短い答え
はい。クルアーンは警告者のいなかった民は一度もなかったと言うので、インドの民にも警告者がいた。各警告者は自分の民の言語で語り、彼ら全員が一つのメッセージをもたらした。神だけを崇拝せよ。しかしクルアーンはインドに遣わされた預言者を誰も名指していない。それはクリシュナ、ラーマ、仏陀を預言者とはしておらず、誰もインドの警告者が誰であったかを言うことはできない。クルアーンが与えるのは試しである。インドの聖典の中でその一つのメッセージに合うものは何でも真であり、使徒の教えをこだましているかもしれない。それに反するものは何でも使徒から来たのではない。多くのヒンドゥー教徒は自分たちの信仰をサナータナ・ダルマ、永遠の宗教と呼んでいる。クルアーンもまた、すべての預言者にとって同じであり、人の本性に組み込まれた一つの宗教について語っている。そしてそれは、最後の使徒ムハンマド(ﷺ)は、インドを含め、すべての人々に遣わされたと言う。
詳しい説明
すべての民への警告者
クルアーンはどの民も除外しない言葉で答えている。警告者のいなかった民は一度もなかった、とそれは言う。神はすべての民の中に一つの命令をもって使徒を遣わされた。神に仕え、ターグートを避けよ。ターグートとはかれのほかに崇拝されるものは何でもである(ユースフ・アリーはその語を「悪」と訳している)。すべての民には導き手があり、各民の使徒が来るとき、事は彼らの間で正義をもって裁かれる。十四世紀のムスリムのクルアーン注釈者イブン・カスィールは35:24をこのように説明している。アーダムの子孫のどの民も、神がそれに警告者を遣わされることなしに過ぎることはなかったので、どの民も弁解を残されなかった。彼は13:7と16:36をそれと並べている。クルアーンは、中国もアメリカ大陸も名指していないのと同じように、インドを名指していない。しかし多くの民と言語を持つインドは、これらの節が覆う民の中にある。ほかの節は、預言者(ﷺ)自身の民には彼より前に警告者が来なかったと言っている。初期の学者たちは、これらは彼自身の部族クライシュについて、あるいはイエスと彼の間の空白期の民について語っていると説明した。下の答えがさらに述べている。
“本当にわれらはあなたを、吉報を伝える者、警告を告げる者として、真理と共に遣わした。そして、警告者が(出現しては、不信仰の結末を警告し、)過ぎ去っていかなかった共同体など、ないのだ。”
“われらは確かに、あらゆる共同体へと使徒を遣わし(て、こう伝えさせ)た。「アッラー(だけ)を崇拝し、ターグートを避けよ」。そして彼らの内には、アッラーがお導きになった者もあり、また彼らの内には、(誤った道に頑迷に従ったことで、)迷妄が確定した者もある。ならば、あなた方は地上を旅し、(使徒たちを)嘘つき呼ばわりした者たちの結末が、いかなるものであったかを見てみるがよい。”
“また、不信仰に陥った者たちは言う。「どうして彼(ムハンマド)に、その主から御徴が下されないのか?」(使徒よ、)あなたは警告者でしかない。そしていかなる民にも、(その)導き手がいる。”
“また、(過去の)全ての民には、使徒が(遣わされて)いる。それで彼らの使徒が(来世において)到来する時、彼らの間は公正に、不正を被ることなく、裁かれるのだ。”
この節を説明している。アーダムの子らのどの民も、神が警告者を遣わしてあらゆる言い訳を取り除かれることなしに過ぎ去ったものはない。彼はそれと並べて、13:7の「すべての民には導き手がある」と16:36の「われらは確かに、各民族に使徒を遣わした」を置いている。これについての節は多い、と彼は言う。
この節を説明している。神はすべての世代と人々のすべての集団に使徒を遣わされた。彼らはみな神の崇拝を呼びかけ、かれ以外のものの崇拝を禁じた。他のものの崇拝はアーダムの子らの間でヌーフの民において初めて起こった。その時から神はこの呼びかけをもって使徒を遣わし続けられた。ヌーフは神が地の民に遣わされた最初の使徒であり、神はムハンマド(ﷺ)をもって使徒たちを封じられた。彼の呼びかけは人間とジン、東と西に届いた。彼はそれとともに21:25を引いている。
“(それは使徒よ、あなたの到来以前に)自分たちの先祖が警告されておらず、(信仰と正しい行いにおいて)無頓着になっている民に、あなたが警告するため。”
カターダを伝えている。意味されている人々はクライシュであり、ムハンマド(ﷺ)以前には警告者が来なかった無文字の民である。彼はまたイブン・アッバースとムカーティルを伝えている。彼らはイーサーとムハンマドの間の空白期間(ファトラ)の人々である。第三の見解では、彼らは使徒を見ていなかったが、以前の使徒たちの警告によって神の証拠が彼らに対して立てられていた。
一つのメッセージ、各民の言語で
各使徒は、メッセージを彼らに明らかにするために、自分自身の民の言語で教えた。インドのある民に遣わされた警告者は、アラビア語ではなく、その民の言語で語ったであろう。メッセージそのものは変わらなかった。すべての使徒は、アッラー(﷾)のほかに神はない、それでかれを崇拝せよと告げられた。イブン・カスィールは、彼ら全員が神だけの崇拝へと呼びかけたと説明している。彼は、ヌーフの民の間でほかのものの崇拝が始まった時から、神はこの呼びかけをもって使徒たちを遣わし続けられたと付け加えている。神はムハンマド(ﷺ)をもって彼らを封印された。預言者(ﷺ)は、預言者たちは父を一つにし母を異にする兄弟であり、彼らの宗教は一つであると言った。
“われらはいかなる使徒も、その民の言葉でしか、遣わすことがなかった。(それは)彼らに、(アッラーの教えを)明白にするため。アッラーはお望みになる者を迷わされ、お望みになる者をお導きになる。かれは偉力ならびないお方、英知あふれるお方。”
“また、われらはあなた以前、「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と啓示することなしには、いかなる使徒も遣わさなかった。”
この節を説明している。神はすべての世代と人々のすべての集団に使徒を遣わされた。彼らはみな神の崇拝を呼びかけ、かれ以外のものの崇拝を禁じた。他のものの崇拝はアーダムの子らの間でヌーフの民において初めて起こった。その時から神はこの呼びかけをもって使徒を遣わし続けられた。ヌーフは神が地の民に遣わされた最初の使徒であり、神はムハンマド(ﷺ)をもって使徒たちを封じられた。彼の呼びかけは人間とジン、東と西に届いた。彼はそれとともに21:25を引いている。
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、自分は現世でも来世でも、すべての人の中でマルヤムの子イーサーに最も近い者であると言った。預言者たちは、父を同じくし母を異にする兄弟であり、彼らの宗教は一つである。
名指された者と名指されなかった者
クルアーンは約二十五人の預言者を名指している。それはその一覧が完全ではないことをはっきりと言っている。神は預言者(ﷺ)に、ある使徒たちの話を告げ、ほかの者たちの話は告げられなかった。それはインドに遣わされた警告者を誰も名指していない。それでそれは、インドの警告者が誰であったか、いつ来たかについて何の主張もしていない。クリシュナ、ラーマ、仏陀を含め、誰かを名指すことはただの推測であろう。クルアーンが確かに言っているのは、彼ら一人一人が何を教えたかである。神だけを崇拝せよ。クルアーンで名指されている預言者についてのページが、それが名指している者たちを挙げている。
“(使徒よ、)われらはあなた以前、確かに使徒たちを遣わした。彼らの中には、われらがあなたに語って聞かせた者もいるし、その中には、われらがあなたに語って聞かせなかった者もいる。また、いかなる使徒も、アッラーのお許しなしには御徴をもたらすことなどなかった。そしてアッラーのご命令が到来すれば、(使徒たちと彼らを噓つき呼ばわりしていた者たちの間は)真実によって裁かれ、(真実を)虚妄とする者たちは、そこで損失するのである。”
“また、われらが以前、あなたに語って聞かせた使徒たちと、まだあなたに語って聞かせてはいない使徒たちを(遣わした)。そしてアッラーはムーサーに、直々に語りかけられたのだ。”
“また、われらはあなた以前、「われ以外に(真に)崇拝すべきものはない。ゆえにわれを崇拝せよ」と啓示することなしには、いかなる使徒も遣わさなかった。”
以前の聖典の裁き手としてのクルアーン
クルアーンは自らを、それ以前に来た聖典の上に立つ守護者(ムハイミン)と呼んでいる。イブン・カスィールはその言葉を、以前のすべての書物の上に立つ受託者、証人、裁き手と説明している。彼は初期の学者イブン・ジュライジを伝えている。それらの書物の中でクルアーンに合うものは何でも真であり、それと異なるものは何でも偽りである。同じ節は、神は各民にそれ自身の律法と道を与えられたと言う。律法は異なったが、神についてのメッセージは異ならなかった。ムスリムは聖書のトーラーと新約聖書の福音書をまさにこのように読んでいる。クルアーンはトーラー(モーセに与えられた聖典)とインジール(イエスが宣べ伝えた福音)を啓示されたものとして名指している。ムスリムは聖書をどう読むべきかについてのページがその方法を説明している。ヒンドゥー教徒は、誰がクルアーンを裁き手にしたのかと問うかもしれない。その試しは、神から来るというクルアーンの主張と同じだけの価値しかない。それでクルアーンはまず自らが試されることを求めている。それは疑う者に、それに似た一章を作り出すか、よりよく導く神からの書を持って来るよう挑んでいる。
“また(使徒よ)、われらはあなたに、それ以前の啓典(の正しさ)を確証し、かつ統制するものとして、真実の啓典(クルアーン)を下した。ならばアッラーがお下しになったものによって、彼らの間を裁くのだ。そして、あなたに到来した真理をよそに、彼らの欲望に従ってはならない。われらはあなた方の各々(の共同体)に、法と(明白な)道筋を授けた。そして、もしアッラーがお望みになったのであれば、あなた方を一つの(法に基づいた)共同体とされただろう。しかし(そうされなかったのは)、あなた方に授けたものにおいて、あなた方をお試しになるため。ならば、善行を競い合うがよい。アッラーにこそ(復活の日)、あなた方全員の帰り所はあり、そしてかれは、あなた方が意見を異にしていたことに関して、あなた方にお告げになるのだから。”
ムハイミン(「それを安全に守るもの」)を初期の権威者たちから説明している。イブン・アッバースからのある伝承では、クルアーンはそれ以前のすべての書の上に立つ信頼できるものである。別の伝承ではそれらの上の証人であり、第三の伝承ではそれらの上の裁き手である。彼はイブン・ジュライジを伝えている。以前の書の中でクルアーンと一致するものは真実であり、それと異なるものは偽りである。イブン・カスィールは、この語はこれらすべての意味を含むと言う。彼は、神は書の最後であるクルアーンを、それらすべての上に立つ管理者、証人、裁き手とされたと付け加えている。神はご自身でそれを守ることを引き受けられた(15:9)。
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“(使徒よ、)言ってやれ。「ならば、アッラーの御許から、その二つ(トーラーとクルアーン)よりも正しく導いてくれる啓典を持って来てみよ。そうすれば、私はそれに従おう。もし、あなた方が本当のことを言っているのならば、だが」。”
インドの聖典に当てはめられた試し
クルアーンはインドのどの聖典も名指していないので、そのどれも啓示されたものとは主張していない。しかしその試しはどの書物にも用いることができる。インドの聖典の中でその一つのメッセージに合うものは何でも真であり、使徒がかつて教えたことをこだましているかもしれない。それに反するものは何でも使徒から来たのではない。『ケーナ・ウパニシャッド』はヒンドゥー教の聖典の最高の階層であるシュルティの一部である。それは目が見ることのできない唯一の方について言っている。「それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない」。それは一つのメッセージに近づいている。人々がここで崇拝するものは唯一の方ではない。『ギーター』では、クリシュナは主として語り、自分は代々生まれると言う。彼は、自分は生まれないものであるが、幻を生み出す力である自分の惑わしの力(マーヤー)によって生まれると言う。十九世紀に『ギーター』を翻訳したヒンドゥー教徒の裁判官テーランは、主は物質から成る体に生まれると説明している。その力が惑わしと呼ばれるのは、とテーランは付け加える、彼がなお実際には生まれないものだからである。しかし本物であれ見かけだけであれ、その誕生は『ギーター』自身の教えである。クリシュナは、アルジュナがそうであるように、自分も多くの誕生を経てきたと言う。クルアーンは、神はお産みにならず、お産まれにもならず、かれに似たものはないと言う。それでその試しによれば、主が生まれるという教えは唯一の神の使徒から来たのではない。
“言葉が照らさず、言葉を照らすもの、それのみをブラフマン(至高の存在)と知れ。人々がここで崇拝するこれではない。心によって考えられず、それによって心が考えることができると人々が言うもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。目によって見られず、それによって目が見ることができるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。耳によって聞かれず、それによって耳が聞くことができるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。誰も息によって息づかせず、それによって息が吸い込まれるもの、それのみをブラフマンと知れ。人々がここで崇拝するこれではない。”
“バラタの子孫よ、敬虔が衰え、不敬虔が優勢になるときはいつでも、私は自らを創り出す。善き者を守るため、悪を行う者を滅ぼすため、そして敬虔を確立するために、私は時代ごとに生まれる。”
“私は(私の)本質において生まれず尽きることがなく、すべての存在の主であるけれども、なお私は自分自身の本性の支配を取り、私の惑わしの力によって生まれる。”
“本性とは、彼がそこに生まれる物質的な形の形成に関わるものである。「力」は知識、全能などを含む。彼はなお実際には「生まれない」のであるから、それは惑わしなのである。”
“アルジュナよ、私は多くの生を経てきた。そしてあなたもまたそうである。私はそれらをすべて知っているが、(あなたの)敵を恐れさせる者よ、あなたはそれらを知らない。”
“使徒よ、)言え。「かれはアッラー、唯一なるお方、アッラーは、威光高きお方、お産みすることもなければ、お産まれにもならなかったのであり、誰一人、かれに匹敵するものもなかった」。”
ヒンドゥー教の見方:主によって回復される永遠の教え
ヒンドゥー教徒はこの問いに自分たち自身の言葉で答えている。ヒンドゥー教の僧スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴの万国宗教会議でヒンドゥー教の見方を示した。ヒンドゥー教徒は自分たちの宗教を啓示、ヴェーダ(最も古いヒンドゥー教の聖典)を通して受けた、と彼は言った。しかしヴェーダによって、と彼は言った、書物が意味されているのではない。それらは、引力の法則がそうであったように、誰かがそれを見いだす前から真であった霊的な法則である。それらを見いだしたリシ(見者)たちは完成された存在として敬われている。叙事詩『マハーバーラタ』の一部である『バガヴァッド・ギーター』は、そのような教えがどのように伝えられ、失われ、回復されるかを語っている。クリシュナは、自分はその永遠の教えを太陽に教え、太陽がそれをマヌに教えたと言う。それは段階を経て王仙たちへと伝わり、長い時の経過によって世界から失われた。今彼はそれを再びアルジュナに宣べている。敬虔が衰えるときにはいつでも、と彼は言う、自分は代々生まれる。多くのヒンドゥー教徒は自分たちの信仰をサナータナ・ダルマ、永遠の宗教と呼び、それには創始者も始まりもないと言う。
“ヒンドゥー教徒は自分たちの宗教を、その啓示であるヴェーダを通して受けた。彼らはヴェーダには始めも終わりもないと考えている。書物がどうして始めも終わりもないものでありえようかと、この聴衆には滑稽に聞こえるかもしれない。しかしヴェーダとは書物を意味するのではない。それは異なる時代に異なる人々によって発見された霊的法則の蓄積された宝庫を意味する。重力の法則がその発見の前から存在し、全人類がそれを忘れても存在するであろうように、霊的世界を治める法則もまた同じである。魂と魂の間、また個々の霊とすべての霊の父との間の道徳的、倫理的、霊的な関係は、その発見の前からそこにあり、われわれがそれを忘れてもなお残るであろう。これらの法則の発見者たちはリシと呼ばれ、われわれは彼らを完成された存在として敬う。そしてこの聴衆に喜んで申し上げるが、彼らの中で最も優れた者たちの何人かは女性であった。”
“この永遠の信愛(の体系)を私は太陽に説き、太陽はそれをマヌに説き、マヌはそれをイクシュヴァークに伝えた。このように段階を追って伝わり、それは王仙たちに知られるようになった。しかし(あなたの)敵を恐れさせる者よ、その信愛は長い(時の経過)によって世から失われた。その同じ太古の信愛を、私は今日あなたに説いた。あなたが私の信者であり友であるのを見たからである。それは最高の秘義だからである。”
“バラタの子孫よ、敬虔が衰え、不敬虔が優勢になるときはいつでも、私は自らを創り出す。善き者を守るため、悪を行う者を滅ぼすため、そして敬虔を確立するために、私は時代ごとに生まれる。”
永遠の宗教
サナータナ・ダルマとは永遠のダルマを意味する。永遠に成り立つ法、務め、あるいは宗教である。その言葉は古い。スムリティ(記憶された伝統)の古いヒンドゥー教の法典である『マヌ法典』はそれを用いている。真実で親切な言葉についての規則はこう終わる。「それが永遠の法である」(エーシャ・ダルマハ・サナータナハ)。クルアーンもまた、変わることのない一つの宗教、完全な生き方(ディーン)について語っている。神は信者たちのために、かれがヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーに命じられたのと同じ宗教を定められた。イブラーヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなく、神に服従し(アラビア語でムスリム)、かれに何の神々も並べなかった者であった。その宗教は神が人類を造られた型であり、すべての魂は神が自分の主であることを証言した。預言者(ﷺ)は、すべての子供はこの型(フィトラ)の上に生まれると言った。宗教が永遠であるのは、それがすべての時のすべての民にとって同じである場合だけである。それが預言者たちの宗教についてのクルアーンの主張である。
“真実を語れ、快いことを語れ、不快な真実を口にするな、快い偽りを口にするな。それが永遠の法である。”
“(人々よ、)かれは、かれがヌーフに命じた宗教の一部を、あなた方に明らかにした。また、(使徒よ、)われらがあなたに啓示したものと、イブラーヒームとムーサーとイーサーに命じたものを。つまり「あなた方は宗教を確立し、そこにおいて分裂してはならない」ということである。(ムハンマドよ、)あなたが彼らを招いているもの、(タウヒード)はシルクの徒にとって重大であった。アッラーはかれがお望みの者をそこ(タウヒード)へと選び抜かれ、よく(悔悟して)立ち返る者をそこへと導かれる。”
“イブラーヒームは、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。しかし彼は純正な人であり、服従する者(ムスリム)であった。そして、シルクの徒の類いではなかったのだ。”
“ならば、(使徒よ)、あなたの顔を純正な宗教(イスラーム)へと正すのだ。アッラーがそのように人々をお創りになった、アッラーの天性に(従え)。アッラーの創造(と宗教)に変更はないのだぞ。それがまっすぐな宗教。しかし人々の大半は、分からないのだ。”
“そして(使徒よ、)あなたの主が、アーダムの子らの後背部から彼らの子孫を取り出し、彼ら自身に対して(こう)証言させた時のこと(を思い起こさせよ。われらは言った)。「一体われは、あなた方の主ではないのか?」彼らは言った。「その通りです。私たちは証言しました」。(それは、)あなた方が復活の日に「本当に私たちは、これに対して無頓着な者だったのです」などと言わないようにするためである。あるいは、あなた方が「私たちのご先祖様こそが以前に(確約を破って)シルクを犯したのであり、私たちは彼ら(に従っていただけ)の後の子孫なのです。なのに、あなたは(シルクによって自らの行いを)無駄にする者たちがしたことゆえに、私たちを滅ぼされるのですか?」などと言わないようにするためである。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、すべての子はフィトラ(神が人類に与えた生まれつきの性質)の上に生まれ、その子をユダヤ教徒、キリスト教徒、あるいはゾロアスター教徒にするのはその両親である、ちょうど動物が五体満足で生まれるように、と言った。そしてアブー・フライラはクルアーン30:30を読誦した。
失われ、最後にもう一度与えられた
『ギーター』は、永遠の教えが長い時の経過によって世界から失われ、再び宣べられなければならなかったと言う。その喪失はイスラームよりはるかに古い。イスラームの説明はすべての民について同じ種類の話を語っている。イブン・カスィールは、ほかのものの崇拝が始まった時から神は使徒たちを遣わし続けられたと説明している。違いは教えがどのように戻るかにある。『ギーター』では主が生まれる。クルアーンでは神はかれのメッセージを携えた人を遣わされる。以前の各使徒は自分自身の民に遣わされ、預言者(ﷺ)は自分は全人類に遣わされたと言った。クルアーンは彼に言うよう告げている、「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である」。それは彼を預言者たちの封印、その最後の者と呼び、神はかれが下されたメッセージを守られると言う。それで神は、すべての民にそうされたように、インドの民にも警告者を遣わされたのであり、最後の使徒はインドにも遣わされたのである。イスラームはアラブ人だけのためのものかどうか、そしてムハンマド(ﷺ)は神の使徒であったかどうかについてのページがこれをさらに進めている。
“この永遠の信愛(の体系)を私は太陽に説き、太陽はそれをマヌに説き、マヌはそれをイクシュヴァークに伝えた。このように段階を追って伝わり、それは王仙たちに知られるようになった。しかし(あなたの)敵を恐れさせる者よ、その信愛は長い(時の経過)によって世から失われた。その同じ太古の信愛を、私は今日あなたに説いた。あなたが私の信者であり友であるのを見たからである。それは最高の秘義だからである。”
この節を説明している。神はすべての世代と人々のすべての集団に使徒を遣わされた。彼らはみな神の崇拝を呼びかけ、かれ以外のものの崇拝を禁じた。他のものの崇拝はアーダムの子らの間でヌーフの民において初めて起こった。その時から神はこの呼びかけをもって使徒を遣わし続けられた。ヌーフは神が地の民に遣わされた最初の使徒であり、神はムハンマド(ﷺ)をもって使徒たちを封じられた。彼の呼びかけは人間とジン、東と西に届いた。彼はそれとともに21:25を引いている。
ジャービル・イブン・アブドゥッラーによれば、預言者(ﷺ)は、自分以前のどの預言者にも与えられなかった、自分に与えられた五つのことを挙げた。その最後のものは、以前の預言者はみな自分の民だけに遣わされたが、彼は全人類に遣わされた、ということである。
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である。(アッラーは、)かれにこそ諸天と大地の王権が属するお方。かれの外に、崇拝すべきものなどはない。生を与え、死を与えられる(お方)。ならばアッラーと、アッラーとその御言葉を信じるその使徒。文盲の預言者を信じ、彼に従うのだ。あなた方が導かれるようにするために」。”
“ムハンマドはそもそも、あなた方の男性の内の、誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒、預言者たちの封印なのだ。そしてアッラーはもとより、全てのことをご存知のお方。”
“本当にわれらは訓戒(クルアーン)を下したのであり、実にわれらがまさしく、その守護者なのである。”
答えられた反論
『バガヴァッド・ギーター』4:7-8 — 第4章第7-8節
“バラタの子孫よ、敬虔が衰え、不敬虔が優勢になるときはいつでも、私は自らを創り出す。善き者を守るため、悪を行う者を滅ぼすため、そして敬虔を確立するために、私は時代ごとに生まれる。”
引用の目的
もしすべての民に警告者がいたのなら、インドのものはクリシュナ、ラーマ、仏陀のようなその偉大な人物の一人であったに違いない。しかしクリシュナは代々生まれる主ご自身である。彼を預言者と呼ぶことは神を単なる使者にすることであり、ヒンドゥー教徒はそれを退ける。
応答
クルアーンはインドに遣わされた警告者を誰も名指していない。それは、神はある使徒たちの話を語り、ほかの者たちの話は語られなかったと言うので、誰もインドの警告者が誰であったかを言うことはできない。クリシュナ、ラーマ、仏陀を名指すムスリムはただ推測しているにすぎない。『ギーター』も同じ方向を指している。クリシュナは神の言葉をもたらす使者として語っていない。彼は代々生まれる主として語っている。彼はアルジュナに、自分に供犠を捧げ、自分を敬い、自分を唯一の拠り所として自分のもとに来るよう告げる。クルアーンは、啓典と預言者の職を与えられたどの人も、人々に神ではなく自分を崇拝せよとは告げないと言う。それでイスラームはクリシュナを預言者とは呼ばず、この異議はそれに触れない。
結論 — クルアーンはインドの預言者を誰も名指していない。崇拝されることを求める『ギーター』のクリシュナは、クルアーンが使徒と呼ぶものではない。
クルアーン 10:47 — ユーヌス章、第47節
“また、(過去の)全ての民には、使徒が(遣わされて)いる。それで彼らの使徒が(来世において)到来する時、彼らの間は公正に、不正を被ることなく、裁かれるのだ。”
引用の目的
クルアーンは決してインドに触れていない。その世界はアラビアとその隣人たちであった。エジプト、ローマ、ユダヤ教徒、キリスト教徒である。それが「すべての民」と言うとき、それはそれが知っていた民を意味している。
応答
クルアーンはインドも、中国も、アメリカ大陸の民も名指していない。しかしそれはすべての使徒の話を語ったのではないとはっきり言っている。それでその記述はそれが名指す民を越えて及んでいる。その言葉は誰も除外していない。すべての民に使徒が遣わされ、警告者のいなかった民は一度もなかった。イブン・カスィールは、アーダムの子孫のどの民も警告者なしに過ぎることはなかったと説明している。インドの民は、インドが名指されていようといまいと、アーダムの子孫である。そしてクルアーンはそれ自身の預言者(ﷺ)を全人類に、それが名指す民と同じようにそれが決して名指さない民にも遣わしている。
結論 — クルアーンの主張はすべての民についてのものであるので、それはインドを名指すことなしにそれを覆っている。
クルアーン 36:6 — ヤー・スィーン章、第6節
“(それは使徒よ、あなたの到来以前に)自分たちの先祖が警告されておらず、(信仰と正しい行いにおいて)無頓着になっている民に、あなたが警告するため。”
引用の目的
クルアーン自身が、預言者(ﷺ)は先祖が何の警告も受けなかった民に遣わされたと言っている。彼より前に彼らには警告者が来なかった。それで35:24はすべての民に警告者がいたという意味ではありえず、インドには一人もいなかったかもしれない。
応答
35:24は過去を全体として語っている。いつかの時に、警告者がすべての民の中に住んだのである。アラブ人についての節は預言者(ﷺ)自身の民について語っている。32:3について、十三世紀のクルアーン注釈者クルトゥビーは、初期の学者カターダを伝えている。意味されている民はクライシュ、預言者(ﷺ)の部族である。彼はまた、預言者(ﷺ)の教友イブン・アッバースと、初期のクルアーン注釈者ムカーティルを伝えている。彼らは、意味されている民はイエスとムハンマド(ﷺ)の間の空白期の民であると言う。タバリーは九世紀と十世紀のクルアーン注釈者であった。彼が引くある文法学者は36:6を同じように説明している。彼らの先祖は使徒たちの間の空白期に生きたのである。その空白期よりずっと前に、イスマーイールはイブラーヒームと共にマッカに館を建て、クルアーンは彼を使徒であり預言者と呼んでいる。イブン・アッバース、彼の弟子イクリマ、カターダはまた、36:6を別の仕方で、彼らの先祖が警告されたように彼らに警告するため、と読んだと伝えられている。マッカの初期の学者イブン・ジュライジは、35:24はアラブ人を除外していると言ったと伝えられている。彼の読み方によってさえ、その例外は預言者(ﷺ)自身の民についての節に依っており、それらの節は彼らに警告するよう彼を遣わしている。どの節もインドについてそのようなことを何も言っていない。
結論 — アラブ人についての節は、すべての民についてではなく、預言者(ﷺ)自身の民について語っている。そのどれも、インドに警告者がいなかったとは言っていない。
クルアーン 25:51 — 識別章、第51節
“また、もしわれらが望めば、われらは全ての町に警告者を遣わしたであろう。”
引用の目的
クルアーンは自己矛盾している。ここでそれは、神がお望みになったならすべての町に警告者を遣わすことがおできになったと言っており、それはかれがそうされなかったことを意味する。しかし35:24はすべての民に一人いたと言っている。
応答
その二つの節は異なることについて語っている。35:24は歴史を通してのすべての民(ウンマ)について語り、25:51はすべての町(カルヤ)について語っている。一人の警告者は民全体とそのすべての町に仕えることができる。イブン・カスィールはその節をこのように説明している。神はすべての町に警告者を遣わすことがおできになった。代わりにかれは、7:158が言うように、ムハンマド(ﷺ)を選び出して地上のすべての人々に遣わされた。以前の警告者たちはそれぞれ自分自身の民に遣わされた。最後の者は彼ら全員に遣わされた。
結論 — すべての民に警告者がいた。すべての町がそれ自身の警告者を必要としたのではない。矛盾はない。
クルアーン 14:4 — イブラーヒーム章、第4節
“われらはいかなる使徒も、その民の言葉でしか、遣わすことがなかった。(それは)彼らに、(アッラーの教えを)明白にするため。アッラーはお望みになる者を迷わされ、お望みになる者をお導きになる。かれは偉力ならびないお方、英知あふれるお方。”
引用の目的
クルアーン自身の規則によれば、すべての使徒は自分自身の民のもとに彼らの言語で来た。インドにはそれ自身の言葉でのそれ自身の警告者がいた。アラビア語の書を携えたアラビア語の預言者はアラブ人に遣わされたのであって、インドにではない。
応答
以前の使徒たちはそれぞれ自分自身の民に、彼らの言語で遣わされた。預言者(ﷺ)は、これは自分と共に変わったと言った。彼以前のすべての預言者は自分自身の国民だけに遣わされ、彼は全人類に遣わされた。クルアーンは彼に言うよう告げている、「人々よ、本当に私はあなた方全員への、アッラーの使徒である」。それは彼を預言者たちの封印と呼んでいるので、どの民にも後の使徒は来ない。14:4が言うように、クルアーンはまずそれが啓示された民の言語で来た。彼らからそれはすべての民へと出て行った。その意味は翻訳と教えを通して、ほかの民にそれぞれの言語で届いている。今日ほとんどのムスリムはアラブ人ではなく、インドは世界で最も大きなムスリム人口の一つを持っている。
結論 — 以前の各警告者は一つの民に遣わされた。最後の者は、インドを含め、すべての者に遣わされた。
クルアーン 5:48 — 食卓章、第48節
“また(使徒よ)、われらはあなたに、それ以前の啓典(の正しさ)を確証し、かつ統制するものとして、真実の啓典(クルアーン)を下した。ならばアッラーがお下しになったものによって、彼らの間を裁くのだ。そして、あなたに到来した真理をよそに、彼らの欲望に従ってはならない。われらはあなた方の各々(の共同体)に、法と(明白な)道筋を授けた。そして、もしアッラーがお望みになったのであれば、あなた方を一つの(法に基づいた)共同体とされただろう。しかし(そうされなかったのは)、あなた方に授けたものにおいて、あなた方をお試しになるため。ならば、善行を競い合うがよい。アッラーにこそ(復活の日)、あなた方全員の帰り所はあり、そしてかれは、あなた方が意見を異にしていたことに関して、あなた方にお告げになるのだから。”
引用の目的
クルアーンは、それ以前に来た聖典を確証すると言う。もし神がインドに警告者を遣わされたなら、ヴェーダこそ彼がもたらしたものであるので、クルアーンはそれらを確証すべきである。リシたちが預言者であったなら、彼らのヴェーダに従うべきであるか、そうでなかったかのどちらかである。もし彼らがそうでなかったなら、ムスリムは一なる神についての行を彼らの功績とすることはできない。そして誰がクルアーンをヴェーダの裁き手にしたのか。それは証明しなければならないことを前提にしている。
応答
同じ節はクルアーンを以前の聖典の上に立つ守護者と呼んでいる。イブン・カスィールはこれを、その受託者、証人、裁き手と説明している。イブン・ジュライジの言葉では、それらの書物の中でそれに合うものは何でも真であり、それと異なるものは何でも偽りである。それは試しであって、二重の基準ではない。クルアーンはインドのどの聖典も名指していないので、ヴェーダが使徒から来たとは言っていない。クルアーンはトーラーとインジールを啓示されたものとして名指している。それでさえ、ムスリムは聖書のトーラーと新約聖書の福音書をクルアーンによって裁く。一つのメッセージに合う行は、誰が最初にそれを言ったにせよ、真である。それは使徒の教えをこだましているかもしれず、あるいはすべての人の内に置かれた神についての知識をこだましているかもしれない。どちらにしても、それはクルアーンの教えから離れるのではなく、それを指し示している。またヒンドゥー教の聖典はすべてが一つの方向を指しているのでもない。『ケーナ・ウパニシャッド』は、唯一の方は「人々がここで崇拝するこれではない」と言う。ヒンドゥー教徒もまた、どの行に従うべきかを決めなければならず、クルアーンは決めるための規則を与えている。その規則は、神から来るというクルアーンの主張と同じだけの価値しかない。それでクルアーンはまず自らが試されることを求めている。それは疑う者に、それに似た一章を作り出すよう挑んでいる。それはそれを退ける者たちに、よりよい導きである神からの書を持って来るよう告げ、預言者(ﷺ)はそれに従うであろうと言う。クルアーンの挑戦と、ムハンマド(ﷺ)は神の使徒であったかどうかについてのページが、その証拠を示している。
結論 — クルアーンとの一致は一つの行が真であることを示す。それは書物全体を啓示されたものにはしない。クルアーンはすべての以前の書物を裁き、自らも試されることを求めている。
『リグ・ヴェーダ』1.164.46 — 第1マンダラ、第164讃歌、第46節
“人々は彼をインドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼び、彼は天の気高い翼を持つガルトマーンである。一なるものに、聖仙たちは多くの名を与える。彼らはそれをアグニ、ヤマ、マータリシュヴァンと呼ぶ。”
引用の目的
リグ・ヴェーダの初期の讃歌は多くの神々を讃えている。一つの実在という考えは後に、このような讃歌やウパニシャッドの中に現れる。インドは多くの神々から一なるものへと移った。失われた一なる神の教えという考えは、その歴史をひっくり返している。
応答
クルアーンはインドの警告者に日付を定めず、残っているどの讃歌も彼らから来たとは言っていない。最も古い讃歌が作られるずっと前から人々はインドに住んでおり、インドには多くの民があり、それぞれがクルアーンの言葉の内にある。イブン・カスィールは、ほかのものの最初の崇拝をヌーフの民の間に置いている。彼は、神はその時から使徒たちを遣わし続けられたと言う。その説明は、一つの民の讃歌が作られた順序に依存していない。またその主張はインドの歴史の理論でもない。それは神の正義についての言明である。どの民も警告なしに放っておかれず、使徒が来る前には誰も罰せられない。そして後の文献における一なるものへの転換は、まさにクルアーンが予期させることである。人々はかれを知る型の上に造られているのである。
結論 — その主張は讃歌の順序についてではなく使徒についてのものであるので、ヴェーダのどの年代づけもそれを決めることはできない。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「ヒンドゥー教についての論文」、万国宗教会議、シカゴ、1893年9月19日
“ヒンドゥー教徒は自分たちの宗教を、その啓示であるヴェーダを通して受けた。彼らはヴェーダには始めも終わりもないと考えている。書物がどうして始めも終わりもないものでありえようかと、この聴衆には滑稽に聞こえるかもしれない。しかしヴェーダとは書物を意味するのではない。それは異なる時代に異なる人々によって発見された霊的法則の蓄積された宝庫を意味する。重力の法則がその発見の前から存在し、全人類がそれを忘れても存在するであろうように、霊的世界を治める法則もまた同じである。魂と魂の間、また個々の霊とすべての霊の父との間の道徳的、倫理的、霊的な関係は、その発見の前からそこにあり、われわれがそれを忘れてもなお残るであろう。これらの法則の発見者たちはリシと呼ばれ、われわれは彼らを完成された存在として敬う。そしてこの聴衆に喜んで申し上げるが、彼らの中で最も優れた者たちの何人かは女性であった。”
引用の目的
ヒンドゥーのダルマはサナータナ、永遠である。その真理には始まりがなく、それには創始者がない。イスラームは七世紀にムハンマド(ﷺ)によって創始された。永遠の宗教はヒンドゥー教徒自身のものである。
応答
クルアーンはイスラームを新しい宗教として示していない。それは、神はヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーに命じられたのと同じ宗教を定められたと言う。イブラーヒームは、とそれは言う、神に服従し、かれに何の神々も並べなかった。預言者(ﷺ)は預言者たちの最後の者であって、最初の者ではなかった。宗教を永遠にするのはその書物の古さではない。それはすべての時、すべての民にとって同じであるメッセージである。ヴィヴェーカーナンダが霊的な法則を永遠と呼んだのは、それらが誰かがそれを見いだす前から真であったからである。それらの真理の第一は、神は一であり、かれだけが崇拝されるべきであるということである。クルアーンは、それはすべての民に教えられ、すべての魂に置かれたと言う。『ギーター』もまたその教えを太古のものと呼んでいるが、それは世から失われ、再び宣べられなければならなかったと言っている。人類と同じほど古い教えも、なお回復を必要としうるのである。
結論 — イスラームは、新しい宗教ではなく、最後にもう一度回復された最も古いメッセージであると主張している。その一つの宗教は大事な意味において永遠である。それは決して変わらない。
クルアーン 35:24 — 創成者章、第24節
“本当にわれらはあなたを、吉報を伝える者、警告を告げる者として、真理と共に遣わした。そして、警告者が(出現しては、不信仰の結末を警告し、)過ぎ去っていかなかった共同体など、ないのだ。”
引用の目的
ムスリムは、インドにはかつて警告者がいて、その教えが後に失われたか、ほかの神々の崇拝と混ざったと言う。それはヒンドゥー教徒を、ムスリムが覚えていることを忘れた人々として扱っている。それは見下している。そしてムスリムはヒンドゥー教徒を引き寄せるために、今になってそれを言っているだけである。
応答
インドから遠く離れて啓示されたクルアーンは、警告者のいなかった民は一度もなかったと言う。それは、神がすべての民をそうされたようにインドの民を気遣われたと言っているのであって、ヒンドゥー教徒が劣っていると言っているのではない。またそれはインドのために作られた新しい考えでもない。十四世紀に書いたイブン・カスィールは、その節をアーダムの子孫のすべての民を覆うものとして説明している。イスラームは預言者(ﷺ)自身の民について同じ種類の話を語っている。イブラーヒームはマッカの館の場所を与えられ、崇拝において神に何も並べないよう告げられた。彼はイスマーイールと共にその土台を築き、クルアーンはイスマーイールを使徒であり預言者と呼んでいる。しかし預言者(ﷺ)の時代までに360の偶像がその周りに立っており、クルアーンは彼の民を「自分たちの先祖が警告されておらず」いる民と呼んでいる。『ギーター』そのものがそれ自身の教えについてこの種の話を語っている。それはその教えを永遠のものと呼び、太陽からマヌへ、そして王仙たちへと伝えられたと言う。それから長い時の経過によって世から失われ、再び宣べられた。神からの教えが与えられ、失われ、再び与えられうると言うことは、インドへの侮辱ではない。『ギーター』自身がそう言っている。
結論 — クルアーンは、すべての民を敬うように、インドを警告者によって敬っており、預言者(ﷺ)自身の民についても同じ種類の話を語っている。『ギーター』そのものが、永遠の教えはかつて失われ、再び与えられたと言っている。
『バガヴァッド・ギーター』4:1-3 — 第4章第1-3節
“この永遠の信愛(の体系)を私は太陽に説き、太陽はそれをマヌに説き、マヌはそれをイクシュヴァークに伝えた。このように段階を追って伝わり、それは王仙たちに知られるようになった。しかし(あなたの)敵を恐れさせる者よ、その信愛は長い(時の経過)によって世から失われた。その同じ太古の信愛を、私は今日あなたに説いた。あなたが私の信者であり友であるのを見たからである。それは最高の秘義だからである。”
引用の目的
ムスリムはインドが失った教えについて語る。しかしインドの寺院を壊したのはムスリムの支配者たちであった。インドの警告者たちが何を後に残したにせよ、ムスリムの征服者たちが誰よりもそれを壊したのである。
応答
あるムスリムの支配者たちは確かに寺院を壊したのであり、このページはそれを擁護しない。しかしこのページが語っている喪失はイスラームよりはるかに古い。イスラームの何世紀も前に作られた『ギーター』は、その教えが「長い(時の経過)によって世から失われた」と言っている。クリシュナはそれからそれを再びアルジュナに宣べている。またインドの聖典はムスリムの支配のもとで滅びはしなかった。ヴェーダ、ウパニシャッド、『ギーター』は今日読まれている。十六世紀のムガル皇帝アクバルは、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』をペルシア語に翻訳させさえした。クルアーンの主張は神が何をされたかについてのものである。かれはすべての民に警告者を遣わされた。それはどの支配者が何をしたかによって立ったり倒れたりはしない。イスラームは剣によって広められたのかどうかについてのページが、インドを含め、その歴史を見ている。
結論 — 支配者たちの行いはクルアーンによって裁かれるのであって、クルアーンが支配者たちの行いによって裁かれるのではない。『ギーター』そのものが、その教えはイスラームが来るずっと前に失われたと言っている。
クルアーン 7:172-173 — 高壁章、第172-173節
“そして(使徒よ、)あなたの主が、アーダムの子らの後背部から彼らの子孫を取り出し、彼ら自身に対して(こう)証言させた時のこと(を思い起こさせよ。われらは言った)。「一体われは、あなた方の主ではないのか?」彼らは言った。「その通りです。私たちは証言しました」。(それは、)あなた方が復活の日に「本当に私たちは、これに対して無頓着な者だったのです」などと言わないようにするためである。あるいは、あなた方が「私たちのご先祖様こそが以前に(確約を破って)シルクを犯したのであり、私たちは彼ら(に従っていただけ)の後の子孫なのです。なのに、あなたは(シルクによって自らの行いを)無駄にする者たちがしたことゆえに、私たちを滅ぼされるのですか?」などと言わないようにするためである。”
引用の目的
イスラームは、すべての魂は生まれる前に神と契約を結んだと言うが、誰もそれを覚えていない。それは、ムスリムが退ける、誰も覚えていない前世からのカルマと少しも変わらない。
応答
その節は契約の目的を与えている。それは、誰も審判の日に「本当に私たちは、これに対して無頓着な者だったのです」と言えないように取られたのである。また誰も自分が従った偽りの神々のことで自分の先祖を責めることもできない。誰もそれだけを理由に罰せられはしない。神は、とクルアーンは言う、使徒を遣わされるまでは誰も罰されず、重荷を負う者は他人の重荷を負わない。各人の内に契約から残っているものは、ある出来事の記憶ではなく、神についての知識である。それは、預言者(ﷺ)が言ったように、すべての子供がその上に生まれる生まれつきの型である。だからこそ、インドを含め、あらゆる地の人々が一なる神へと手を伸ばしてきたのである。イスラームでは誰も生まれる前になされたことで責められはしない。
結論 — 契約はすべての魂に置かれた神についての知識であって、忘れられた罪ではない。使徒が来る前には誰も罰せられない。
さまざまな視点
永遠の教えと主の降臨
ヴェーダには始まりも終わりもない。それらは書物ではなく、引力の法則がそうであったように、誰かがそれを見いだす前から真であった霊的な法則である。それらを見いだしたリシたちは完成された存在として敬われている。教えは師から師へと伝わる。それが世から失われ敬虔が衰えるとき、主ご自身がそれを回復するために代々生まれる。これがサナータナ・ダルマ、永遠の宗教であり、創始者も始まりもなく、外からの使徒を必要としない。
ヴィヴェーカーナンダは1893年に万国宗教会議で、ヒンドゥー教徒はヴェーダには始まりも終わりもないと考えていると語った。彼はヴェーダは書物ではないと言った。それらは異なる時に異なる人々によって見いだされた霊的な法則の宝庫である。
反論
最初の真理がどの書物よりも古いことは認めよう。イスラームは、神はそれらを各民の中の使徒に遣わされ(21:25、35:24)、かれについての知識をすべての魂に置かれたと言う(30:30)。それで一つの行が真であるのは、それが古いからではなく、その一つのメッセージに合うときである。その試しによれば、生まれる主は使徒から来たのではない(112:3)。
彼は、これらの法則を見いだした者たちはリシと呼ばれ、ヒンドゥー教徒は彼らを完成された存在として敬っていると言った。
反論
イスラームは神の使徒たちをほかのすべての人々の上に敬っている。しかしクルアーンはインドに遣わされた使徒を誰も名指していないので、どのリシがそうであったかどうかを言わない。イスラームはすべての師を、彼が何を教えたかによって裁く。神だけが崇拝されるべきであるということである(21:25)。
『ギーター』で、クリシュナは、永遠の教えは段階を追って伝わり、長い時の経過によって世から失われたと言う。彼はそれを再びアルジュナに宣べた。
反論
『ギーター』そのものがその教えはかつて失われたと言っていることは認めよう。イスラームはすべての民について同じ種類の話を語っている。違いはそれがどう戻るかである。『ギーター』では主が生まれる。クルアーンでは神はお産みにならず、お産まれにもならない。かれはかれのメッセージを携えた人を遣わされる。
クリシュナは、自分は生まれないものであるが、敬虔が衰えるときにはいつでも、代々、自分自身の惑わしの力(マーヤー)によって生まれると言う。テーランは、彼はなお実際には生まれないものであると説明している。
反論
主はなお実際には生まれないものであるというテーランの注は認めよう。本物であれ見かけであれ、『ギーター』はなお彼に、アルジュナがそうであるように、多くの誕生を経させている(4.5)。クルアーンは、神はお産まれにならず、いかなるものもかれには似ていないと言う(112:3、42:11)。アルジュナのような誕生は、それが本物であれただ示されたものであれ、被造物の誕生である。
永遠であり、主ご自身が回復する教えは、インドの外からの使徒を必要としない。
反論
イスラームは、過去に外からの使徒が必要であったとは言っていない。クルアーンは、警告者はすべての民の中に住んだと言い(35:24)、それはインドの民を覆っている。『ギーター』そのものがその教えは失われたと言っている。クルアーンでは、神は決して生まれることによってではなく、人を遣わすことによってそれを回復される(112:3)。最後の使徒ムハンマド(ﷺ)は全人類に遣わされた(7:158)。
イスラームの視点
神はインドの民を含め、すべての民に警告者を遣わされた。各々は自分の民の言語で語り、全員が一つのメッセージを持っていた。神だけを崇拝せよ。クルアーンはインドの警告者を誰も名指していないので、イスラームは誰も名指さない。インドの聖典の中でそのメッセージに合うものは何でも真である。それに反するものは何でも使徒から来たのではない。クルアーンが裁き手である。すべての預言者は一つの宗教を持っており、それは神が人類を造られた型である。神は決して生まれることによってではなく、使徒を遣わすことによってそれを連れ戻される。その最後の者ムハンマド(ﷺ)はすべての民に遣わされた。
クルアーンは、警告者のいなかった民は一度もなかったと言う。神はすべての民に使徒を遣わされた。
イブン・カスィールは、アーダムの子孫のどの民も神からの警告者なしに過ぎることはなかったと説明している。それでどの民も弁解を残されなかった。
すべての使徒は自分自身の民の言語で教えた。そして一人一人が告げられた。アッラー(﷾)のほかに神はない、それでかれを崇拝せよ。
クルアーンは、すべての使徒の話を語ったのではないと言い、インドに遣わされた者を誰も名指していない。
クルアーンは以前の聖典の裁き手である。それに合うものは真であり、それと異なるものは偽りである。
『ギーター』で、クリシュナは自分は代々生まれると言う。クルアーンは、神はお産みにならず、お産まれにもならないと言う。
クルアーンは、啓典と預言者の職を与えられたどの人も、人々に神ではなく自分を崇拝せよとは告げないと言う。『ギーター』で、クリシュナはアルジュナに、自分に供犠を捧げ自分を敬うよう求めている。
クルアーンは、同じ宗教がヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーに与えられたと言う。そして預言者(ﷺ)は、預言者たちの宗教は一つであると言った。
その宗教は神が人類を造られた生まれつきの型であり、すべての子供はその上に生まれる。
以前のすべての預言者は自分自身の民に遣わされた。最後の者ムハンマド(ﷺ)は全人類に遣わされ、彼は預言者たちの封印、その最後の者である。