短い答え
一度もない。四つの福音書のすべての節を数えたところ、95の節でイエスは神を自分より上に置いており、自分は神であると言う節は一つもない。また、自分を拝むように人に求めることも決してない。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの欽定訳を用い、イエス自身の言葉だけを数えた。神が自分をつかわしたと言うのが40回。神を自分の神、あるいは拝むべき唯一の神と呼ぶのが14回。自分の言葉も意志も力も神から来ると言うのが36回。自分を人、または預言者と呼ぶのが5回である。キリスト教徒はほかに約30の節を挙げる。そのどれでも、彼は自分が神であるとは言っていない。そのうち12はヨハネにあり、ヨハネは最後に書かれた福音書である。いくつかの節は自ら答えを出している。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」。つまり、神をイエスより上に置く節が95あり、彼が自分は神であると言う節は一つもない。
詳しい説明
どのように数えたか
欽定訳で四つの福音書のすべての節を読んだ。イエス自身が語っている節だけを数えた。どの節も一回だけ数える。二つの福音書が同じ言葉を伝えているときは、それぞれの福音書の節を数える。たとえ話や、他の人が彼について言うことは数えていない。結果は、神をイエスより上に置く節が95、彼が自分は神であると言う節はゼロである。どの節もこのページの下に挙げてあるので、誰でも確かめることができる。
“ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことは、アブラハムはしなかった。”
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”
- 95イエスが神を自分より上に置く節
- 0イエスが自分は神であると言う節
- 0イエスが自分を拝めと言う節
「わたしをつかわされたかた」:40回
40の節で、イエスは神が自分をつかわしたと言う。四つの福音書のすべてでそう言っている。「わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」つかわす者は、つかわされる者ではない。イエス自身がその原則を述べている。「つかわされた者はつかわした者にまさるものではない」。
“あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。”
“するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。”
“わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。”
“よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。”
「わたしの神またあなたがたの神」:14回
14の節で、イエスは神を自分の神、あるいは拝むべき唯一の神と呼ぶ。サタンには言う。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」。第一のいましめを問われると、こう答える。「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」。よい者と呼ばれることさえ拒む。「神ひとりのほかによい者はいない。」十字架の上では叫ぶ。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。よみがえった後には言う。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」。
“するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。”
“イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』。」”
“イエスは言われた、「なぜわたしをよい者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。」”
“そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”
“イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。”
「わたしは、自分からは何事もすることができない」:36回
36の節で、イエスは自分の持つものは神から来ると言う。教えについて。「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。」言葉について。「わたしは自分から語ったのではなく」。力について。「わたしは、自分からは何事もすることができない」。意志について。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」。知識について。終わりの日のことは「子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」そしてはっきりと言う。「父がわたしより大きいかたであるからである。」
“そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。」”
“わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。”
“わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままに裁くのである。そして、わたしのこの裁きは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。”
“そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」。”
“その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。”
“『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。”
「人」「預言者」:5回
5つの節で、イエスは自分を人、あるいは預言者と呼ぶ。彼は自分を「神から聞いた真理をあなたがたに語ってきた」人と呼ぶ(欽定訳では「人」という言葉がはっきり出てくる)。郷里の人々に退けられたとき、彼は言った。「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。ルカでは言う。「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである。」
“ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことは、アブラハムはしなかった。”
“こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。”
“しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである。”
「わたしは神である」と「わたしを拝め」:0回
どの福音書でも、イエスは自分が神であるとは言っていない。「わたしを拝む」という言葉は福音書に四回出てくる。二回はサタンが言うもので、イエスに自分を拝ませようとしている。二回はイエスがイザヤ書の神の言葉を引用したもので、口先だけで神を敬う人々についての言葉である。イエスは自分について「わたしを拝め」と言ったことは一度もない。
“言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。”
“人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。”
キリスト教徒が挙げる30の節
キリスト教徒は、はっきり言わなくても彼が神であることを示すという節を挙げる。「アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」。「わたしと父とは一つである。」「わたしを見た者は、父を見たのである。」「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。彼は罪をゆるし、自分を「安息日にもまた主」と呼ぶ。彼らが最もよく挙げる30の節を集めた。そのどれでも、イエスは自分が神であるとは言っていない。一つ一つに下で答える。答えは同じ節か次の節にあることが多い。
“イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」。”
“わたしと父とは一つである。”
“イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。」”
“そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。”
“それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである。”
節が自ら答えている
同じ福音書が一つ一つに答えている。「わたしは、いる」と訳されたギリシア語の言葉は、生まれつきの盲人も自分について言っている。「わたしがそれだ」。「一つ」とは、イエスが弟子たちのために祈り求めることである。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるため」。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」のすぐ後には、「自分からは何事もすることができない」と続く。「わたしを見た者は、父を見たのである」の後には、「自分から話しているのではない」と続く。彼は、その権威を与えられた者として罪をゆるす。群衆は「こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」。「わたしもその中にいるのである」の前にはもう一つの節がある。それは言う。「天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」。権威についての彼の最大の言葉も、それがどこから来たかを語っている。「いっさいの権威を授けられた」。裁判での彼の「わたしがそれである」は、彼がキリスト、つまりメシアであるかという問いへの答えであって、神であるかという問いへの答えではない。
“ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。”
“わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。”
“そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。”
“さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」”
“イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。」”
“わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。”
“群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。”
“ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。”
“また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。”
“イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」”
“しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。”
“イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。”
| 言葉 | 福音書自身が言うこと |
|---|---|
| 「アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」(ヨハネ8:58) | 生まれつきの盲人も同じギリシア語で言う。「わたしがそれだ」(ヨハネ9:9)。 |
| 「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30) | 弟子たちのために祈る。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるため」(ヨハネ17:22)。 |
| 「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9) | 次の節。「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない」。 |
| 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17) | 二節あと。「自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)。 |
| 罪をゆるす(マルコ2:5-10) | 群衆は「こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」(マタイ9:8)。 |
| 「いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18) | 授けられた。権威は別の方から来ている。 |
| 「わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20) | 前の節。「天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」。 |
| 裁判での「わたしがそれである」(マルコ14:62) | 問いはこうだった。「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」(マルコ14:61)。 |
節はどこにあるか
ほとんどの学者は、マルコを最初の福音書と考えている。マルコでは、神をイエスより上に置く節が9、彼が神である証拠として挙げられる節が4ある。その4つの中に、「アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」も、「わたしと父とは一つである」も、「わたしを見た者は、父を見たのである」もない。これらの言葉はヨハネにしかない。ほとんどの学者はヨハネを最後とし、90年から95年ごろとしている。バート・アーマンは初期教会の歴史家である。彼は、マタイ、マルコ、ルカでイエスが自分を神と呼ぶことは一度もないと指摘している。それでも、ヨハネにさえ、神をイエスより上に置く節が64ある。
“イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」。”
“わたしと父とは一つである。”
“イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。」”
マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、イエスは一度も自分を神と呼んでおらず、キリスト教徒が神であるという主張として読む言葉は、四福音書のうち最後に書かれたヨハネによる福音書にしか現れないと論じる。
標準的な教科書。パウロの最初期の手紙を西暦50年頃、マルコを65~70年頃、マタイとルカを80~85年頃、ヨハネを90~95年頃とし、イエスはアラム語を話したが、福音書は自らの名を記さない著者たちによってギリシア語で書かれたことを指摘する。また、パウロはイエスの生前にイエスを知らず、十字架刑の後になって初めて信仰に入ったとも言う。
マルコは65〜70年ごろ、マタイとルカは80〜85年ごろ、ヨハネは90〜95年ごろとされる。
| イエスが言うこと | 節 |
|---|---|
| 神がわたしをつかわした: 40 | マタイ10:40、15:24;マルコ9:37;ルカ4:18、4:43、9:48、10:16;ヨハネ4:34、5:24、5:36、5:37、5:38、6:29、6:39、6:40、6:44、6:57、7:18、7:28、7:29、7:33、8:16、8:18、8:26、8:29、8:42、9:4、10:36、11:42、12:44、12:45、13:20、15:21、16:5、17:8、17:18、17:21、17:23、17:25、20:21 |
| 父は「わたしの神」、拝むべき唯一の方: 14 | マタイ4:10、19:17、22:37、27:46;マルコ10:18、12:29、12:30、15:34;ルカ4:8、18:19;ヨハネ4:22、8:54、17:3、20:17 |
| わたしの教え、意志、力は神から来る: 36 | マタイ12:28、20:23、24:36、26:39、26:42;マルコ10:40、13:32、14:36;ルカ11:20、22:42;ヨハネ5:19、5:22、5:26、5:27、5:30、6:38、7:16、7:17、8:28、8:50、10:25、10:29、10:32、12:49、14:10、14:24、14:28、14:31、15:10、15:15、17:2、17:4、17:7、17:22、17:24、18:11 |
| わたしは人、預言者である: 5 | マタイ13:57;マルコ6:4;ルカ4:24、13:33;ヨハネ8:40 |
| キリスト教徒が挙げる節: 30 | マタイ9:2、9:6、11:27、12:8、18:20、26:64、28:18、28:19、28:20;マルコ2:5、2:10、2:28、14:62;ルカ5:20、5:24、6:5、7:48、22:70;ヨハネ5:17、5:23、8:24、8:58、10:30、10:38、11:25、13:19、14:6、14:9、17:5、18:5 |
クルアーンの中でイエスが言うこと
クルアーンは、この数えた結果と同じ答えを示している。イーサーは、自分と母親を神とせよと人々に言ったのかと問われる、と伝えている。彼は答える。「私は、自分に権利がないようなことを言うはずがありません」。彼は人々にこう言っただけだと言う。「我が主であり、あなた方の主であられるアッラーを崇拝せよ」。揺りかごの中での最初の言葉はこうだった。「本当に私は、アッラーの僕です」。イスラームはキリスト教徒に、福音書とクルアーンが伝えるとおりに、イーサーの言葉をそのまま受け取るよう求める。
“アッラーが(復活の日、こう)仰せられる時のこと(を、思い起こさせよ)。「マルヤムの子イーサーよ、一体あなたは人々に『アッラーとは別に、私と私の母親も二つの神とせよ』などと言ったのか?」彼は申し上げる。「あなたに称えあれ。私は、自分に権利がないようなことを言うはずがありません。もし、そう言ったとしたら、あなたはそのことについて既にご存知です。あなたは私自身の内にあるものをご存知ですが、私はあなたご自身の内にあるものについて、存知じ上げないのですから。あなたこそは、不可視の世界を熟知されるお方であられます。”
“私は彼らに、あなたが命じられたこと、つまり我が主であり、あなた方の主であられるアッラーを崇拝せよ、ということしか言っておりません。また私は、彼らの間に留まっている限り、彼らに対しての証人でした。そして、あなたが私をお召しになってからは、あなたこそが彼らへの監視者だったのです。あなたは、全てのことの証人であられます。”
“彼(イーサー)は言った。「本当に私は、アッラーの僕です。かれは私に、啓典を授けて下さり、私を預言者とされたのです。”
さまざまな視点
主流のキリスト教
イエスは「わたしは神である」とその言葉どおりに言う必要はなかった。キリスト教徒は、彼の言葉と行いがそれを示しており、神を彼より上に置く節は彼の人間性について語っているのだと言う。
ヨハネ8:58でイエスは「アブラハムの生れる前から、わたしは、いるのである」と言い、出エジプト記3:14の神の名を用いている。
反論
生まれつきの盲人も自分について同じギリシア語の言葉を言っている。「わたしがそれだ」。同じ章でイエスはこう付け加える。「わたしは自分からは何もせず」。自分からは何もしない者は、神ではない。
イエスは罪をゆるすが、それができるのは神だけである。
反論
イエスは、人の子は「地上で罪をゆるす権威を持っている」と言う。マタイによれば、群衆は「こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」。与えられた権威は、神ご自身の権威ではない。
神をイエスより上に置く節は、彼の人間性についてだけ語っている。
反論
イエスは、自分に二つの本性があるとは一度も言っていない。彼は一人の人格として語り、その人格がよみがえった後でも父を「わたしの神」と呼んでいる。95の節で彼は神を自分より上に置き、自分が神であると言う節は一つもない。
イスラームの視点
イーサーは神につかわされた使徒であった。福音書の中の自分自身の言葉で、彼は何度も神を自分より上に置き、自分が神であるとは一度も言っていない。クルアーンも同じことを伝えている。
イエスは40の節で、神が自分をつかわしたと言っている。
イエスは父を「わたしの神」と呼び、「唯一の、まことの神」と呼んでいる。
イエスは、自分からは何事もすることができず、父は自分より大きいと言っている。
どの福音書でも、イエスは自分について「わたしは神である」とも「わたしを拝め」とも言っていない。
クルアーンでイーサーは、人々に、自分の主であり人々の主であるアッラー(﷾)だけを崇拝せよと言っただけだと述べている。