短い答え
はい。ヨハネによる復活の朝の記述の中で、イエスは弟子たちに告げた。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」。黙示録(聖書の最後の書)の中で、彼は天から語り、一つの節の中で「わたしの神」と四度言う。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、イエスが地上を去ってから何年も後に書いた。彼は父を「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」と呼んでいる。クルアーンはイエスに同じ言葉を与えている。「我が主であり、あなた方の主であるアッラー」。それで新約聖書とクルアーンは、イエスには神がいるという点で一致している。イスラームは、神がいる者は神ではないと付け加える。後の信条(四世紀から教会会議によって合意された信仰の声明)は離れて立っている。それらはイエス自身を神と呼んでいる。イスラームの答えは、イエスが崇拝した唯一の神を崇拝することである。
詳しい説明
「わたしの神またあなたがたの神」
ヨハネによる復活の朝の記述の中で、イエスは弟子たちに自分がどこへ行くのかについての伝言を送る。彼は自分自身のためにも彼らのためにも同じ神を名指している。それより前、礼拝についてサマリヤの女に語りながら、彼は自分を礼拝する者たちの中に数えた。「わたしたちは知っているかたを礼拝している」。第一の戒めを尋ねられて、彼はイスラエルの信条で答えた。わたしたちの神である主は、ただひとりの主である。
“イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。”
“あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。”
“イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』。」”
キリスト教徒が「わたしの神」をどう読むか
キリスト教徒はこの節を異なって読む。彼らは、イエスには神性と人性の二つの本性があると教える。彼らは「わたしの神」を、イエスが自分の人性において語っているものと読む。彼らはまた、彼が「わたしたちの父」ではなく「わたしの父またあなたがたの父」と言っていることに注目する。彼らは、これは彼の子たる身分が弟子たちのものとは異なることを示していると言う。
“イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。”
天からも、なお「わたしの神」
彼が天に上った後も同じことが真実である。ヨハネの黙示録は、昇天の後に語るイエスを示している。一つの節の中で彼は「わたしの神」と四度言う。その書は、神がこの啓示をイエスに与えたと言うことから始まっている。天で高められても、彼にはなお彼に与える神がいる。
“勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。”
“イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。”
イエスが地上を去った後のパウロ
一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、イエスが去ってから何年も後に書いた。彼はなお父を、わたしたちの主イエス・キリストの神であり父である方と呼んでいる。エペソ人への手紙も同じことを言っている。パウロは、キリストのかしらは神であり、終わりには御子自身も神に従うと言う。彼は決して「地上にいる間」と付け加えない。
“どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、”
“こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。”
“しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。”
“そして万物が彼に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべてにおいてすべてとなられるためである。”
彼は自分の神に祈った
福音書はイエスが神に祈るのを、一度は夜通し祈るのを示している。ゲツセマネで彼はひれ伏し、自分の意志ではなく神の意志がなされるよう求めた。祈りの中で彼は父を「唯一の、まことの神」と呼んだ。神は祈らず、神には呼び求める神がいない。
“このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。”
“そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」。”
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”
彼を「神」と呼ぶ節でさえ
キリスト教徒はヘブル人への手紙1:8を挙げる。そこでは御子が「神よ」と呼びかけられている。次の節は彼に「神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言う。ヘブル人への手紙は、イスラエルの王のための婚礼の歌である詩篇45をほとんど一語一語引用している。その称号を与えられた者には、彼の上に神がいる。
“しかし、御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」。”
“神よ、あなたの位は世々かぎりなく続き、あなたの国の笏は公平の笏である。あなたは義を愛し、悪を憎む。このゆえに神、あなたの神は喜びの油をあなたの仲間にまさってあなたに注がれた。”
| どこで | いつ | 言われていること |
|---|---|---|
| ヨハネ20:17 | 復活の後 | 「わたしの神またあなたがたの神」 |
| ヨハネの黙示録3:12 | 天から | 一つの節の中で四度「わたしの神」 |
| エペソ人への手紙1:17 | 彼が地上を去ってから何年も後 | 「わたしたちの主イエス・キリストの神」 |
| コリント人への第一の手紙15:28 | 終わりに | 子自身も神に従う |
| ヘブル人への手紙1:9 | 彼を「神」と呼ぶ節 | 「神、あなたの神は…あなたに油を注がれた」 |
| クルアーン | 彼が自分の民に語った言葉 | アッラー(﷾)は彼の主であり彼らの主である |
クルアーンの中の同じ言葉
クルアーンは、イエスが「我が主であり、あなた方の主」と何度も繰り返し言ったことを記録している。それは、彼が審判の日に神の前でそれを繰り返すと言う。彼は人々に、ただアッラー(﷾)、彼の主であり彼らの主を崇拝するよう告げた。ヨハネの「わたしの神またあなたがたの神」とクルアーンの「我が主であり、あなた方の主」は同じ教えである。イスラームは人々を、イエスが教えたのと同じ崇拝へと呼んでいる。
“「本当にアッラー、かれは、マルヤムの子マスィーフのことである」と言った者は、確かに不信仰に陥ったのだ。マスィーフは、(こう)言ったというのに。「イスラーイールの子らよ、我が主であり、あなた方の主であるアッラーを崇拝せよ。本当に、アッラーに対してシルクを犯す者は誰であろうと、アッラーが彼に天国を禁じられるのだ。そして、その住処は(地獄の)業火である。不正者たちには、いかなる援助者もない」。”
“(イーサーは民に言った。)「本当にアッラーは、我が主であり、あなた方の主。ならば、かれを崇拝しなさい。これが、まっすぐな道なのですから」。”
“本当にアッラーは、我が主であり、あなた方の主。ならば、かれ(のみ)を崇拝せよ。これが、まっすぐな道なのだから』」。”
“私は彼らに、あなたが命じられたこと、つまり我が主であり、あなた方の主であられるアッラーを崇拝せよ、ということしか言っておりません。また私は、彼らの間に留まっている限り、彼らに対しての証人でした。そして、あなたが私をお召しになってからは、あなたこそが彼らへの監視者だったのです。あなたは、全てのことの証人であられます。”
節ごとに
ヨハネによる福音書 20:17 — 第20章17節
“イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。”
引用の目的
キリスト教徒は、イエスが「わたしたちの父」ではなく「わたしの父またあなたがたの父」と言っていることに注目する。彼らは、彼の子たる身分は本性によるものであり、弟子たちのものは恵み(神の無償の賜物)によるものであると言う。彼らは、「わたしの神」は彼の人性において語られていると付け加える。
応答
その節は確かに「わたしの」を「あなたがたの」の傍らに置いているが、両者に同じ神を名指している。位の違いが何であれ、イエスは自分を兄弟たちと共に、神がいる者たちの中に置いている。その節の中の何も、彼が二つの本性のうちの一つだけにおいて語っていることを示唆していない。
結論 — 平明な言葉によれば、イエスと弟子たちには一人の神がおり、イエスはその神ではない。
ヨハネの黙示録 3:12 — 第3章12節
“勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。”
引用の目的
キリスト教徒は、復活したイエスは自分の人性を永遠に保っているので、人としてなお「わたしの神」と言うことができるとしている。
応答
聖書は決して、イエスが一つの本性において神を持ち、もう一つの本性において神であるとは言っていない。同じ話し手が一つの文の中で「わたし」と「わたしの神」と言っている。黙示録はまた、神がこの啓示をイエスに与えたと言うことから始まっている。与える者は神である。受け取る者には神がいる。
結論 — 地上においてと同じく天においても、聖書のイエスには彼の上に神がいる。
ヘブル人への手紙 1:8-9 — 第1章8-9節
“しかし、御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」。”
引用の目的
キリスト教徒はヘブル人への手紙1:8を、父が御子を「神」と呼んでいるものと読む。
応答
次の節は同じ人物に「神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言う。その言葉はイスラエルの人間の王に向けられた詩篇45から来ている。両方の箇所で、「神」と呼ばれた者には彼に油を注ぐ神がいる。
結論 — 8節の称号は敬意の称号である。9節はそれを持つ者に神がいることを示している。
さまざまな視点
主流のキリスト教
イエスは完全に神であり完全に人である。人として彼は祈り、従い、「わたしの神」と言う。神として彼は父と等しい。両方が一人のキリストについて真実である。
イエスが「わたしの神」と言うとき、彼は自分の人性において語っている。キリスト教徒は彼が復活の後もそれを保っていると言う。
反論
認めよう。これはキリスト教徒が教えることである。しかし聖書は決して、イエスが一つの本性において神を持ち、もう一つの本性において神であるとは言っていない。黙示録では、与える者は神であり、受け取る者には神がいる。
イエスは「わたしたちの父」ではなく「わたしの父またあなたがたの父」と言う。彼の子たる身分は唯一のものだからである。
反論
認めよう。イエスは確かに「わたしたちの父」ではなく「わたしの父またあなたがたの父」と言っている。しかし同じ息で彼は「わたしの神またあなたがたの神」、両者にとって同じ神と言っている。位の違いが何であれ、彼は自分を神がいる者たちの中に置いている。
イスラームの視点
イエスは神を崇拝し、ほかの者たちに同じことをするよう告げた神の僕であり使徒であった。彼の神は私たちの神であり、神がいる者は神ではない。
ヨハネによる復活の朝の記述の中で、イエスは父を自分の神であり弟子たちの神であると名指している。
黙示録で天から語りながら、イエスは一つの節の中で「わたしの神」と四度言う。
イエスが地上を去った後に書かれたパウロの手紙は、父をわたしたちの主イエス・キリストの神と呼んでいる。
どの節も、イエスに神がいることを彼の地上の時に限っていない。パウロは、御子は終わりに神に従うと言う。
ヘブル人への手紙1:9は、8節で「神」と呼ばれた者について、神、彼の神が彼に油を注いだと言っている。
クルアーンは、イエスが人々にアッラー(﷾)、彼の主であり彼らの主を崇拝するよう呼びかけたと教えている。