短い答え
いいえ。父なしの誕生は奇跡であり、奇跡は人を神にしない。アダムには父も母もなかった。イエスについての新約聖書の書であるルカによる福音書は、アダムを「神の子」と呼んでいる。イブには母がなかった。もし父なしの誕生がイエスを神にしたのなら、アダムがより良い主張を持つであろう。けれどもどのキリスト教徒もアダムが神であるとは言わない。キリスト教の教師たち自身が、イエスの神性を誕生だけに基づかせていない。聖書はまたイスラエルを神の子と呼んでいるので、その称号は「神」を意味しない。クルアーンが答えを与えている。イエスはアダムのようである。神は「あれ」と言うことによって彼を造られ、彼は存在した。ムスリムは心から処女降誕を信じている。イスラームにとって、それはイエスが神であることではなく、神の力を示している。
詳しい説明
ムスリムは処女降誕を信じている
クルアーンは3章と19章で処女降誕の物語を語っている。マリヤは、誰も自分に触れたことがないのにどうして息子を持つことができるのかと尋ねる。彼女は、神は「あれ」と言うことによって望まれるものを創られると告げられる。クルアーンはマリヤを全世界の女性の上に選ばれた者として敬っている。それは彼女の息子をしるしであり慈悲であると呼んでいる。
“天使たちが、(こう)言った時のこと(を思い起こさせるがよい)。「マルヤムよ、本当にアッラーは、ご自身からの御言葉についての吉報を、あなたにお伝えになる。その名はマスィーフ、マルヤムの子イーサー。現世でも来世でも栄誉ある者であり、(アッラーの御許ではその)側近の一人。”
“彼女(マルヤム)は、(驚いて)言った。「我が主よ、どうして私に子供が出来ましょうか?今まで誰一人、私に触れたことなどありませんのに」。彼(天使)は言った。「そのように、アッラーはお望みのものをお創りになる。かれが一事をお取り決めにな(り、お望みにな)れば、それに『あれ』と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
“彼女は言った。「私に、男の子が出来るなどということがありましょうか?私には人一人触れたことはなく、私はふしだらでもありませんでしたのに」。”
“彼は言った。「その通り(ですが)、あなたの主は、(こう)仰せられました。『それはわれにとって、容易いこと。そして(それは)、彼(その男の子)を人々への御徴とし、われらの御許からの慈悲とするためなのだ。(それは)既に定められていたことなのである』」。”
“天使たちが、(こう)言った時のこと(を思い起こさせよ)。「マルヤムよ、本当にアッラーはあなたをお選びになり、清められた。そして全世界の女性の中から、あなたを選りすぐられたのである。”
キリスト教徒が言うこと
ルカ1章で、天使がマリヤに、聖霊が彼女に臨むと告げる。このために彼女の子は神の子と呼ばれるであろう。キリスト教徒は、永遠の御子がマリヤの胎の中で肉を取ったと教える。多くのキリスト教徒は父なしの誕生を、イエスがほかの誰もそうでない仕方で神の子であるしるしと読む。
“そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る聖なる者は、神の子と、となえられるでしょう。」”
アダムには父も母もなかった
聖書の最初の書である創世記は、神はアダムを土のちりで造り、彼に命を吹き入れられたと言う。それでアダムには父も母もなかった。イブには母がなかった。神は彼女をアダムから取ったあばら骨から造られたからである。イエスには少なくとも母がいた。二つの福音書が彼に系図を与えており、ルカの系図はアダムを「神の子」と呼ぶことで終わっている。けれどもどのキリスト教徒もアダムやイブが神であったとは言わない。
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた魂となった。”
“そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。”
“エノス、セツ、アダムにいたる。アダムは神の子である。”
聖書自身の言葉における「神の子」
聖書はほかの者たちを、彼らを神的にすることなく神の子と呼んでいる。神はイスラエルの国民を「わたしの子、わたしの長子」と呼んでおられる。ルカの中でイエスは、死人の中から蘇らされる者たちは「神の子」であると言っている。ルカがアダムを神の子と呼ぶのは、神が彼を直接造られたからである。それでその称号はかれの本性にあずかることではなく、神への近さを示している。
“あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる、イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」”
“彼らは天使に等しいものであるから、もう死ぬことはあり得ないからである。また彼らは復活にあずかるゆえに、神の子でもある。”
“エノス、セツ、アダムにいたる。アダムは神の子である。”
一文でのクルアーンの答え
クルアーンは、アダムを指し示すことによって父なしの誕生の論に答えている。神の御前におけるイエスのたとえは、神が「あれ」という言葉によって塵から創られたアダムのたとえである。クルアーンは、神が子をもうけることはふさわしくないと付け加えている。かれが一事を決められるとき、かれはただ「あれ」と言われるだけである。
“本当に、アッラーの御許におけるイーサーの状況は、まるでアーダムのようなもの。かれ(アッラー)が土から彼(アーダム)を創造され、それに「(人間と)なれ」と仰せられるだけで、それは(そう)なるのである。”
“アッラーが子供をもうけ給うことなど、ありえない。かれに称えあれ。かれが一事をお取り決めにな(り、お望みにな)れば、それに『あれ』と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
「かれの御言葉」はかれの命令を意味する
クルアーンはイエスを神からの御言葉と呼んでいる。ムスリムの学者たちは3:47と3:59の節から、この言葉は神の命令「あれ」であると説明している。その命令がイエスを父なしに存在させたのである。彼を神の御言葉と呼ぶ同じ節が、彼をただアッラー(﷾)の使徒にすぎないとも呼んでいる。それは、一つの神が三つの位格であるというキリスト教の教え、「三位(一体の神)」と言うことを禁じている。
“啓典の民(であるキリスト教徒)よ、あなた方の宗教において(正しい信仰に反して)行き過ぎてはならないし、アッラーについて真理以外を語ってはならない。本当にマスィーフ、マルヤムの子イーサーは、アッラーの使徒であり、かれ(アッラー)がマルヤムに(ジブリールを介して)投げかけられた、かれの御言葉であり、かれによる魂である。ならば、アッラーとその使徒たちを信じよ。そして、「三位(一体の神)」などと言ってはならない。(そんなことを言うのは、)やめるのだ、それがあなた方にとってより善いこと。アッラーこそは唯一の崇拝すべき存在なのだから。——子供があるなどということから(無縁な)かれに、称えあれ——。諸天にあるものと大地にあるものは、かれにこそ属する。そして、全てを請け負われるお方は、アッラーだけで十分なのである。”
“彼女(マルヤム)は、(驚いて)言った。「我が主よ、どうして私に子供が出来ましょうか?今まで誰一人、私に触れたことなどありませんのに」。彼(天使)は言った。「そのように、アッラーはお望みのものをお創りになる。かれが一事をお取り決めにな(り、お望みにな)れば、それに『あれ』と仰せられるだけで、それは存在するのである。”
節ごとに
ルカによる福音書 1:34-35 — 第1章34-35節
“そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る聖なる者は、神の子と、となえられるでしょう。」”
引用の目的
キリスト教徒は天使の言葉を、処女による受胎をイエスが神的な神の子であることに結びつけるものと読む。
応答
ルカ自身が二章後に、神が彼を直接造られたので、アダムを「神の子」と呼んでいる。ルカ自身の用法によれば、神の力によって存在させられた子は神の子と呼ばれる。それは敬意の称号であって、神であるという主張ではない。
結論 — 同じ福音書がアダムに同じ称号を用いているので、その誕生はイエスが神であることを示さない。
クルアーン 4:171 — 婦人章、第171節
“啓典の民(であるキリスト教徒)よ、あなた方の宗教において(正しい信仰に反して)行き過ぎてはならないし、アッラーについて真理以外を語ってはならない。本当にマスィーフ、マルヤムの子イーサーは、アッラーの使徒であり、かれ(アッラー)がマルヤムに(ジブリールを介して)投げかけられた、かれの御言葉であり、かれによる魂である。ならば、アッラーとその使徒たちを信じよ。そして、「三位(一体の神)」などと言ってはならない。(そんなことを言うのは、)やめるのだ、それがあなた方にとってより善いこと。アッラーこそは唯一の崇拝すべき存在なのだから。——子供があるなどということから(無縁な)かれに、称えあれ——。諸天にあるものと大地にあるものは、かれにこそ属する。そして、全てを請け負われるお方は、アッラーだけで十分なのである。”
引用の目的
あるキリスト教徒は、クルアーン自身がイエスを神の「御言葉」、そして「かれによる魂」と呼んでおり、それで彼の神性を指し示していると論じる。
応答
同じ節がイエスをただアッラー(﷾)の使徒にすぎないと呼んでいる。それは「三位(一体の神)」と言うことを禁じ、神は子を持つことからはるかに高くあられると言っている。ほかの二つの節がイエスがどのように存在するようになったかを示している。神の命令「あれ」によってである。それがムスリムの学者たちが御言葉の意味とするものである。そして「かれによる魂」は誰をも神的にしない。クルアーンは、神はアダムにもかれの霊を吹き込まれたと言っている。
結論 — 全体として読めば、その節はその論がそれから引き出そうとするものを否定している。
さまざまな視点
主流のキリスト教
キリスト教徒は、処女降誕は永遠の神の子が人となった仕方であると信じている。彼らは彼の神性を誕生だけに基づかせていない。しかし彼らはそれを、彼が唯一の意味で神の子であるしるしと見ている。
ルカの天使は聖霊がマリヤに臨むことについて語っている。このために、と彼は言う、その子は神の子と呼ばれるであろう。
反論
ルカは確かに聖霊をその称号に結びつけている。しかし二章後、ルカはアダムを「神の子」と呼び、出エジプト記はイスラエルを神の「子」と呼んでいる。聖書ではその称号は、誰かが神であることではなく、神への近さを示している。
父なしの受胎は、イエスをほかのどの人もそうでない仕方で神の子として示している。
反論
その誕生は本当の奇跡であり、ムスリムはそれを信じている。しかしアダムには父も母もなく、ルカはなお彼を神の子と呼んでいる。奇跡は神の力を示すのであって、生まれた者が神であることを示すのではない。
イスラームの視点
イエスはしるしであり慈悲として、神の命令によって処女から生まれた。それは彼を奇跡であり偉大な使徒にするのであって、神にも神の子にもしない。父も母もなく造られたアダムがその証拠である。
クルアーンは、誰も触れたことがないのにマリヤがイエスを身ごもったと言う。
アダムには父も母もなかったが、ルカはなお彼を「神の子」と呼んでいる。
もし父なしの誕生が誰かを神にするなら、アダムはイエスより強い主張を持つであろう。それでその論は証明しすぎるのである。
聖書はイスラエルを神の子と呼び、死人の中から蘇らされる者たちを神の子と呼んでいる。それは彼らを神的にしていない。
クルアーンは、イエスはアダムのようであり、神の言葉「あれ」によって創られたと教えている。それは、神は子をもうけられないと教えている。