短い答え
いいえ。聖書はこれらの同じ称号を神でなかった人々に与えている。ダニエルはバビロンの王ネブカドネザルを「諸王の王」と呼んでいる。神はモーセに告げられる。「わたしはあなたをパロに対して神とする」。ある詩篇はそれが語りかける裁き人たちを「神々」と呼び、それから彼らは人のように死ぬと言う。イエスはその詩篇を、「神の言を託された人々」について引用した。イザヤは、王宮の家令がエルサレムに対して「父」となると言う。サラは自分の夫アブラハムを主と呼んだ。キリスト教徒はこれらの人々の誰をも神とは取らない。それで同じ称号がイエスが神であることを証明することはできない。そしてイエスを「王の王」と呼ぶ書である黙示録の中で、彼はなお「わたしの神」について語っている。イスラームの答えは単純である。イエスは神の僕であり使徒であり、かれによって権威をもって尊ばれたのである。
詳しい説明
キリスト教徒が指し示す称号
黙示録はイエスの上に「王の王、主の主」と記している。テモテへの第一の手紙はその同じ称号を神に与えている。ルカはイエスを主なるキリストと呼んでいる。イザヤ書9:6はある子供を「大能の神、とこしえの父」と名づけている。イエスの十二人の親しい弟子の一人トマスは、彼に「わが主よ、わが神よ」と言う。キリスト教徒は、このような称号は神だけに属しうるとする。
“その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。”
“時がくれば、祝福に満ちた唯一の力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。”
“きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。”
“ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。”
“トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。”
「諸王の王」と呼ばれた人々
預言者ダニエルはそれをバビロンの王ネブカドネザルに言っている。彼は、神が彼に国を与えられたと付け加えている。預言者エゼキエルは再びネブカドネザルを諸王の王と呼んでいる。ペルシアの支配者アルタシャスタは、エズラ記に保たれた手紙の中でその称号を自分自身に用いている。
“王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、”
“主なる神はこう言われる、見よ、わたしは諸王の王であるバビロンの王ネブカデレザルに、馬と戦車と騎兵と軍隊と多くの民とを率いさせ、北からツロに攻めこさせる。”
“諸王の王アルタシャスタ、天の神の律法の学者である祭司エズラに。完全な平安を、云々。”
人々に対する「神」と「神々」
神はモーセに、彼は兄弟アロンにとって「神に代る」者となり、「パロに対して神」となると告げられる。詩篇82篇は聖書の詩篇の書の中の歌である。それはそれが語りかける裁き人たちを神々、いと高き者の子らと呼んでいる。次の息で、それは彼らは人のように死ぬと言う。イエスは冒涜(神を侮辱すること)で訴えられた。彼はまさにこの詩篇で答え、それを「神の言を託された人々」について読んだ。
“彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために神に代るであろう。”
“主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神とする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。」”
“アサフの歌。神は力ある者の集いの中に立たれる。神は神々の間でさばきを行われる。”
“わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。」”
“「しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。”
“イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々と言われておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ないのであるから)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。」”
人々に対する「主」と「父」
「主」はギリシア語のキュリオスとヘブライ語のアドンを訳している。両方とも「あなた様」や「主人」から神に至るまでのすべてにわたっている。ペテロは、サラが自分の夫アブラハムを主と呼んだと言う。イザヤは、王宮の役人である家令エルヤキムがエルサレムに対して父となると言う。ヨセフは、神が自分をパロに対して父とされたと言う。
“たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。”
“あなたの衣を彼に着せ、あなたの帯を彼にしめ、あなたの権力を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの民とユダの家との父となる。”
“それゆえわたしをここにつかわしたのは、あなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国の総理とされました。”
| 称号 | 聖書の中で他にも与えられている相手 |
|---|---|
| 王の王 | バビロンの王ネブカデネザル。「王よ、あなたは諸王の王」。ペルシアのアルタシャスタは自分自身についてそれを用いている。 |
| 神 | モーセ。「わたしはあなたをパロに対して神のようにする」。 |
| 神々 | ある詩篇が語りかける裁き手たち。「あなたがたは神だ」、彼らは「人のように死」ぬ。 |
| 主 | アブラハム。彼の妻サラは彼を主と呼んだ。 |
| 父 | 王の家宰エリアキムは「エルサレムの住民…の父」であり、ヨセフは「パロの父」である。 |
これらの人々の誰も神ではありませんでした。そしてイエスを「王の王」と呼ぶヨハネの黙示録の中で、彼はなお「わたしの神」について語っています。
イエスに与えられた称号、そして彼の上にある神
ペテロは、神がイエスを主とし、キリスト(メシア)とされたと言う。それでその称号は彼に与えられたのである。黙示録でイエスは一つの節の中で四度「わたしの神」と言う。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、唯一の神、父を、唯一の主、イエスから分けている。書き手たちが神とイエスを並べて置くこれらの箇所の中で、神は上にある方である。クルアーンはイエスを僕と呼んでいる。それはまた、キリストをアッラーと並べて主とすることに警告している。
“だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。”
“勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。”
“わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。”
“彼(イーサー)はわれらが恩恵を授け、イスラーイールの子らへの譬えとした、一人の僕に過ぎない。”
“彼ら(啓典の民)はアッラーを差しおいて、彼らの学者や修道僧たちを、彼らの主としたのだ。また、マルヤムの子マスィーフも(主とした)。彼らは、唯一の神(アッラー)のみを崇拝することしか、命じられてはいなかったというのに。かれ以外に、(真に)崇拝すべきものなど存在しない。彼らがシルクを犯しているものから(無縁な)、アッラーに称えあれ。”
節ごとに
ヨハネの黙示録 19:16 — 第19章16節
“その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。”
引用の目的
「王の王、主の主」はテモテへの第一の手紙6:15における神ご自身の称号であるので、それをイエスに与えることは彼を神とする。
応答
聖書はネブカドネザルとアルタシャスタも諸王の王と呼んでいる。テモテへの第一の手紙の王の王は、「ただひとり不死を保ち」、「人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできない」方である。それは群衆が見て触れた者を描くことはできない。またそれは、キリスト教徒が言うように十字架の上で死んだ者にも合わない。黙示録そのものの中で、イエスは「わたしの神」と言う。
結論 — 聖書はその称号を人々に与えている。そしてテモテへの第一の手紙の王の王は誰も見たことのない方である。それでその称号はイエスが神であることを示さない。
ヨハネによる福音書 20:28 — 第20章28節
“トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。”
引用の目的
トマスはイエスに「わが神よ」と呼びかけ、イエスはそれを受け入れる。
応答
同じ章の中でイエスは、自分は「わたしの神またあなたがたの神」のもとへ上って行くと伝えさせている。ヨハネのより前の方で、イエスは聖書が人々を神々と呼んでいると言って自分を弁護した。彼自身の言い方によれば、聖書の中の「神」という語は人を神にはしない。それからヨハネは、自分は読者がイエスは「神の子キリスト」であると信じるためにこれを書いたと言う。
結論 — ヨハネによる福音書のイエスには神があり、彼は「神」という語を聖書が人々に与える称号として説明している。
イザヤ書 9:6 — 預言者(ネビイーム)、第9章6節 (KJV)
“ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。”
引用の目的
イザヤ書9:6はその子供を「大能の神、とこしえの父」と呼んでいるので、メシアは神である。
応答
その節は「その名は、…ととなえられる」と言っているので、それは名を与えているのである。例えばエリヤの名は「わが神はヤハウェ」を意味する。標準的なユダヤ教の英語聖書であるユダヤ出版協会の翻訳は、その称号を神の名に変えていない。それはそれらを一つのヘブライ語の名として訳さずに残している。次の節は、万軍の主の熱心がこれを行われると言う。そして「父」は、家令エルヤキムについてのイザヤの言葉である。
結論 — その節はその子供に神を敬う名を与えている。それはその子供が神であるとは言っていない。
さまざまな視点
主流のキリスト教
新約聖書は、「王の王、主の主」(テモテへの第一の手紙6:15)のような、聖書が神にも用いる称号をイエスに与えている。それらを合わせると、彼が神の本性を共有していることが示される。
黙示録はイエスに「王の王、主の主」という称号を与えている。テモテへの第一の手紙はこの称号を神に与えているので、と彼らは言う、イエスは神の位を共有している。
反論
黙示録は確かにイエスにこの称号を与えている。しかし聖書はそれを王ネブカドネザルとアルタシャスタにも与えている。テモテへの第一の手紙の王の王は誰も見たことのない方であり、黙示録ではイエスは「わたしの神」について語っている。
トマスはイエスを「わが主よ、わが神よ」と呼び、イエスは彼を正さない。
反論
トマスは確かにこれらの言葉を言い、イエスはそれらをそのままにしている。しかし同じ章の中でイエスは「わたしの神またあなたがたの神」について語っている。そしてヨハネはその場面を、自分は読者がイエスは「神の子キリスト」であると信じるために書いたと言って終えている。
イザヤ書9:6は約束された子供を「大能の神、とこしえの父」と名づけている。
反論
その節は「その名は、…ととなえられる」と言っており、名は神でなくても神を敬うことができる。エリヤの名が「わが神はヤハウェ」を意味するように。次の節は万軍の主の熱心がこれをなされると言う。そしてイザヤは家令エルヤキムも「父」と呼んでいる。
イスラームの視点
聖書はこれらの称号の一つ一つを栄誉として人々に与えている。イエスは権威を与えられた神の僕であり使徒であり、彼自身に神があった。
聖書はネブカドネザルとアルタシャスタを「諸王の王」と呼んでいる。
聖書はモーセをパロに対する神と呼んでいる。イエスが神の言を受けた者たちに当てはめたある詩篇は、彼らを人のように死ぬ神々と呼んでいる。
イエスは冒涜の訴えに、聖書が人々を神々と呼んでいることを指摘して答えた。
パウロは、神々や主と呼ばれるものは多くあるが、唯一の神、父だけがおられると言う。
「主」と「父」は聖書の中で夫、家令、役人に用いられている。
ペテロは神がイエスを主とし、キリストとされたと言うので、その称号は彼に与えられたのである。
彼を王の王と呼ぶ同じ書の中で、イエスは「わたしの神」について語っている。
クルアーンは、イエスはアッラー(﷾)の僕であり、かれと並べて取られるべき主ではないと教えている。