短い答え
はい。クルアーンは両親への親切を神の崇拝と並べている。それは言う。「あなたの主は、あなた方がかれ(アッラー)以外には何も崇拝することなく、両親には孝行を(せよ)、と命じられた」(17:23)。孔子もまた、孝(両親への子の愛と敬意)には敬いが必要であると教えた。彼は、親が誤っているとき子は穏やかに異議を唱えてよいと教えた。イスラームは、神に対する誤りにおいては誰にも従わないことに同意している。最も重い誤りは、かれにほかのものを並べることである。子はそれにおいて両親に従ってはならないが、それでもなお親切に彼らに同伴しなければならない(31:15)。イスラームは、両親への犠牲の代わりに、信仰者の両親のための神への祈りを与えている。ムスリムはイスラームの外で亡くなった者たちのために赦しを求めない(9:113)。それでも彼は誰の行く末をも宣言しない。神は使徒が来るまでは誰も罰せられず(17:15)、かれは決して不正を働かれない(4:40)。
詳しい説明
儒教の書の中で孝が意味すること
孝とは、子の両親への愛、敬意、世話である。『孝経』はそれを徳の本と呼んでいる。『論語』の中で、孔子は養うことだけでは足りないと言う。犬や馬でさえ何らかの養いを与えることができる。敬いがなければ、と彼は問う、何の違いがあろうか。これが共通の土台であり、それは本物である。
“夫れ孝は徳の本なり”
“今の孝は、是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。”
クルアーンが命じること
クルアーンは両親への務めを神の崇拝と一つの文の中で結びつけている。それは老いた親への軽蔑の一言さえ禁じている。それは子に、敬意をもって語り、謙虚であり、両親のために祈るよう告げている。それはまた人に、神と両親に感謝を示すよう告げている。それでイスラームもまた、ただ養うことだけでなく、敬いを求めているのである。
“(人間よ、)あなたの主は、あなた方がかれ(アッラー)以外には何も崇拝することなく、両親には孝行を(せよ)、と命じられた。もし彼らの内の片方、あるいは二人とも、あなたの許で高齢に達したなら、彼らに対して「ちぇっ」と言ったり、彼らに居丈高になったりしてはならない。そして彼らには(いつも)、温かい言葉をかけてやるのだ。また彼らに、慈悲の念による謙虚さの翼を下ろし、(こう)言うのだ。「我が主よ、彼らにご慈悲をおかけ下さい。彼らが幼かった私を(優しくいたわって)そだててくれたように」。”
“ーーわれらは人間に、両親に対して(孝行を)命じた。彼の母親は、衰弱の上に衰弱を重ねて、彼を身ごもったのである。そして乳離れ(まで)は、二年かかるのだ。(われらは言った)。「われに感謝せよ。そしてあなたの両親に。われにこそ行先があ(り、そこでわれは全ての者に応報す)るのだから。”
預言者(ﷺ)が教えたこと
ある男が預言者(ﷺ)に、誰が最も自分の良い付き合いに値するかと尋ねた。預言者(ﷺ)は母を三度名指し、それから父を名指した。正しい時の礼拝の後にアッラー(﷾)が最も愛される行いは何かと尋ねられて、彼は両親に善く孝行であることを名指した。
アブー・フライラによれば、ある男が預言者(ﷺ)に、自分のよき付き合いを最も受けるに値するのは誰かと尋ねた。預言者は言った。あなたの母である。男はその次は誰かとさらに三度尋ね、答えは、あなたの母、それからあなたの母、そしてあなたの父であった。
アブドゥッラー・イブン・マスウードは預言者(ﷺ)に、アッラーが最も愛される行いは何かと尋ねた。彼は言った。定められた時刻に行う礼拝である。その次は何かと問われると、彼は言った。両親に善くし、孝行を尽くすことである。
親が誤っているとき:儒教の書
儒教の書は、子にすべてにおいて親に従うよう求めていない。『論語』の中で、息子は異議を唱えてよいが、穏やかにである。もし両親が聞かなければ、彼はより多くの敬いを示し、自分の目的を保つ。もし彼らが彼を罰しても、彼は不平を言わない。『孝経』はさらに進む。父が誤りを行う所では、と言う、息子は異議を唱えなければならない。それならどうして単なる従順が孝と数えられようか。それで両方の伝統が、子に誤りに異議を唱えることを許している。
“父母に事うるには幾諫す。志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。”
“故に不義に当たれば、則ち子は以て父に争わざるべからず、臣は以て君に争わざるべからず。故に不義に当たれば則ち之を争う。父の令に従う、又焉んぞ孝と為すを得んや。”
イスラームが線を引く所
預言者(ﷺ)は、悪行においては従順はない、従順はただ善いことにおいてだけであると言った。それで誰も、親でさえ、神に対する誤りにおいては従われない。クルアーンは最も重い場合を名指している。もし両親が子に崇拝において神にほかのものを並べるよう迫るなら、子は従ってはならない。同じ節の中で、彼はそれでもなお、この世において公正と思いやりをもって彼らに同伴しなければならない。彼の親切は続く。預言者(ﷺ)はアスマーに、ムスリムではなかった彼女の母と良い関係を保つよう告げた。
アリーによれば、預言者(ﷺ)が任命したある指揮官が火を焚き、部下たちにその中に入るよう命じた。それを聞いた預言者は、もし彼らがそれに入っていたら復活の日までその中にいたであろう、悪事における服従はなく、服従は善いことにおいてのみである、と言った。サヒーフ・ムスリム1840にも同じ伝承がある。
“そして(信仰者の息子よ、)もし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫ってきたならば、彼らに従うのではない。また現世において、彼らに適切な形で同伴せよ。そしてわれによく(悔悟して)立ち返る者の道に従うのだ。それからわれにこそ、あなた方の帰り所があるのであり、われは自分たちが(現世で)行っていたことについて、あなた方に告げ聞かせるのである」ーー。”
“われらは人間に、自分の両親への孝行を命じた。そしてもし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫って来たならば、(そのことに関しては)彼らに服従するのではない。われにこそ(復活の日)、あなた方の帰り所があるのだ。そしてわれは、あなた方が(現世で)行っていたことを、あなた方に告げ聞かせ(、それに報い)る。”
アブー・バクルの娘アスマーによれば、まだ多神教徒(ムシュリカ)であった彼女の母が、娘の優しさを期待して、預言者(ﷺ)の存命中に彼女を訪ねて来た。アスマーは預言者(ﷺ)に、母とよい関係を保つべきかと尋ねた。彼は、そうだ、母とよい関係を保ちなさいと言った。
亡くなった両親のための儀礼
孔子にとって、孝は死で終わらなかった。『論語』の中で彼は、両親は「礼を以て」仕えられ、葬られ、祭られるべきであると言う。ここでの礼とは儀礼を意味する。これがイスラームが異なる所である。
“生けるには之に事うるに礼を以てし、死すれば之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。”
イスラームが犠牲の代わりに与えるもの
イスラームはすべての崇拝を神だけへと向ける。それは両親に何の犠牲もささげず、信仰者に神と並べて誰にも祈るなと求めている。子の両親への愛は別の仕方で続く。彼は彼らのために神に祈る。預言者(ﷺ)は、人の行いは死に際して終わるが、三つは別であると言った。それらは続く施し、役に立つ知識、そしてその人のために祈る正しい子供である。彼はまた彼らのために施しをしてよい。ある男が預言者(ﷺ)に、自分の母が突然亡くなったと告げ、彼女のために与えられた施しは彼女に報いをもたらすかと尋ねた。預言者(ﷺ)は、はいと言った。これらは信仰者として亡くなった親のためのものである。生きている両親のためには、彼らの信仰が何であれ、子は公正と親切をもって彼らに同伴する。彼は神が彼らを導いてくださるよう祈り、その導きを穏やかに彼らと分かち合う。アブー・フライラは預言者(ﷺ)に自分の母の導きのために祈ってほしいと求め、彼女はムスリムになった。両親が亡くなった後も、子はなお彼らが愛した人々に親切であることができる。
“また、マスジドはアッラー(だけを崇拝するため)のもの、ということ。ならば、あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない。”
アブー・フライラによれば、預言者(ﷺ)は、人が死ぬと、その行いは三つを除いて終わると言った。続く施し、人々が益を得る知識、そして彼のために祈る正しい子である。
アーイシャによれば、ある男が預言者(ﷺ)に、母親が急に亡くなったと告げた。彼は、母親が生きていたら施しをしただろうと思い、自分が母親のために施しをしたら母親が報いを受けるかを尋ねた。預言者(ﷺ)は、そうだと言った。
“そして(信仰者の息子よ、)もし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫ってきたならば、彼らに従うのではない。また現世において、彼らに適切な形で同伴せよ。そしてわれによく(悔悟して)立ち返る者の道に従うのだ。それからわれにこそ、あなた方の帰り所があるのであり、われは自分たちが(現世で)行っていたことについて、あなた方に告げ聞かせるのである」ーー。”
“われらは人間に、自分の両親への孝行を命じた。そしてもし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫って来たならば、(そのことに関しては)彼らに服従するのではない。われにこそ(復活の日)、あなた方の帰り所があるのだ。そしてわれは、あなた方が(現世で)行っていたことを、あなた方に告げ聞かせ(、それに報い)る。”
アブー・フライラは、まだムスリムでなかった母をイスラームに誘ったが、彼女は拒んだと伝えている。彼は泣きながら預言者(ﷺ)のもとに来て、神が彼女を導いてくださるよう祈ってほしいと頼んだ。預言者(ﷺ)は彼女の導きのために祈った。アブー・フライラが家に着くと、母はアッラーのほかに神はなく、ムハンマドはかれの僕であり使徒であると証言した。
アブドゥッラー・イブン・ウマルは、父親がウマルの友人であった砂漠のアラブ人に自分のロバとターバンを与えた。彼は、預言者(ﷺ)が、最も優れた善行の一つは、人が父親の亡き後、父親の愛した人々との絆を保つことであると言うのを聞いたと説明した。
| 点 | 儒教の書物 | イスラーム |
|---|---|---|
| 養うだけでは十分でない | 敬いがなければ、養うことは犬や馬が受けるものと変わらない | 神の崇拝と並んで両親への親切、そして軽蔑の一言もなし |
| 親が間違っているとき | 息子は穏やかに異議を唱える | 悪においては従わないが、親切は続く |
| 死後 | 礼によって仕え、葬り、祭る | 彼らのための祈りと施し。崇拝はただ神だけに |
イスラームの外で亡くなった両親と先祖
多くの読者には、一度もイスラームについて聞いたことのない祖父母や先祖がいる。ここでクルアーンは注意深い。それは、近い家族であっても、崇拝において神にほかのものを並べた者たちについて語っている。それは、預言者(ﷺ)と信仰者たちが彼らの赦しのために祈ることはふさわしくないと言う。その節は条件を付け加えている。「火獄の徒であることが彼らに明白になった後には」。イブン・カスィールは、最初のムスリムたちがそれをどう守ったかをイブン・アッバースから伝えている。彼らは神にほかのものを並べて亡くなった親族のために赦しを求めることをやめた。彼らは生きている者のために祈り続けた。それでムスリムはイスラームの外で亡くなった親族のために神の赦しを求めない。それは彼自身の祈りのための規則である。それはその人についての判決ではない。クルアーンはまた、神は「使徒を遣わすまで」かれの怒りで罰せられないと言う。それは、「本当にアッラーは、ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない」と付け加えている。アラビア語では、かれは一粒の重さほども誰にも不正を働かれない。どのムスリムも、特定の人が神の前でどこに立っているかを宣言してはならない。それはただ神だけに属する。ページ「私たちはどのように先祖を敬うべきか?」と「イスラームやイエスについて一度も聞いたことのない人々はどうなるのか?」が完全な答えを与えている。
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
イブン・カスィールはイブン・アッバースから、信者たちは9:113が下るまで親族のために赦しを求めていたと伝えている。それから彼らは、神に他のものを並べて死んだ亡き者のために赦しを求めることをやめたが、生きている者のためには、その者が死ぬまで祈ることを禁じられなかった。彼はまた、ムスリムの息子は、非ムスリムの父が生きている間、その父の幸いのために祈るべきであるとイブン・アッバースが言ったことを伝えている。
“導かれた者は誰でも、導かれたことで自らを益するだけであり、(虚妄に従って)迷った者は誰でも、迷って自らを害するだけ。また(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。そしてわれらは使徒を遣わすまで、(いかなる民も)罰することなどないのである。”
“本当にアッラーは、ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない。そして(その僅かなものが)善行であるならば、それを何倍にもされ、そしてその御許から、偉大なる褒美をお授けになるのだ。”
イスラームの答え:両親をその中に含む生き方の全体
イスラームはディーン、完全な生き方である。信仰、崇拝、家族、人格は共に属している。両親を敬うことはその全体の一部であり、一つの文の中で神の崇拝と並べられている。イスラームではこの務めには明らかな源と明らかな理由がある。親と子の両方を造られた神がそれを命じられる(31:14)。すべての者はかれへと帰り、かれは各人に彼らがしたことの真実を告げられる(31:15)。根本における一つの変化は、すべての崇拝が神だけに向かうということである。クルアーンはすべての者にそれを試すよう招いている。それはムハンマド(ﷺ)をアッラー(﷾)の使徒であり預言者たちの封印、その最後の者と呼んでいる。それを読み、試し、それから彼が神が遣わされた最後の使徒であるかどうかを問いなさい。ページ「イスラームとは何か?」が生き方の全体を一か所で示している。
“この日われはあなた方のために、あなた方の宗教を完成させ、あなた方へのわが恩恵を全うし、イスラームがあなた方への宗教であることに満足した。”
“信仰する者たちよ、余すことなく平安の内に入れ。そしてシャイターンの歩みに従ってはならない。本当に彼はあなた方にとって、紛れもない敵なのだから。”
“(人間よ、)あなたの主は、あなた方がかれ(アッラー)以外には何も崇拝することなく、両親には孝行を(せよ)、と命じられた。もし彼らの内の片方、あるいは二人とも、あなたの許で高齢に達したなら、彼らに対して「ちぇっ」と言ったり、彼らに居丈高になったりしてはならない。そして彼らには(いつも)、温かい言葉をかけてやるのだ。また彼らに、慈悲の念による謙虚さの翼を下ろし、(こう)言うのだ。「我が主よ、彼らにご慈悲をおかけ下さい。彼らが幼かった私を(優しくいたわって)そだててくれたように」。”
“ーーわれらは人間に、両親に対して(孝行を)命じた。彼の母親は、衰弱の上に衰弱を重ねて、彼を身ごもったのである。そして乳離れ(まで)は、二年かかるのだ。(われらは言った)。「われに感謝せよ。そしてあなたの両親に。われにこそ行先があ(り、そこでわれは全ての者に応報す)るのだから。”
“そして(信仰者の息子よ、)もし彼ら二人が、あなたが(崇拝の正当性について)何も知らないものをわれに並べるべく、あなたに執拗に迫ってきたならば、彼らに従うのではない。また現世において、彼らに適切な形で同伴せよ。そしてわれによく(悔悟して)立ち返る者の道に従うのだ。それからわれにこそ、あなた方の帰り所があるのであり、われは自分たちが(現世で)行っていたことについて、あなた方に告げ聞かせるのである」ーー。”
“(不信仰者たちよ、)もしあなた方が、われらがわれらの僕(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)について疑惑を抱いているのなら、それと同等のスーラを一つでもよいから創作し、アッラー以外のあなた方の証人(の助け)を呼んでみるがいい。もしあなた方が、本当のことを言っているというのならば。”
“ムハンマドはそもそも、あなた方の男性の内の、誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒、預言者たちの封印なのだ。そしてアッラーはもとより、全てのことをご存知のお方。”
三つの問いと答え
クルアーン 9:113 — 悔悟章、第113節
“預言者と、信仰する者たちにとって、シルクの徒のため(アッラーに罪の)お赦しを乞うことなど、あってはならない。たとえ彼らが(自分たちの)近親の者であろうとも、火獄の徒であることが彼らに明白になった後には(、そうしてはならない)。”
引用の目的
それならイスラームは私に祖父母のために祈ることを禁じ、彼らは業火の中にいると言うのだ。
応答
イスラームは確かに、ムスリムにイスラームの外で亡くなった人のために神の赦しを求めないよう求めている(9:113)。最初のムスリムたちは神にほかのものを並べて亡くなった親族のためにそれを求めることをやめ、生きている者のためには祈り続けた(イブン・カスィール)。あなたの生きている両親のためには、ムスリムは神が彼らを導いてくださるよう祈る。その規則は彼自身の祈りのためのものである。それはあなたの祖父母についての判決ではない。ムスリムは自分に見えることに基づいて行動する。各人に何が届いたかは、ただ神だけがご存じである。神は「使徒を遣わすまで」怒りを下されない(17:15)。かれは「ほんの僅かな重みさえも、不正に扱われたりはしない」(4:40)。どのムスリムも誰の行く末をも宣言してはならない。それは神に属する。
結論 — イスラームは祈りのための自分の規則を公然と述べ、各人の行く末を誰にも不正を働かれない神に委ねる。
『論語』2.5 — 第2篇、第5章
“生けるには之に事うるに礼を以てし、死すれば之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。”
引用の目的
死者への犠牲がなければ、本当の孝はない。あなたはその心臓を取り去ってしまった。
応答
イスラームは愛が死で終わるとは言わない。それはすべての崇拝を神だけへと向ける(17:23、72:18)。それは子に、信仰者の親のための神への祈りと施しを与える(ムスリム1631、ブハーリー1388)。ここがイスラームが儀礼に従わない所である。
結論 — イスラームは死者への犠牲において儀礼から離れ、その場所に神への祈りを置く。
『論語』4.18 — 第4篇、第18章
“父母に事うるには幾諫す。志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。”
引用の目的
孔子はすでに、子は誤っている親に従う必要はないと教えた。イスラームはここに何も付け加えない。
応答
儒教の書が息子に異議を唱えることを許しているのは本当である(『論語』4.18、『孝経』15)。イスラームはその務めが新しいとは主張しない。唯一の神は以前にもかれの使徒たちを通してそれを教えられた。イスラエルの子らについてのように(2:83)。神に対する誤りにおいては誰も従われない(ブハーリー7257)。イスラームでは線は神の命令によって引かれ、親と子の両方がかれに答える(31:15)。イスラームは最も重い場合を名指している。神にほかのものを並べるよう迫られることである。そこでは子は拒み、それでもなお公正をもって両親に同伴する(31:15)。
結論 — 両方の伝統が子に誤りに異議を唱えることを許している。イスラームでは、神が線を引かれ、親と子の両方がかれに答える。
さまざまな視点
儒教
孝は徳の本である。それは生きている間の両親への敬いと世話、そして親が誤っているときの穏やかな異議を求める。死の後、それは礼に従った埋葬と祭祀を求める。これらを守る子は自分の両親と家族を敬っている。
孝はすべての徳の本であり(『孝経』1)、それはただ養うことだけでなく、敬いを必要とする(『論語』2.7)。本当に孝である子はすでに生きる道を見いだしている。
反論
イスラームはその務めが重いことに同意しており、それを神の崇拝と並べている(17:23)。しかしその同じ文の中で、崇拝が最初に来る。子は自分の両親に忠実でありながら、なお自分の崇拝を自分の造り主以外の誰かにささげることがありうる。イスラームは両方を求める。最終の目的地は神であり(31:14)、親と子の帰り所はひとしくかれだからである(31:15)。
儒教の書はすでに、子は誤った親に単に従う必要はないと教えている(『論語』4.18、『孝経』15)。それで崇拝についてのイスラームの規則は新しくない。
反論
イスラームはこの務めが新しいとは主張しない。唯一の神はムハンマド(ﷺ)以前のかれの使徒たちを通してそれを教えられた。かれはそれをイスラエルの子らから契約として取られた。「アッラー以外の何ものも崇拝してはならない。そして両親に孝行し」(2:83)。イスラームは、神に対する誤りにおいては誰にも従わないことに同意している(ブハーリー7257)。イスラームでは線は神の命令によって引かれ、親と子の両方がかれに答える(31:15)。イスラームは最も重い場合を名指している。神にほかのものを並べるよう迫られることである。そこでは子は拒み、それでもなお公正をもって両親に同伴する(31:15、29:8)。
孝は礼に従った亡くなった両親への祭祀を含む(『論語』2.5)。やめる子は両親を敬うことをやめたのである。
反論
孔子は確かにこれを意味していた。どの信仰の生きている両親のためにも、ムスリムの子は神が彼らを導いてくださるよう祈る(ムスリム2491)。死の後、イスラームは子の愛を別の形で保つ。信仰者の親のための神への祈りと施しである(ムスリム1631、ブハーリー1388)。それは崇拝を神だけに与える(72:18)。
死者のための私たちの儀礼は敬意と記念であって、崇拝ではない。礼拝と供え物は、墓の花がそうするように、先祖を敬うものである。
反論
イスラームは思い起こすことと敬意を保つ。それはなされることを見るのであって、それに与えられる名を見るのではない。誰かの前にひれ伏し、彼に供え物をし、助けを求めて彼に呼びかけることは崇拝の行いである。それらは神だけに属する。クルアーンは言う。「本当に私の礼拝も犠牲も、生も死も、全創造物の主アッラーのためのみ」(6:162)。それはまた言う。「あなた方はアッラーと並べて、何ものにも祈って(崇拝して)はならない」(72:18)。かれ以外に呼びかけられる者たちは、「彼らがあなた方に応じることはない」(35:14)。ページ「私たちはどのように先祖を敬うべきか?」が、ムスリムが何を保つかを示している。
孝は家族の死者のための儀礼を守ることを意味する。それらを守ろうとしない子は自分の家族を離れる。
反論
イスラームは子に家族を離れよとは告げない。彼はこの世において公正をもって両親に同伴しなければならない(31:15)。預言者(ﷺ)はアスマーに、ムスリムではなかった彼女の母と良い関係を保つよう告げた(ブハーリー2620)。クルアーンは、信仰のためにムスリムと戦わず、彼らを家から追い出さないすべての者への親切と公正を許している(60:8)。
中国の伝統:孝は家族の儀礼を含む
多くの中国の家族にとって、両親を敬うことは死で終わらない。供え物、線香、墓参りによって死者のための儀礼を守ることは、良い息子や娘であることの一部である。
家族の儀礼を離れることは、私の両親と先祖を辱めることになるであろう。
反論
イスラームは、両親がムスリムでないときでさえ彼らへの親切を命じ、この世で公正をもって彼らに同伴する。ムスリムは毎日彼らを敬う。彼らが生きている間は親切によって、そしてその後は彼らの絆と良い名を保つことによって。父が愛した人々との絆を保つことは最も優れた行いの一つである。
イスラームの視点
両親を敬うことは神の命令であり、かれの崇拝と並べられている。子は生涯、敬いと親切をもって彼らに仕える。彼は神に対する誤りにおいて、とりわけ彼らが彼に神にほかのものを並べるよう迫るなら、彼らに従わない。そのときでさえ彼は親切なままである。彼はすべての崇拝を神へと向け、信仰者の親のために祈り施しをする。どの信仰の生きている両親のためにも、彼は彼らの導きのために祈る。彼はイスラームの外で亡くなった者たちのために赦しを求めず、彼らの行く末を決して不正を働かれない神に委ねる。
クルアーンは神の崇拝と並べて両親への親切を命じている。それは軽蔑の一言さえ禁じ、子に神と両親に感謝を示すよう告げている。
預言者(ﷺ)は良い付き合いに最も値する者として母を三度、それから父を名指した。彼は正しい時の礼拝の次に両親への親切を位置づけた。
子は、崇拝において神にほかのものを並べるよう迫る親に従ってはならない。たとえ彼らがムスリムでなくても、彼はそれでもなおこの世において公正と思いやりをもって彼らに同伴しなければならない。
すべての崇拝は神だけに向かう。イスラームは両親に何の犠牲もささげず、その代わりに神への祈りと、信仰者として亡くなった親のための施しを与えている。
ムスリムはイスラームの外で亡くなった者たちのために赦しを求めない。クルアーンはその規則を「火獄の徒であることが彼らに明白になった後には」(9:113)という言葉で与えている。それは祈りのための規則であって、どの人についての判決でもない。神は使徒が来るまでは怒りを下されず、決して不正を働かれない。どのムスリムも誰の行く末をも宣言しない。
イスラームはディーン、完全な生き方であり、両親への敬いはその中にある。クルアーンはすべての者にそれを試すよう招き、ムハンマド(ﷺ)を預言者たちの封印、その最後の者と名づけている。