短い答え
いましめを守ることです。ある男がイエスに、永遠の命を得るためにどんなよいことをしなければならないかと尋ねました。イエスは答えました。「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。ルカでは、ある律法学者が同じ問いを尋ねました。イエスは彼をモーセの律法へと指し示しました。心をつくして神を愛し、自分のように隣り人を愛せよ、と。それから彼は言いました。「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。どちらの答えでも、彼は罪のための犠牲を信じよとは言いませんでした。彼は、最も小さいいましめを破り、またそうするように人に教える者は誰でも、御国で最も小さい者となると警告しました。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、後に、誰も律法の行いによっては神の前に正しくされないと書きました。ムスリムはイエスが与えた答えに従っています。唯一の神を信じ、かれに従い、かれの慈悲を望め、と。
詳しい説明
二度尋ねられて、イエスは同じ答えを与えた
しばしば富める人と呼ばれる、大きな富を持つ男が、永遠の命を得るためにどんなよいことをすべきかとイエスに尋ねました。イエスは彼にいましめを守るよう告げました。その男がどれをと尋ねたとき、イエスはそれらを挙げました。別の折に、ある律法学者が、永遠の命を受け継ぐために何をしなければならないかと尋ねました。イエスは彼を律法、つまり神がモーセに与えられた命令へと送りました。律法学者は神と隣人を愛せよという命令を引きました。イエスは、彼は正しく答えたと言いました。これを行って生きよ、と。どちらの答えも、罪のための犠牲を信じることに触れていません。
“すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「善き師よ、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜわたしをよい者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。”
“彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母を敬え』。また『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。”
“するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。”
律法は残り、正しさは増し加わらなければならない
イエスは、自分は律法を廃するために来たのではないと言いました。その最も小さいいましめを破り、またそうするように人に教える者は誰でも、御国で最も小さい者となります。人の正しさが律法学者とパリサイ人のそれにまさらなければ、その人は決して入ることはできません。律法学者とは律法を写し教えた人々でした。パリサイ人とはそれを守ることに厳格なユダヤ教の一派でした。ですからその基準は、律法からの自由ではなく、より高い従順なのです。イエスは、犠牲の血が彼らを入れるとは言いませんでした。彼は、彼らの正しさはパリサイ人のそれよりも大きくなければならないと言ったのです。イスラームはその型を保っています。神だけのためになされる礼拝、断食、そして施しの中に示される信仰です。クルアーンは、イエスは律法を確証し、以前に禁じられていたもののいくらかを合法とされたと言っています。神だけがかれの律法を、預言者を通して変えられるのです。
“わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。”
“それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。”
“わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない。”
“また(私は)、トーラーという私以前のもの(の内容)を確証し、あなた方に禁じられたものの一部をあなた方に合法化するために(、あなた方のもとにやって来た)。そして私は、あなた方の主からの御徴を携えて、あなた方のもとに到来したのである。ゆえにアッラーを畏れ、私に従うのだ。”
“(その者たちとは、)彼ら(啓典の民)が、自分たちのもとにあるトーラーと福音の中に記されているのを見出すところの、使徒、文盲の預言者に従う者たち。彼は、彼らに善事を命じて悪事を禁じ、善きものを合法として悪いものを非合法とする。また彼は、彼らの上にのしかかっていた重課と枷を、彼らから取り除いてくれる。彼を信仰し、敬い、援助して、彼と共に下された光に従う者たち、それらの者たちこそは、成功者なのである」。”
父の御旨を行うこと
イエスは、自分を主と呼ぶ者が皆天の国に入るのではないと言いました。彼の父の御旨を行う者だけが入るのです。彼は、各人にその行いに応じて報いると言いました。彼は第一のいましめを神の唯一性として挙げました。そして彼は、永遠の命とは唯一のまことの神と、かれが遣わされた者を知ることであると言いました。
“わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。”
“人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。”
“イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』。」”
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”
キリスト教徒が言うこと
キリスト教徒は、永遠の命は律法を守ることによって得られるのではなく、イエスへの信仰によって受ける賜物であるとしている。彼らはヨハネ3:16とパウロのエペソ人への手紙を引く。多くの者はまた、富める人へのイエスの答えを、誰も律法を十分によく守ることはできないことを彼に示す方法と読んでいる。彼らは弟子たちの問い「では、だれが救われることができるのだろう」を指し示す。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”
“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。”
“弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「では、だれが救われることができるのだろう」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた、「それは人にはできないが、神にはなんでもできない事はない」。”
イエスが与えた答えに反するパウロ
パウロは、誰も律法の行いによっては神の前に正しくされないと書きました。彼は、人はそれらなしに信仰によって正しくされると書きました。イエスは、いましめを守ることが命へと導くと言いました。パウロは、それらを守ることは誰をも神の前に正しくしないと言っています。同じ新約聖書の中で、ヤコブの手紙は逆の言い方をしています。人は行いによって正しくされるのであって、信仰だけによるのではない、と。
“人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもイエス・キリストを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。”
“わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。”
“これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。”
| 問い | ある箇所は言っている | 別の箇所は言っている |
|---|---|---|
| 永遠の命のために私は何をしなければならないか? | イエス。「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(マタイ19:17)。そのうちの最も小さいものを破り、またそうするように人に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる(マタイ5:19)。 | パウロ。「律法の行いによっては、だれひとり義とされることがない」(ガラテヤ人への手紙2:16)。 |
| 人は信仰によって義とされるのか、行いによってか? | パウロ。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ人への手紙3:28)。 | ヤコブ。「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙2:24)。 |
ムスリムはイエスが与えた答えに従います。唯一の神を信じ、かれに従い、かれの慈悲を望め、と。
クルアーンの答えは同じである
クルアーンは、自分の主にまみえることを望む者は誰でも正しい行いをし、かれのほかに誰も崇拝してはならないと言っています。信仰を持ち善を行う者たちを除いて、すべての人は損失の中にあります。預言者(ﷺ)は、アッラー(﷾)がかれの慈悲で覆われない限り、行いだけでは誰も、彼自身でさえ救われないと教えました。それはパウロの教えではありません。イスラームは信仰と行いを一緒に求め、それらを受け入れてくださる神の慈悲を望むのです。預言者(ﷺ)はまた従う者たちに、善を行い続けるよう告げました。ですからクルアーンはイエスが与えた答えを与えています。唯一の神への信仰、かれへの従順、そしてかれの慈悲への望みです。それがイスラームなのです。
“(使徒よ、)言え。「私は、『あなた方の(真に)崇拝すべきは、ただ一つの神』と啓示が下されている、あなた方と同様の一人の人間に過ぎない。それで自分の主との拝謁を望む者は、正しい行いに励み、自分の主の崇拝において、いかなるものも並べてはならない」。”
“時間にかけて(誓う)。本当に人間は、まさしく損失の中にある。信仰し、正しい行いを行い、真理(の固守とアッラーへの服従)を勧め合い、忍耐を勧め合う者たち以外は。”
“そして男性であれ女性であれ、誰であろうと信仰者で正しい行いを行う者、それらの者たちは天国に入る。彼らは、斑点一つほども不正に扱われることはない。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、誰の行いもその人を救いはしないと言った。あなたもそうなのかと問われると、彼は、私もそうだ、アッラーが私を慈悲で包んでくださらない限りは、と言った。そして、善い行いを正しく、誠実に、ほどほどに行うよう彼らに言った。
節ごとに
マタイによる福音書 19:25-26 — 第19章25-26節
“弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「では、だれが救われることができるのだろう」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた、「それは人にはできないが、神にはなんでもできない事はない」。”
引用の目的
イエスは、富める人ができないことを示すためだけに、いましめを守るよう告げた。弟子たちが誰が救われることができるのかと尋ねたとき、イエスはそれは人にはできないと言い、恵みを指し示した。
応答
弟子たちの問いは、富める人が御国に入ることがどれほど難しいかについてのイエスの言葉に続いています。それはいましめを守れという彼の命令に続いているのではありません。彼の答えは、神にはなんでもできない事はないというものです。彼は自分が与えた答えを決して取り下げませんでした。ルカの律法学者がいましめを唱えたとき、イエスは言いました。「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
結論 — 本文の何も、イエスの答えを罠として示してはいません。彼は本気でそれを言い、それを二度与えたのです。
マタイによる福音書 19:20-21 — 第19章20-21節
“この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。”
引用の目的
イエスの本当の答えは「わたしに従ってきなさい」であり、それは彼への信仰を意味する。
応答
イエスはまず「いましめを守りなさい」と言い、決してそれを取り消しませんでした。「わたしに従ってきなさい」は完全になる道として来たのであり、それは行いを伴って来ました。持ち物を売り、貧しい人々に施せ、と。預言者に従うとは彼が教えることを行うことを意味し、彼はいましめを教えたのです。
結論 — 「わたしに従ってきなさい」はいましめに付け加えるものです。それはそれらを犠牲への信仰に置き換えはしません。
ガラテヤ人への手紙 2:16 — 第2章16節
“人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもイエス・キリストを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。”
引用の目的
誰も律法の行いによっては神の前に正しくされない。ただキリストへの信仰によってだけである。
応答
それはパウロの言葉であって、イエスの言葉ではありません。イエスは、最も小さいいましめも守られ教えられなければならないと言いました。そしてヤコブの手紙は、人は行いによって正しくされるのであって、信仰だけによるのではないと言っています。
結論 — 新約聖書自身の手紙はこのことで食い違っており、イエスの答えはいましめを守ることの側に立っています。
ヨハネによる福音書 3:16 — 第3章16節
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”
引用の目的
御子を信じる者は滅びることなく永遠の命を得る。救うのは行いではなく信仰である。
応答
同じ福音書の中でイエスは、永遠の命が何であるかを言っています。唯一のまことの神と、かれが遣わされた者としてのイエスを知ることです。それは唯一の神とかれの使徒への信仰です。そしてイエスは、父の御旨を行わずに自分を主と呼ぶことは誰をも救わないと警告しました。
結論 — ヨハネ自体が永遠の命を、唯一のまことの神と、かれが遣わされた者を知ることと定義しています。そしてイエスは、父の御旨を行わずに自分を主と呼ぶことは誰をも救わないと言いました。
さまざまな視点
主流のキリスト教
永遠の命は、彼らの罪のために死んだイエスを信じる者たちへの神の賜物である。誰も律法を守ることによってそれを得ることはできない。富める人へのイエスの答えは、彼が自分を救うことはできないことを彼に示したのだ。
ヨハネ3:16は、御子を信じる者に永遠の命を約束している。
反論
その節は信じる者たちに命を約束しています。けれども同じ福音書の中でイエスは、永遠の命とは唯一のまことの神と、かれが遣わされた者を知ることであると言っています。そして彼は、父の御旨を行わずに自分を主と呼ぶことは誰をも救わないと言いました。
パウロは、人々は行いによってではなく、信仰を通して恵みによって救われると教えている。
反論
それはパウロの言葉であって、イエスの言葉ではありません。イエスは、最も小さいいましめも守られ教えられなければならないと言いました。そしてヤコブの手紙は、人は行いによって正しくされるのであって、信仰だけによるのではないと言っています。
イエスは富める人にいましめを守るよう告げた。それは、誰も律法を完全に守ることはできないことを彼に示すためのものだった。
反論
弟子たちの問いは、いましめを守れという彼の命令にではなく、富める人が入ることがどれほど難しいかについてのイエスの言葉に続いています。イエスは決して自分の答えを取り下げず、ルカの律法学者にも同じ答えを与えました。
イスラームの視点
イエスは自らその問いに答えました。いましめを守り、神と隣人を愛し、父の御旨を行え、と。それがイスラームの道です。唯一の神への信仰、正しい行い、そしてかれの慈悲への望みです。律法はもはや救わないという教えは、イエスからではなく、パウロから来ているのです。
永遠の命のために何をすべきかと尋ねられて、イエスはいましめを守れと言いました。
ある律法学者がイエスに同じ問いを尋ねました。イエスは神と隣人を愛せよという律法の命令を指し示し、これを行って生きよと言いました。
イエスは、最も小さいいましめを破り、またそうするように人に教えることは、人を御国で最も小さい者にすると言いました。
イエスは、御国に入るには律法学者とパリサイ人のそれにまさる正しさが必要であると言いました。
永遠の命についてのどちらの答えでも、イエスは罪のために死ぬことにも、犠牲への信仰にも触れていません。
誰も律法の行いによっては正しくされないというパウロの教えは、イエスが与えた答えから離れる方を指しています。ヤコブは逆の言い方をしています。
クルアーンは、救いは神の慈悲によって、唯一の神への信仰と正しい行いを通して来ると教えています。