徒に書いた。彼の三つの文を順に読みなさい。第一に、彼はクリスポとガイオのほかは誰にもバプテスマを授けなかった。第二に、彼はステパナの家の者たちにもバプテスマを授けたので、第一の文は誤っていた。第三に、彼はほかに誰かにバプテスマを授けたかどうか知らないので、その訂正さえ不完全かもしれない。パウロは記憶から書いており、そう言った。彼の手紙が聖書の一部となったとき、三つの言明のすべてが保たれた。
“わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それは、わたしの名によってあなたがたがバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパノの家の者たちにはバプテスマを授けたが、そのほかには、だれにも授けた覚えはない。”
バプテスマを授けるために遣わされたのか、遣わされなかったのか
まさに次の節でパウロは、キリストは自分をバプテスマを授けるためではなく、宣べ伝えるために遣わされたと言う。マタイ、すなわち復活についてのキリスト教の記述では、イエスは自分の信奉者たちを一つの命令と共にすべての国民へ遣わしている。彼らを教え、彼らにバプテスマを授けよ。パウロは自分を異邦人の使徒、つまりそれらの国民の使徒と呼んでいる。マタイのキリストは教えることとバプテスマを授けることを一つの任務の中に結び合わせ、パウロはそれらを分けている。
“いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。”
“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を教え、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、”
“そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、”
パウロは自分自身の言葉に印をつける
パウロが人として書いていることを示すのはここだけではない。同じ手紙の中で、彼は主からではなく自分から来ると言う裁定を与えている。別の事柄について、彼は主の命令を持っていないと言い、自分自身の判断を与えている。
“そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。”
“おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。”
クルアーンが自らについて主張すること
クルアーンは、預言者(ﷺ)は自分の欲望から語らず、彼がもたらしたものは彼に下された啓示であったと言う。それはまた誰でも当てはめることのできる試しを定めている。神以外からの書は多くの矛盾を含むであろう。クルアーンが以前の裁定を後の裁定で置き換えた所でも、それは決して事実を覆さなかった。パウロの第一の文は事実の言明であり、それは誤っていた。クルアーンでは神が語られ、クルアーンは神は決して忘れられないと言う。
“また、彼は私欲で語っているのでもない。それは、下される啓示以外の何ものでもないのだ。”
“一体彼らは、クルアーンを熟慮しないのか?もしそれがアッラー以外のものに由来するものであったなら、彼らはその中に沢山の相違点を見出したであろうに。”
“そして(ジブリールよ、使徒ムハンマドにこう言うのだ、)「私たち(天使)は、あなたの主のご命令によらずしては、(天から地に)降臨することがない。かれにこそ、私たちの前にあるものと、後ろにあるもの、そしてその間にあるものが属するのだ。そしてあなたの主はもとより、忘れたりするお方ではない。”
“アーヤを撤回するにせよ、または忘れさせるにせよ、われらはそれより善いものか、あるいは同等のものをもたらすのである。(預言者よ、)一体あなた(とその使徒たち)は、アッラーが全てのことをお出来なのを知らないのか?”
節ごとに
コリント人への第一の手紙 1:14-16 — 第1章14-16節
“わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それは、わたしの名によってあなたがたがバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパノの家の者たちにはバプテスマを授けたが、そのほかには、だれにも授けた覚えはない。”
引用の目的
パウロは誤っていない。聖書はパウロが自分を訂正したことを真実に記録しており、霊感が保証するのはその記録であって、パウロの記憶ではない。
応答
それなら第一の文、彼はクリスポとガイオのほかは誰にもバプテスマを授けなかったということは、聖書の中に立っている偽りの言明である。それはパウロがそれを書いたとき真実ではなく、彼自身がそれを撤回した。人の記憶違いの記録は人間の文書である。それは同時に、忘れることのない神の言葉ではありえない。クルアーンが、自分は主であるというフィルアウンの主張のような偽りの言明を引用するとき、語り手は神であり、かれはそれを偽りと名指される。ここでは偽りの文が、霊感を受けた書き手自身の声で、彼自身の主張として語られている。本文の中で、彼自身の後の記憶のほかには、それを偽りと示すものは何もない。
結論 — 聖書はその書き手自身が誤りであったと認める言明を保っているので、そのすべての行が神の言葉であるわけではない。
コリント人への第一の手紙 1:17 — 第1章17節
“いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。”
引用の目的
パウロは、自分の召しは宣べ伝えることであったと言っているだけである。彼は何人かの人にバプテスマを授けたので、マタイの命令を否定しているのではない。
応答
パウロの言葉は、キリストは自分をバプテスマを授けるために遣わされなかったというものである。マタイでは、バプテスマを授けることは副次的な務めではない。それは諸国民へ遣わされる者たちに与えられた一つの命令の一部である。パウロは自分を異邦人、まさにそれらの国民の使徒と呼んでいるのに、それを欠いた任務を述べている。たとえパウロが、バプテスマを授けることは自分の主な務めではなかったと言っているだけだとしても、彼はなおそれを宣べ伝えることの下に置いている。マタイのイエスは両方を一つの命令として与えている。パウロは、誰も自分の名によってバプテスマを受けたと言えないように、コリント人のうちわずかな者にしかバプテスマを授けなかったことを神に感謝してさえいる。
結論 — 自分の任務についてのパウロの記述は、マタイの任務と一致しない。
さまざまな視点
福音派のキリスト教徒
聖書は霊感を受けているが、神は人間の書き手たち、彼らの記憶と文体を通して働かれた。パウロの言葉はパウロが言ったことの正確な記録であり、彼の自己訂正はその真実の記録の一部である。
霊感はパウロが教えることに及んでいる。彼が誰にバプテスマを授けたかについての彼の一時の訂正は真実に記録されており、何も偽りを教えていない。
反論
訂正の記録は真実かもしれない。しかし第一の文、彼はクリスポとガイオのほかは誰にもバプテスマを授けなかったということは、パウロがそれを書いたとき真実ではなく、彼自身がそれを撤回した。人の記憶違いの記録は人間の文書である。それは同時に、忘れることのない神の言葉ではありえない。
パウロはキリストは自分をバプテスマを授けるために遣わされなかったと言う。彼は、バプテスマは自分の主な務めではなかったと言っているのであって、それが命じられていなかったと言っているのではない。
反論
パウロの言葉は、キリストは自分をバプテスマを授けるために遣わされなかったというものである。たとえ彼がバプテスマを授けることは自分の主な務めではなかったと言っているだけだとしても、彼はそれを宣べ伝えることの下に置いている。マタイでは、イエスは諸国民へ遣わされる者たちに、教えることとバプテスマを授けることを一つの命令として与えており、パウロは自分をそれらの国民の使徒と呼んでいる。
イスラームの視点
書き手がページの上で忘れ、自分を訂正する書は、どれほど誠実であっても人間の手紙である。預言者(ﷺ)によってもたらされたクルアーンは、そのすべての言葉において啓示であると主張しており、そのような言い違いを何も含んでいない。
パウロは、自分はクリスポとガイオだけにバプテスマを授けたと述べる。それから彼はステパナの家の者たちを付け加え、ほかに誰かにバプテスマを授けたかどうか知らないと言う。
パウロはキリストは自分をバプテスマを授けるために遣わされなかったと言う。ところがマタイでは、イエスは自分の信奉者たちを、すべての国民を教え、彼らにバプテスマを授けるために遣わしている。
パウロ自身、自分の裁定のいくつかを、主のものではなく自分のものとして印をつけている。
ある書の書き手自身が、その一つの文を誤りとして訂正するとしよう。それならその書のすべての文が神の言葉であることはありえない。
クルアーンは、預言者(ﷺ)は自分の欲望から語らなかったと述べている。それは、神以外からの書は多くの矛盾を含むであろうと言い、神は決して忘れられないと言う。