短い答え
いいえ。もし神がいなければ、何も本当には悪ではない。ただ出来事があるだけである。その見方によれば、洪水はただ動いている水である。殺人はただ一匹の動物が別の動物を殺すことである。そのどちらかを悪と呼ぶには、自然をその上に立つ善の基準によって判断しなければならない。誰もがその基準が本物であるかのように生きている。自然はそれを与えることができない。人間の意見もできない。それは時代から時代へと変わるからである。神だけができる。それで悪が神を否定すると言う者は誰でも、その論証をするために神の基準を使わなければならない。イスラームの答えはクルアーンから来る。神はすべての魂を形づくられたとき、それにその悪と善を示された。
詳しい説明
その異議が依っているもの
神に反対する最もよく知られた論証である悪の問題は、このように進む。善い神は苦しみを終わらせたいと望むであろう。全能の神はそれを終わらせることができるであろう。苦しみは存在する。それで神はいない。しかしもしその異議が正しいなら、「悪」という言葉が何を意味するかを問うてみよう。神がいなければ、不平を言うべき本当の悪はなく、ただ出来事があるだけである。その見方によれば、洪水はただ動いている水であり、殺人はただ一匹の動物が別の動物を殺すことである。そのどちらかを悪と呼び、それに怒ることは、善の基準に訴えることである。その基準は自然の上に立ち、それを判断する。誰もがそれが本物であるかのように生きている。それを否定する者でさえそうである。自然はそのような基準を含んでいない。自然の上に立つ法は自然の上に立つ立法者を必要とし、それが神である。
“また、魂と、それを整え、それに、その放逸さと敬虔さを吹き込んだものにかけて(誓う)。”
“すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。”
道徳感覚は組み込まれている
クルアーンは、神は魂を造られたときに善悪の知識をその中に置かれたと言う。それは後になって魂に教えられたのではない。イスラームはこの元々の性向をフィトラと呼ぶ。フィトラとは、神がすべての人間を造られた本性である。それは善悪の感覚と、神は一であるという知識を担っている。預言者(ﷺ)は、すべての子供はフィトラの上に生まれると言った。彼をユダヤ教徒、キリスト教徒、あるいはマギにするのは彼の両親である。マギとはペルシアの古い宗教であるゾロアスター教に従う者である。幼い子供たちの研究は、フィトラのもう半分、造り主の感覚を指し示している。2019年の本で報告されたオックスフォードでの研究がその一例である。イギリスと日本の未就学児たちは等しく、自然の物は人々によってではなく造り主によって造られたと言った。心理学者ジャスティン・バレットは2012年に、子供の信仰についての本を『生まれながらの信者』と名づけた。
“また、魂と、それを整え、それに、その放逸さと敬虔さを吹き込んだものにかけて(誓う)。”
“ならば、(使徒よ)、あなたの顔を純正な宗教(イスラーム)へと正すのだ。アッラーがそのように人々をお創りになった、アッラーの天性に(従え)。アッラーの創造(と宗教)に変更はないのだぞ。それがまっすぐな宗教。しかし人々の大半は、分からないのだ。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、すべての子はフィトラ(アッラーだけを崇拝する生まれつきの性質)の上に生まれ、その子をユダヤ教徒、キリスト教徒、あるいはゾロアスター教徒にするのはその両親である、ちょうど動物が五体満足で傷のない子を産むように、と言った。そしてアブー・フライラはクルアーン30:30を読誦した。
イギリスと日本の子どもと大人を対象にしたオックスフォードの研究計画を報告する。自然物と人工物を見せられ、それがどうしてできたのかと尋ねられると、就学前の子どもたちはたいてい、自然物は人ではなく作り手によって作られたと答えた。唯一の創造神への信仰を教えない文化であるにもかかわらず、日本の子どもたちもそう答えた。
発達心理学から、幼い子どもは生まれつき創造の神を信じ、自然界に目的を見る傾向があり、したがって宗教的な信仰はごく普通の人間の本性からほとんど必然的に生じる、と論じる。
聖書は同意している
一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、律法を一度も受けなかった人々も、生まれつきそれが求めることを行うと書いた。「律法」によって彼は、神がモーセに与えられた律法を意味していた。その業は彼らの心に記されており、彼らの良心が証しをする。キリスト教徒とムスリムは、道徳感覚は本物であり、神がそれをそこに置かれたことで一致している。
“すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。”
なぜ道徳感覚だけでは十分でないのか
道徳感覚は人に、善悪が存在することを告げる。それだけでは、それらが何であるかを確実に告げはしない。人々は自分の時代と利害からそれらを定め、それでいて良心は清いままである。利息を取って金を貸すことである高利を取り上げよう。中世の教会はそれをあまりにも固く断罪したので、ヴィエンヌ公会議(1311-1312年の教会の会議)は布告を出した。高利は罪ではないと頑なに主張する者は誰でも、異端者として罰せられることになった。今日、同じ国々がそれによって動いている。モーセの律法は神の民の中の貧しい者から利息を取ることを禁じているが、それらの国の説教壇はほとんどどこもそれを罪と呼ばない。クルアーンは変わっていない。それが七世紀に禁じたものを、それは今も禁じている。もし道徳が各世代が決めるものなら何でもであるなら、悪とはただ、ここで今、私たちがたまたま嫌うものを意味するにすぎない。
公会議は、高利貸しを行うことは罪ではないとかたくなに主張する者は誰でも、異端者として罰せられるべきであると定める。
“あなたがもし、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。”
“利息を貪る者たちは、シャイターンがとり憑いて躓かせる者のような立ち上がり方しかできない。それは彼らが、「本当に売買だって、利息のようなものだ」と言ったためである。そしてアッラーは売買を合法とされ、利息を禁じられた。自分の主からの訓戒が到来した後に(利息を)やめるのなら、彼には過ぎ去ったこと(へのお赦し)があり、その前途はアッラーに委ねられる。そして再び(その罪を)繰り返すのなら、そのような者たちは業火の住民となる。彼らはそこに、永住するのだ。”
苦しみは神がいないことを示さない
クルアーンは、その異議が見落としている理由を与えている。第一に、この人生は誰が最も善い行いをするかの試しである。その試しは困難を通してだけでなく善を通しても来る。第二に、人々は自由に選ぶことができ、だからこそ非常に多くの苦しみが人々によって人々に与えられるのである。第三に、勘定は死で閉じられない。審判の日に正義の秤が置かれ、芥子粒の重さでさえ何も見落とされない。すべての悪は、何も見落とされない方によって正されるであろう。
“(人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびないお方、赦し深いお方であられる。”
“全ての者は、死を味わうのだ。われらは悪と善という試練で、あなた方を試す。そしてわれらの御許にこそ、あなた方は戻されるのである。”
“本当にわれらは彼を、道へと導いた。感謝する者か、あるいは大層な恩知らずか(となるべく)。”
“われらは復活の日に、公正な秤を設ける。誰一人、僅かたりとも不正を受けることはない。そして、たとえ(現世での行いが)からし種一粒きりの重さであったとしても、われらはそれを(勘定に入れるべく)持って来るのだ。われらだけで、清算者は十分なのである。”
無神論者の反論、そしてその答え
クルアーン 91:7-8 — 太陽章、第7-8節
“また、魂と、それを整え、それに、その放逸さと敬虔さを吹き込んだものにかけて(誓う)。”
引用の目的
道徳的真理に神は必要ない。残酷さが悪であることは、2 + 2 = 4が正しいように、誰かがそうしたかどうかにかかわらず、ただ正しいのである。
応答
2 + 2 = 4のような真理は記述する。それは命じず、それを無視した者を罪ありとはしない。「残酷であってはならない」はその両方をする。それはあなたを縛り、あなたに責任を問う。第二の問題がある。もし盲目の自然が私たちを生き残るためだけに造ったのなら、私たちの善悪の感覚がそもそもそのような真理をたどることを何も保証しない。命令は命じる誰かを必要とする。私たちが信頼できる良心は、それを真理のために造った誰かを必要とする。
結論 — 縛り、人々に責任を問う道徳法則は、立法者を指し示している。それこそクルアーンが言うことである。神はすべての魂にその悪と善を示された。
クルアーン 21:35 — 預言者たち章、第35節
“全ての者は、死を味わうのだ。われらは悪と善という試練で、あなた方を試す。そしてわれらの御許にこそ、あなた方は戻されるのである。”
引用の目的
その論証は本当の悪を必要としない。それはただ信者自身の基準を使って、善い全能の神と苦しみが両方とも存在することはできないと示すだけである。
応答
信者の基準によれば矛盾はない。クルアーンは、この人生は困難と善による試しであると言う。それは人々は自由に選ぶことができると言う。それはすべての悪が審判の日に量られると言う。善い神は、後に完全に清算される理由のために、しばらくの間苦しみを許されることがある。
結論 — 信者自身の言葉によれば、苦しみは神の英知に合っている。それを本当に悪と呼ぶには、無神論者は結局神の基準を必要とする。
さまざまな視点
仏教徒
悪に神は必要ない。悪い行いは貪り、怒り、迷いから来て、それ自身の結果をもたらす。誰でも、他の者が私たちと同じように痛みを恐れることを見ることができるので、私たちは彼らを傷つけるべきではない。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死を恐れる。己が身に引きくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。何が悪であるかを知るにはそれで十分である。
反論
これは、他の者が私たちと同じように感じることを示している。それは、彼らを傷つけることが私たちに得になるときに、なぜ私たちが気遣わなければならないのかを示さない。そしてパーリ語の経典は、「車」がそうであるように、「有情」はただの呼び名にすぎないと言う。条件の集まりがあるのであって、有情は見いだされない。それでその見方によれば、結局、その規則が守るべき害を受ける永続する自己はない。
カルマはそれ自身の道徳法則である。仏陀は意図を行いと呼び、生き物は自分の行いの相続者であるので、悪は神なしに罰せられる。
反論
結果の法則は、行いの後に何が続くかを私たちに告げる。それはなぜその行いが悪いのかを告げない。もし残酷さが、それを行う者に返ってくるからという理由だけで悪いのなら、決して返ってこない残酷さは悪くないであろう。クルアーンは、神はすべての魂に、何がそれにとって悪であり何が善であるかの知識を与えられたと言う。
道徳的真理に神は必要ない
ある無神論の哲学者たちは、道徳的真理は本物であるが神を必要としないと考える。それらは論理の真理のように基本的であり、ただ成り立つ。神がいようといまいと、残酷さは悪である。
道徳的真理は基本的で必然的である。それらは自然の事実からも神からも導かれない。
反論
ウィーレンバーグは、進化からの論証が彼の見方にとって深刻な問題であることを認めている。もし私たちの道徳的信念が私たちの生存を助けるためだけに形づくられたのなら、それらと独立して立つ道徳的真理との一致はどれも運であろう。クルアーンはその一致を説明している。魂を形づくられた方が、それに何が悪であり何が善であるかを示されたのである。
ヒンドゥー教徒:聖典が何が正しいかを決める
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナは、善悪は欲望によって決められないと教える。聖典が、何がなされるべきで何がなされるべきでないかの権威である。
聖典が、何がなされるべきで何がなされるべきでないかの権威である。欲望から行動してそれに逆らう者は、幸福にも最高の目標にも達しない。
反論
イスラームは、人々は啓示から来る基準を必要としており、欲望によって善悪を決めることはできないことに同意する。問いは、どの聖典が神の言葉であり、保たれてきたかである。クルアーンは、神がそれを下され、それを守られると言う。そしてそれは疑う者に、それに似た一章を作り出すよう挑んでいる。
神道:悪とは秩序を破るものである
神道では、罪とは、人を傷つけたり殺したりすることのように、社会の決まりと秩序を破る行いであり、ある種の災いもそれに含まれる。それらは祓いによって清められる。
悪い行いとは共同体の決まりと秩序を破るものであり、祓いがそれを清める。
反論
もし悪がただ共同体の秩序を破るものであるなら、残酷な秩序は残酷さを正しいものにするであろう。自分自身の社会に立ち向かった改革者たちは、その上に立つ正しさに訴えた。クルアーンは、魂はどの社会がそれを教えるよりも前に、それが形づくられたときに、何が悪であり何が善であるかを示されたと言う。
道教徒:善悪の話は道が失われたときに始まった
『道徳経』は、仁義が流行するようになったのは大道がもはや従われなくなったときだけであると教えている。道によって生きれば、人々は命じられた道徳を必要としないであろう。
道が失われたとき、仁と義が現れた。それで善悪の規則は衰えの印であって、その上に築くものではない。
反論
しかし同じ書は、天網は何も漏らさないと言うので、悪はなお報いを受ける。イスラームは、善は健全な本性から流れ出るべきであることに同意する。しかし『道徳経』自身が言うように、本性は失われることがある。そのときそれは自分の外からの基準を必要とする。クルアーンはその両方を与えている。魂は何が悪であり何が善であるかを示された。そして神は正義と善を行うことを命じられる。
儒者:道徳感覚は私たちの内にある
孟子は、仁、義、礼、智は人の本性の一部であると教えた。それらは外から私たちの内に入れられたのではない。この見方によれば、人々は神からの何の言葉もなしに善悪を見分けることができる。
仁義礼智は外から私たちに注ぎ込まれるのではない。私たちはもとからそれを具えている。
反論
イスラームは道徳感覚が生まれつきのものであることに同意する。しかし儒者自身がそれについて意見を異にしている。荀子は、人の本性は悪であり、師と法によってまっすぐにされねばならないと言った。思想家たちが正反対に読む内なる感覚は、その上に立つ基準を必要とする。孟子自身がそれを天に結びつけた。自分の性を知る者は天を知る、と。クルアーンは、魂を形づくりそれにその悪と善を示された方を名指している。
中国の伝統:天の役人が悪い行いを記録する
中国の民間宗教は、悪い行いは見られ記録されると考える。体の中の霊と、かまどの竈神が人々の行いを天の宮廷に報告し、天の宮廷が報い罰する。
霊たちが人々の行いを記録して天に報告するので、悪は罰されずには終わらない。
反論
それなら中国の伝統もまた、悪は人々に対してだけでなく天に対して答えねばならないと考えている。イスラームは行いが記録されることに同意する。二人の天使がすべての言葉を書き留める。しかし裁き主は神ご自身であり、かれには誰もかれに報告する必要がない。どの目もかれを捉えることはできないが、かれはすべてのことを知っておられる。
キリスト教
道徳法則は神によって人の心に記されており、良心がそれを証しする。
パウロは、律法を持たない者たちは、自分の心に記された律法の業を示し、彼らの良心が証しをすると書いている。
反論
認めよう。道徳感覚は本物であり神から来るものであり、教会はまたモーセの律法も持っていた。しかしそれはかつて高利は罪ではないと言う者たちを異端者として罰し、同じ地が今はそれによって動いている。クルアーンの定めは動いていない。
イスラームの視点
善と悪は神が実在するので実在する。かれは善悪の感覚、フィトラをすべての魂の中に置き、それが答える基準を与えられる。預言者(ﷺ)は、すべての子供はその性向の上に生まれると教えた。
何かを悪と呼ぶことは、自然の上に立つ善の基準に訴えることであり、自然そのものはそれを与えることができない。
悪が神を否定するという論証は、それが否定する道徳法則を前提としなければならない。
クルアーンは、魂はそれが形づくられたときにその悪と善の知識を与えられたと述べている。
預言者ムハンマド(ﷺ)は、すべての子供はフィトラの上に生まれると言った。
ヴィエンヌ公会議は、高利は罪ではないと頑なに主張する者は誰でも異端者として罰せられるべきだと布告した。同じ国々が今はそれによって動いている。
各世代によって定められた道徳の基準は、その世代を判断することはできない。
啓示は時代に曲げられない基準を与える。クルアーンは七世紀に高利、つまり利息のために金を貸すことを禁じ、今もそれを禁じている。
この人生は試しであり、すべての悪は審判の日に完全な正義をもって量られる。