短い答え
神に立ち返ることによってであり、これについてユダヤ教とイスラームは一致している。預言者ホセアはイスラエルに、「言葉を携えて」主に帰るよう告げた。タルムードはラビたちの律法と議論の記録である。そこにある一つの言葉は、ひそかになされた罪については、それらの言葉を若い雄牛のささげ物と数えている。ラビの物語のある書は、1世紀のラビ(ユダヤ教の教師)ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイについて語っている。神殿が倒れたとき、彼はある弟子に、慈しみは神殿の祭壇がしたようにあがないをすると告げた。12世紀のラビ、マイモニデスは、神殿がなければ悔い改めがすべての罪をあがなうと定めた。クルアーンは、アッラー(﷾)はかれに立ち返る者たちにすべての罪を赦されると言う。ヘブライ語聖書、ラビたち、そしてクルアーンは皆、神は血なしには赦すことができないという主張を退けている。イスラームはまた、エルサレム・タルムードが改宗者に対してそうするように、それに入る者に白紙を与えている。
詳しい説明
ヘブライ語聖書:帰れ、そうすれば神は赦される
預言者たちは赦しを神に立ち返ることに結びつけている。ホセアはイスラエルに言うべき言葉を与え、それを彼らのくちびるの供え物と呼んでいる。エゼキエルは、帰ってくる人の罪のどれも彼に対して覚えられないと言う。ヨナ書では、ニネベの町はその悪い道から離れて容赦され、何のいけにえも記録されていない。ソロモン王は遠い地にいるイスラエルの捕囚たちのために祈った。彼は、もし彼らが悔い改めて神殿の方に向かって祈るなら、その祭壇から遠く離れていても、彼らを赦してくださるよう神に求めた。祭壇とはささげ物が焼かれる場所である。
“イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によってつまずいたのだ。言葉を携えて主に帰り、主に言え、「すべての不義を赦し、良いものを受け入れてください。わたしたちは雄牛の代りに、くちびるの供え物をささげます。」”
“しかし、悪人がもし、その犯したすべての罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したすべてのとがは、彼に対して覚えられない。彼はその行った正義のために生きる。主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。”
“しかし、悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。”
“神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らに下すと言われた災について悔い、これを行われなかった。”
“彼らがあなたに罪を犯すことがあって――罪を犯さない人はないのですから――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕えて、遠近を問わず、敵の地に引いて行くことがあっても、もし彼らが捕え移された地で、みずから省みて悔い、自分を捕え移した者の地で、あなたに願い、『わたしたちは罪を犯しました。悪を行い、よこしまなことをしました』と言い、自分を捕え移した敵の地で、心をつくし、魂をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈るならば、あなたのすみかである天で彼らの祈と願いとを聞いて、彼らの訴えをささえ、あなたに向かって罪を犯したあなたの民を赦し、彼らがあなたに犯したすべてのとがを赦し、彼らを捕え移した者の前で彼らにあわれみを得させ、その人々に彼らをあわれませてください。”
神がいけにえよりも望まれること
ささげ物を命じる同じ聖書が、神がそれ以上に何を望まれるかを言っている。預言者たちはささげ物を廃止するのではない。彼らはそれを、立ち返った心の下に位置づける。ホセアは、神は「いつくしみを喜び、犠牲を喜ばない」と言う。詩篇51篇で、バテシバとの罪の後、ダビデ王は、神へのいけにえは砕けた霊であると言う。それから彼はエルサレムのために、そしてそのささげ物が再び神を喜ばせる日のために祈る。しかしモーセの五書であるトーラーには、姦淫のためのささげ物も、ウリヤを殺したことのためのささげ物もなかった。それで砕けた心だけがダビデを連れ戻すことができた。ミカは、雄羊や油の川が主を喜ばせるだろうかと問う。彼の答えは、公義、いつくしみ、謙遜である。箴言は、正しいことを行うことはいけにえよりも神を喜ばせると言う。それはまた、とがは「いつくしみとまことによって」あがなわれると言う。
“あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた霊です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。その時あなたは義のいけにえと燔祭と全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。”
“わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。”
“「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。”
“正義と公平を行うことは、犠牲にまさって主に喜ばれる。”
“いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる。主を恐れることによって、人は悪を免れる。”
“もしひとりの人が誤って罪を犯すならば、当歳の雌やぎを罪祭としてささげなければならない。祭司は誤って罪を犯した人のために、彼が主の前に誤って罪を犯した時、彼のためにあがないをしなければならない。そうすれば彼はゆるされるであろう。イスラエルの人々のうちで生れた者でも、彼らのうちに寄留している他国の人でも、誤って罪を犯す者には、あなたがたは同一の律法を用いなければならない。しかし、生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚す者であるから、その人は民のうちから断たれなければならない。彼は主の言葉を軽んじ、その戒めを破ったのであるから、その人は必ず断たれ、その罪を負うであろう。”
神殿が倒れたとき:ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイ
ラビたちは神殿が破壊されたときにこの教えを保った。『アボット・デ・ラビ・ナタン』という書がそれを語っている。それは律法の書ではなく、教えの物語と言葉の書である。それは、ミシュナにある賢者たちの言葉『アボット』に添えられた書である。ミシュナは、紀元200年頃の、ユダヤ律法のラビたちによる最初の成文法典である。『アボット・デ・ラビ・ナタン』はその後に編まれた。それは1世紀の主要な賢者ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイについてこう語っている。彼と彼の弟子ラビ・ヨシュアは廃墟となった神殿を見た。ラビ・ヨシュアは、イスラエルの罪があがなわれた場所を嘆いた。ラバン・ヨハナンはホセア書6:6で答えた。慈しみもまたあがないをする。その箇所は続けてダニエルに触れる。彼はどの祭壇からも遠く離れたバビロンで、祈りと善い行いによって神に仕えた。
“ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイはあるときエルサレムを出て、ラビ・ヨシュアが彼に従った。破壊された神殿を見て、ラビ・ヨシュアは言った。「ああ、われわれは災いだ。イスラエル人の罪が贖われた唯一の場所が破壊されたとは」。ラビ・ヨハナンは彼を正して言った。「わが子よ、それを嘆くな。われわれには同じように効き目のある別の贖いの手段がある。すなわち恵みを施すことであり、こう書かれている[ホセア書6:6]。『わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない』。」”
“わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。”
ミシュナとタルムード:悔い改めはどう働くか
ユダヤ律法はまた悔い改めの段階を注意深く定めている。ミシュナは、ハラハー(拘束力のあるユダヤ律法)の定めの中で、悔い改めだけですべての罪が片づくとは言っていない。それは、悔い改めは軽い罪をあがなうと言う。重い罪については、それは罰を贖罪の日ヨム・キプールまで留める。それは、ヨム・キプールは他人に対する悪を、その人がなだめられるまではあがなわないと付け加える。タルムードはこれを、贖罪の日についてのその部分であるヨマの中で論じている。86aでそれはあがないの種類を定めている。86bには「悔い改めは偉大である」についての言葉が来る。これらは律法ではなく教えであるアガダーであり、その一つがホセア書14:3を読んでいる。
ミシュナー(200年頃、ハラハー)はこう裁定する。罪祭と確かな愆祭は贖う。死とヨム・キプルは悔い改め(テシュヴァ)とともに贖う。悔い改めは軽い違反を、積極的な戒めのものも否定的な戒めのものも贖う。重い違反については、悔い改めはヨム・キプルが来て贖うまで罰を保留する。「私は罪を犯して悔い改めよう、罪を犯して悔い改めよう」と言う者には悔い改める機会が与えられず、「私は罪を犯そう、そうすればヨム・キプルが贖ってくれる」と言う者はその日から贖いを得ない。ヨム・キプルは人と神の間の罪を贖うが、他人に対する罪は、その人をなだめるまで贖わない。ラビ・エルアザル・ベン・アザリヤ(1-2世紀)はこれをレビ記16:30から導いている。ラビ・アキバ(2世紀初め)は言う。イスラエルよ、あなたがたは幸いである。ミクヴェが不浄な者を清めるように、天にいますあなたがたの父があなたがたを清められるのだから(エレミヤ書17:13)。
タルムードは贖いの種類についてのラビ・イシュマエル(2世紀)の教えを引いており、そのどれにも悔い改めが必要である。積極的な戒めを破って悔い改める者は、その場を動く前に赦される(エレミヤ書3:22)。禁止については、悔い改めが罰を保留し、ヨム・キプルが贖う(レビ記16:30)。最も重い罪については、悔い改めとヨム・キプルが罰を保留し、苦しみが贖いを完成させる。神の名を冒瀆した者については、死だけがそれを完成させる。バライタで、ラビ・エルアザルは出エジプト記34:7を、神は悔い改める者を赦し、悔い改めない者を赦さないという意味に読んでいる。
「悔い改めは偉大である」についてのタルムードの言葉(アガダー)の中で、レシュ・ラキシュ(3世紀)が二度伝えられている。悔い改めによって故意の罪は過失のようになる(ホセア書14:2)。そしてそれは功徳のようになる(エゼキエル書33:19)。タルムードは二つを調和させる。人が愛から悔い改めるときは功徳のように、恐れからのときは過失のようになる。ラバ・バル・マリの名においてイスラエルの地を引くラビ・イツハク(3-4世紀のアモライーム)は、人と神とを対比している。言葉で侮辱された人は、なだめられることもあればそうでないこともあり、おそらく言葉によってではない。誰かがひそかに罪を犯すとき、神は言葉によってなだめられる。ホセア書14:3が「言葉を携えて」と言うとおりである。聖書は、彼が雄牛を捧げたかのようにさえそれをみなしている。「われわれはくちびるの実をもって雄牛に代えてささげます」。
マイモニデス:悔い改めはすべての罪をあがなう
12世紀のラビ、マイモニデスは、ユダヤ律法の法典『ミシュネー・トーラー』を書いた。それは神殿のない時代のための律法を述べている。悔い改めのほかには何も残っておらず、悔い改めはすべての罪をあがなう。ヨム・キプールそのものが悔い改める者たちのためにあがないをする。彼はまたヨマ86aからのタルムードの段階を保っている。ある罪はヨム・キプールを待ち、より重いものは苦しみを待つ。そのどれも祭壇を待ってはいない。神殿がなければ、ユダヤ律法は赦しにどの祭壇も待たせない。
マイモニデスは(ハラハーとして)、神殿が立っておらず贖いの祭壇がない今、悔い改め(テシュヴァ)のほかには何も残っておらず、悔い改めはすべての罪を贖うと裁定している。一生涯悪人であり最後に悔い改めた人でさえ、その悪のことは何も思い出されない(エゼキエル書33:12)。贖罪の日そのものが悔い改める者たちを贖う(レビ記16:30)。
タルムードは贖いの種類についてのラビ・イシュマエル(2世紀)の教えを引いており、そのどれにも悔い改めが必要である。積極的な戒めを破って悔い改める者は、その場を動く前に赦される(エレミヤ書3:22)。禁止については、悔い改めが罰を保留し、ヨム・キプルが贖う(レビ記16:30)。最も重い罪については、悔い改めとヨム・キプルが罰を保留し、苦しみが贖いを完成させる。神の名を冒瀆した者については、死だけがそれを完成させる。バライタで、ラビ・エルアザルは出エジプト記34:7を、神は悔い改める者を赦し、悔い改めない者を赦さないという意味に読んでいる。
キリスト教の主張:血なしに赦しはない
キリスト教徒は同じ聖書を別の仕方で読む。彼らは、モーセの律法はあがないのために血を求めており、神殿のささげ物はイエスの死を指し示していたと考える。彼らはレビ記17:11、「血は命によって、あがないをする」を引く。彼らはまた新約聖書のヘブル人への手紙9:22、「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」を引く。この読み方によれば、神殿が倒れて以来、イエスの血だけが罪を取り去ることができる。
“肉の命は血にあるからである。わたしはこれをあなたがたに与えて、祭壇の上で、あなたがたの魂のために、あがないをするようにした。血は命によって、あがないをするからである。”
“こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。”
トーラーそのものが血なしに赦している
トーラーはその読み方を支持していない。レビ記17:11は、なぜ血を食べてはならないかを説明している。その場所は祭壇の上だからである。それは血が神の赦される唯一の方法であるとは言っていない。罪祭とは罪をあがなうために携えられるささげ物である。トーラーは最も貧しい人に、血なしにそのために麦粉を携えてくることを許しており、彼は赦される。それはなお祭壇のささげ物であり、レビ記5:1-4に挙げられた罪のために携えられる。各イスラエル人が聖所のために与えた金である半シケルは、「あなたがたの魂のあがない」として与えられる。大祭司アロンの香はあがないをして疫病を止めた。そして罪祭は「誤って」犯された罪のためのものであった。「故意に」、つまり公然と逆らって罪を犯す者には、トーラーは罪祭を与えていない。彼はただ断たれるだけである。いくつかの名指された場合のほかは、故意の罪にはそれ自身のささげ物がなかった。そのような場合の一つは預かり物についての偽りの誓いである(レビ記5:20-26)。故意の罪からの帰り道は、預言者たちが教えたように、贖罪の日と共に悔い改めることであった(レビ記16:30)。
“もしまた山ばと二羽、または家ばとのひな二羽にも手が届かないならば、罪を犯した者は、その罪のための供え物として、麦粉十分の一エパを罪祭として携えてこなければならない。罪祭であるから、その上に油を注いではならない。またその上に乳香を加えてはならない。彼はそれを祭司のもとに携えてこなければならない。祭司はその一握りを記念の分として取り、これを祭壇の上で、主の火祭の上に焼いて煙にしなければならない。これは罪祭である。こうして祭司は、彼がこれらの一つについて犯した罪のために、彼のあがないをしなければならない。そうすれば彼はゆるされるであろう。その残りは素祭と同じく祭司に帰する。”
“「あなたがたの魂のあがないとして主にささげ物をささげる時には、富む者も半シケルより多く出してはならず、貧しい者もそれより少なく出してはならない。あなたはイスラエルの人々から、あがないの銀を取って、これを会見の幕屋の用に当てなければならない。これは主の前にイスラエルの人々のための記念となって、あなたがたの魂のあがないとなるであろう」。”
“モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取り、祭壇の火をこれに入れ、その上に香を盛り、急いでそれを会衆のところに持って行って、彼らのためにあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、見よ、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、香をたいて、民のためにあがないをした。そして彼が死んだ者と生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。”
“イスラエルの人々に言いなさい、もし人が主のしてはならないと命じられた事の一つでも、あやまって犯したならば、すなわち、”
“もしひとりの人が誤って罪を犯すならば、当歳の雌やぎを罪祭としてささげなければならない。祭司は誤って罪を犯した人のために、彼が主の前に誤って罪を犯した時、彼のためにあがないをしなければならない。そうすれば彼はゆるされるであろう。イスラエルの人々のうちで生れた者でも、彼らのうちに寄留している他国の人でも、誤って罪を犯す者には、あなたがたは同一の律法を用いなければならない。しかし、生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚す者であるから、その人は民のうちから断たれなければならない。彼は主の言葉を軽んじ、その戒めを破ったのであるから、その人は必ず断たれ、その罪を負うであろう。”
クルアーン:同じ扉
クルアーンはホセアがしたように罪人たちに語りかけている。絶望するな、アッラー(﷾)はかれに立ち返る者たちにすべての罪を赦されるのだから。無知のうちに悪を行い、それから悔悟して償う者は誰でも、かれが赦し深いお方であることを見いだす。アッラー(﷾)だけが罪を赦され、誰も間に立たない。神殿が倒れて以来のユダヤ教も同じことを教えている。クルアーンはまた、アッラー(﷾)は悔悟する者の悪い行いを善いものに変えられると言う。3世紀のラビ、レシュ・ラキシュは、悔い改めは故意の罪を功徳に変えると言った。タルムードはこれを愛からの悔い改めに当てはめている。この点において、とイスラームは考える、イスラエルの伝統は預言者たちの教えを保った。
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
“また(預言者よ)、われらの御徴を信じる者たちがあなたのもとにやって来た時には、(こう)言うがよい。「あなた方に平安を。あなた方の主は、ご自身に慈悲をお定めになった⁴。本当に誰であろうと、あなた方の内で無知から悪を行ってしまい、それからその後に悔悟して(行いを)正した者、実にかれ(アッラー)は(そのような者に対し、)赦し深いお方、慈愛深いお方なのである」。”
“また、醜行をしたり、(罪を犯すことで)自らに対して不正をしたりした時にはアッラーを思い出し、その罪の赦しを乞う者たち。——アッラーの外に、誰が罪を赦すことが出来ようか?——そして彼らは、(アッラーに悔悟すれば、それを受け入れられることを)知った上で、自分のした(悪い)ことに固執し続けることがない。”
“但し、悔悟し、信仰し、正しい行いを行う者、それらの者たちはアッラーがその悪行を善行に換えて下さる。アッラーはもとより、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだから。”
「悔い改めは偉大である」についてのタルムードの言葉(アガダー)の中で、レシュ・ラキシュ(3世紀)が二度伝えられている。悔い改めによって故意の罪は過失のようになる(ホセア書14:2)。そしてそれは功徳のようになる(エゼキエル書33:19)。タルムードは二つを調和させる。人が愛から悔い改めるときは功徳のように、恐れからのときは過失のようになる。ラバ・バル・マリの名においてイスラエルの地を引くラビ・イツハク(3-4世紀のアモライーム)は、人と神とを対比している。言葉で侮辱された人は、なだめられることもあればそうでないこともあり、おそらく言葉によってではない。誰かがひそかに罪を犯すとき、神は言葉によってなだめられる。ホセア書14:3が「言葉を携えて」と言うとおりである。聖書は、彼が雄牛を捧げたかのようにさえそれをみなしている。「われわれはくちびるの実をもって雄牛に代えてささげます」。
イスラーム自身のささげ物は赦しを買わない
ムスリムもまた、祭りのときとマッカへの巡礼ハッジの間に動物をささげる。しかしクルアーンは、その肉も血もアッラー(﷾)に届かず、ただ敬虔だけがかれに届くとはっきり言っている。祭りのささげ物は感謝であり、その肉は食べられ分け合われる。それは、試練の後に神がアブラハムの子を償われた「この上ない犠牲」を思い起こさせる(37:103-107)。それは神の慈悲によって救われた子であって、血で代価を払われた罪ではなかった。クルアーンが巡礼の規則への違反のためにささげ物を定めている所では、それは断食や貧しい人々に食べさせることも許している。それでそこでも、貧しい人の麦粉の場合のように、血が唯一の道ではない。ムスリムが故意の誓いを破るとき、彼は貧しい人々に食べさせるか着せるか、奴隷を解放するか、断食することでそれを償う。これらのほとんどは慈しみの行いであり、ラバン・ヨハナンが教えたあがないである。イスラームにおいても、マイモニデスが定めるように神殿の律法においても、どのささげ物も悔い改めに取って代わらない。
“その血と肉が、アッラーに届くということでは、断じてない。しかし、あなた方の敬虔さが、かれに届くのである。そのようにかれは、それ(ラクダ)をあなた方のために仕えさせられたのだ。(それは)自分たちを導いて下さったことに関し、あなた方がアッラーの偉大さを称揚するためである。(預言者よ、)善を尽くす者たちに吉報を伝えよ。”
“こうして彼らが(主のご命令に)服し、彼(イブラーヒーム)が彼(イスマーイール)を、こめかみを(地面に)つけて(横向きに)倒した時、われらは彼に呼びかけた。「イブラーヒームよ、あなたは確かに夢を確証した。実にわれらは善を尽くす者たちに対し、このように報いるのだ。本当にこれこそはまさしく、紛れもなき試練であった」。そしてわれらは彼(イスマーイール)を、この上ない犠牲で償った。”
“ハッジとウムラを、アッラーのために全うせよ。それで、もし阻まれてしまったら、(イフラームを解くために、)間単に手に入る供物を(捧げよ)。そして供物がその場に達(し、それを屠殺)するまでは、頭髪を剃ってはいけない。またあなた方の内、(イフラームに入った者で、)病人や、(害虫などが原因で)頭部に問題がある者は誰でも(頭髪を剃ってもよいが)、斎戒、施し、供物の内から償いを(選べ)。また、あなた方が安全になり、ハッジ(の時期)までウムラ(で禁じられていたもの)を堪能するのであれば、手頃な供物を(捧げよ)。それで、それ(供物)を入手出来ない者は、ハッジ(の巡礼月)に三日間、(家族のもとに)帰った後に七日間の斎戒をせよ。これが完全なる十日間である。それは、ハラーム・マスジドに家族のない者に関すること。アッラーを畏れ、アッラーが厳しい懲罰を与えられるお方であることを、知っておくがよい。”
“信仰する者たちよ、あなた方がイフラーム(あるいは聖域)にある時には、狩猟物を殺してはならない。そしてあなた方の内、誰であろうと(それらを)故意に殺してしまった者、(その者には)報いーーカァバ神殿に届く供物として、あなた方の内の公正な男性二人が判定した、彼が殺したのと同様の家畜ーーか、罪滅ぼしーー貧者たちに食を施すか、あるいは斎戒でその代わりとすることーーが(義務として)ある。(それらは、)自分の(した)ことの悪を味わうため。アッラーは、(禁じられる前に)やってしまったことを、大目に見給う。そして誰であろうと、(禁じられた後、意図的にそれを)繰り返す者、アッラーは彼に報復し給う。アッラーは偉力ならびなきお方、報復の主なのだ。”
“アッラーはあなた方を、あなた方の宣誓における軽はずみさゆえに罰せられたりはしない。しかしかれは、あなた方が宣誓を確定し(た後、それを遂行しなかっ)たことに対して、罰せられる。ならば、その罪滅ぼしは、あなた方の土地の人々に食べさせる平均的なもので、十人の貧者に食物を施すことか、または彼らに対する衣服の提供、あるいは首一つの解放(の内、いずれか一つ)である。(それらのいずれも)見出せない者は誰でも、三日間の斎戒(が義務づけられる)。それが、あなた方が誓った際の、あなた方の宣誓(の不履行)に対する罪滅ぼしである。そして(ムスリムたちよ)、宣誓を守るのだ。そのようにアッラーは、あなた方が感謝するようにと、あなた方に(法規定に関する)御徴を明示される。”
マイモニデスは(ハラハーとして)、トーラーの戒めを故意にであれ過失によってであれ破る者は誰であれ、悔い改めるとき神の前で告白しなければならないと裁定している。過失や故意の罪のために罪祭や愆祭を捧げる者も、悔い改めて言葉で告白するまで、その供え物によって贖われない(レビ記5:5)。
“ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイはあるときエルサレムを出て、ラビ・ヨシュアが彼に従った。破壊された神殿を見て、ラビ・ヨシュアは言った。「ああ、われわれは災いだ。イスラエル人の罪が贖われた唯一の場所が破壊されたとは」。ラビ・ヨハナンは彼を正して言った。「わが子よ、それを嘆くな。われわれには同じように効き目のある別の贖いの手段がある。すなわち恵みを施すことであり、こう書かれている[ホセア書6:6]。『わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない』。」”
改宗者に対するような白紙
両方の信仰はまた、それに加わる者の過去を拭い去る。エルサレム・タルムードは紀元400年頃にイスラエルの地で編まれた。それは、ユダヤ教への改宗者がそのすべての罪を赦されることを既知のこととしている。イスラームはそれに入る者について同じことを言う。アムル・イブン・アル=アースがイスラームを受け入れに来たとき、彼はまず赦されることを求めた。預言者(ﷺ)は、イスラームはそれ以前のすべてのものを消し去ることを知らないのかと尋ねた。これはイスラームが埋めるユダヤ教の欠けではない。それは二つが一致するもう一つの点である。
エルサレム・タルムード(アガダー)は、賢者、花婿、君主の罪は彼らが新しい地位に上るときに贖われるという教えを引いている。賢者については、それはレビ記19:32-33を読む。長老を敬うことについての節の後に改宗者についての節が続くので、「改宗者にはそのすべての罪が赦されるように」、叙任される者にはすべての罪が赦される。ラビ・ゼイラ(3-4世紀)はそれを聞いて叙任を受け入れた。
アムル・イブン・アル=アースは死の間際に、イスラーム以前、預言者(ﷺ)ほど自分にとって憎らしい者はなく、彼を殺したいと思っていたと言った。彼は、イスラームを受け入れるために預言者のもとに来たときのことを語った。彼は預言者に、誓約できるよう右手を差し伸べてほしいと頼み、それから自分の手を引っ込めた。なぜかと問われると、彼は条件をつけたい、赦されることだと言った。預言者は、イスラームはそれ以前にあったすべてを拭い去ることを知らないのかと尋ねた。
答えごとに
レビ記 17:11 — 律法(トーラー)、第17章11節 (JPS 1917)
“肉の命は血にあるからである。わたしはこれをあなたがたに与えて、祭壇の上で、あなたがたの魂のために、あがないをするようにした。血は命によって、あがないをするからである。”
引用の目的
キリスト教徒と宣教師たちはこの節を規則として読む。血だけがあがないをする。それで神殿が倒れて以来、ユダヤ人にはイエスを通してのほかにあがないはない。
応答
その節は、なぜ血を食べてはならないかの理由を与えている。それは祭壇に属するからである。それは血が唯一の道だとは言っていない。罪祭は誤って犯された罪のためのものであった。ほとんどの故意の罪にはそれ自身のささげ物がなかった。同じトーラーは最も貧しい人に血なしに麦粉を携えてくることを許し、彼は赦される。金と香もまた「あがない」をする。ソロモンは、どの祭壇からも遠く離れて悔い改める捕囚たちのために赦しを求めた。
結論 — トーラーそのものが血によらないあがないの方法を名指しており、預言者たちは悔い改めを名指している。
ヘブル人への手紙 9:22 — 第9章22節
“こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。”
引用の目的
血を流すことなしには赦しはまったくないので、イエスの血だけが罪を取り去ることができる。
応答
ヘブル人への手紙自身が、「律法に従い」血によってきよめられるのは「ほとんどすべての物」だけだと言っている。それは例外を認めており、トーラーはその一つを名指している。血なしの貧しい人の麦粉の罪祭であり、彼は赦される。それで律法そのものが、流された血なしに罪のゆるしを与えた。ニネベは立ち返って容赦され、何のいけにえも記録されていない。ホセアはくちびるの供え物を雄牛の代わりに置いた。ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイからマイモニデスに至るまで、ラビたちは聖書を同じように読んだ。ヘブル人への手紙9:22についての公開中のページが、その節に完全に答えている。
結論 — ヘブライ語聖書は血なしの赦しを記録しており、ユダヤ律法は常にそれを保ってきた。
バビロニア・タルムード、ヨマ5a — ヨマ篇、第5葉表
燔祭についてのバライタ(ハラハー)で、タルムードは、動物に手を置くこと(セミハー、レビ記1:4)が贖うかどうかを問う。それは、贖いは血によってのみ来ると答え、レビ記17:11を引く。もし人が手を置くことを些細なこととみなしてそれを省くなら、聖書は彼が贖わなかったかのようにみなす。それでも彼は贖ったのである。同じバライタはゼヴァヒーム6aにもある。
引用の目的
宣教師はタルムードそのものを引くかもしれない。「血によらなければあがないはない」。それでラビたちでさえ、赦しには血が必要であることを認めている。
応答
タルムードはこれをささげ物の部分について言っている。それは、動物の上に手を置くことがあがないをするのかと問い、血があがないをすると答えている。それは祭壇の奉仕の規則であって、悔い改めの否定ではない。同じタルムードはヨマ86a-bで、神は悔い改める者を、ささげ物がまったくなくても赦されると教えている。
結論 — ささげ物の中では血があがないをする。ささげ物がなければ、タルムード自身が教えるように、悔い改めがあがないをする。
ミシュナー、ヨマ8:8-9 — ヨマ篇、第8章、ミシュナー8-9
ミシュナー(200年頃、ハラハー)はこう裁定する。罪祭と確かな愆祭は贖う。死とヨム・キプルは悔い改め(テシュヴァ)とともに贖う。悔い改めは軽い違反を、積極的な戒めのものも否定的な戒めのものも贖う。重い違反については、悔い改めはヨム・キプルが来て贖うまで罰を保留する。「私は罪を犯して悔い改めよう、罪を犯して悔い改めよう」と言う者には悔い改める機会が与えられず、「私は罪を犯そう、そうすればヨム・キプルが贖ってくれる」と言う者はその日から贖いを得ない。ヨム・キプルは人と神の間の罪を贖うが、他人に対する罪は、その人をなだめるまで贖わない。ラビ・エルアザル・ベン・アザリヤ(1-2世紀)はこれをレビ記16:30から導いている。ラビ・アキバ(2世紀初め)は言う。イスラエルよ、あなたがたは幸いである。ミクヴェが不浄な者を清めるように、天にいますあなたがたの父があなたがたを清められるのだから(エレミヤ書17:13)。
引用の目的
ユダヤ人の読者は、このページは悔い改めを単純にしすぎていると言うかもしれない。ミシュナでは、悔い改めだけでは軽い罪しかあがなわず、重い罪はヨム・キプールを待つ。伝統的な祈りはまた、神殿の奉仕が戻ることを求めている。
応答
このページはまさにそう言っている。しかしこれらの段階のどれも血を必要としない。マイモニデスがレビ記16:30から定めるように、ヨム・キプールはその日そのものによって悔い改める者のためにあがないをする。神殿がなければ、と彼は定める、悔い改めがすべての罪をあがなう。要点は変わらない。祭壇がない間、神の赦しは差し控えられない。
結論 — ラビの律法において、イスラームにおいてと同じように、赦しは祭壇を待たない。
クルアーン 5:89 — 食卓章、第89節
“アッラーはあなた方を、あなた方の宣誓における軽はずみさゆえに罰せられたりはしない。しかしかれは、あなた方が宣誓を確定し(た後、それを遂行しなかっ)たことに対して、罰せられる。ならば、その罪滅ぼしは、あなた方の土地の人々に食べさせる平均的なもので、十人の貧者に食物を施すことか、または彼らに対する衣服の提供、あるいは首一つの解放(の内、いずれか一つ)である。(それらのいずれも)見出せない者は誰でも、三日間の斎戒(が義務づけられる)。それが、あなた方が誓った際の、あなた方の宣誓(の不履行)に対する罪滅ぼしである。そして(ムスリムたちよ)、宣誓を守るのだ。そのようにアッラーは、あなた方が感謝するようにと、あなた方に(法規定に関する)御徴を明示される。”
引用の目的
ユダヤ人の読者は議論をひっくり返すかもしれない。イスラームも祭りと巡礼で動物をいけにえにし、償いを求めている。それでそれは神殿がそうであった以上にささげ物から自由ではない。
応答
クルアーンはこれに直接答えている。肉も血も届かず、ただ敬虔だけが届く。祭りのささげ物は感謝であり、その肉は食べられ分け合われる。それは、試練の後に神がアブラハムの子を償われた「この上ない犠牲」を思い起こさせる(37:103-107)。それは神の慈悲によって救われた子であって、血で代価を払われた罪ではなかった。クルアーンが巡礼の規則への違反のためにささげ物を定めている所では、それは断食や貧しい人々に食べさせることも許している(2:196、5:95)。イスラームのどのささげ物も悔い改めに取って代わらず、マイモニデスは神殿のささげ物について同じことを言っている。破られた誓いの償いは、貧しい人々に食べさせるか着せるか、奴隷を解放するか、断食することである。これらのほとんどは、ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイがあがないと呼んだ慈しみである。
結論 — イスラームにおいて、ラビたちの律法においてと同じように、どのささげ物も悔い改めに取って代わらない。ささげ物が違反の償いをする所では、断食や施しがその代わりとなりうる。
『ミシュネー・トーラー』悔い改め1:3 — 知識の書、悔い改めの法、第1章、ハラハー3
マイモニデスは(ハラハーとして)、神殿が立っておらず贖いの祭壇がない今、悔い改め(テシュヴァ)のほかには何も残っておらず、悔い改めはすべての罪を贖うと裁定している。一生涯悪人であり最後に悔い改めた人でさえ、その悪のことは何も思い出されない(エゼキエル書33:12)。贖罪の日そのものが悔い改める者たちを贖う(レビ記16:30)。
引用の目的
もしユダヤ教が、マイモニデスが言うように、すでに完全な悔い改めを持っているなら、イスラームは何も加えず、ユダヤ人にはそれを見る理由がない。
応答
このページはユダヤ教に悔い改めが欠けていると主張しているのではない。それは二つが一致することを示している。イスラームはまた、エルサレム・タルムードが改宗者について言うように、新しく来た者に白紙を与えている。ユダヤ教とイスラームを分けるのは赦しではない。それは神がモーセに起こすと約束された預言者であり、このサイトのほかのページがそれを取り上げている。
結論 — 赦しについてユダヤ教とイスラームは一致している。その間の問いは最後の預言者である。
さまざまな視点
ラビのユダヤ教
テシュヴァー、つまり後悔、告白、変えられた生活をもって神に立ち返ることが、かれの赦しをもたらす。神殿が立っていた間、ささげ物は悔い改めと共にあがないをした。今は祭壇がないので、悔い改めがすべての罪をあがない、ヨム・キプールは悔い改める者たちのためにあがないをする。祈りと慈しみがささげ物の場所に立ち、伝統的な祈りは神殿の奉仕が回復されることを求めている。近代の自由主義的な運動である改革派ユダヤ教は、ささげ物の回復を求める祈りを取り除いた。それは、祈りと善い行いがそれらに永遠に取って代わったと考えている。
ホセアはイスラエルに悔い改めの言葉を携えてくるよう告げる。タルムードのある言葉は、ひそかになされた罪については、それらの言葉を若い雄牛のささげ物として読んでいる。
反論
イスラームは悔い改めが帰り道であることに同意する。クルアーンは、アッラー(﷾)はかれに立ち返る者たちにすべての罪を赦されると言う。クルアーンは、アッラー(﷾)は悔悟する者の悪い行いを善いものに変えられると言う。タルムードも同じ教えを保っている。愛からの悔い改めは故意の罪を功徳に変える。
『アボット・デ・ラビ・ナタン』は神殿が倒れた後に何が起こったかを語っている。ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイは、慈しみの行いは祭壇がしたようにあがないをすると教えた。
反論
イスラームは、どのささげ物も善い心に取って代わらないことに同意する。クルアーンは、ささげ物の肉も血もアッラー(﷾)に届かず、ただ敬虔だけが届くと言う。イスラームでは、破られた誓いは貧しい人々に食べさせるか着せるか、奴隷を解放するか、断食することで償われる。これらのほとんどは、ラバン・ヨハナンが教えたように、慈しみである。
ミシュナは、悔い改めは軽い罪をあがない、重い罪については、ヨム・キプールがあがなうまで罰を留めると定めている。
反論
認めよう。そしてこれらの段階のどれも血を必要としない。マイモニデスがレビ記16:30から定めるように、ヨム・キプールはその日そのものによって悔い改める者のためにあがないをする。それで悔い改める者にとって、神の赦しは祭壇を待たない。
マイモニデスは、神殿がなければ悔い改めがすべての罪をあがなうと定めている。
反論
イスラームは悔い改めが祭壇なしにあがなうことに同意し、このページも同じことを言っている。イスラームは同じ赦しを教え、エルサレム・タルムードが改宗者に対してそうするように、新しく来た者に白紙を与えている。二つを分けるのは赦しではなく、神がモーセに起こすと約束された預言者である。
主流のキリスト教
律法はあがないには血が必要であると教えており、神殿のいけにえはイエスを指し示していた。神殿が倒れて以来、赦しは彼の血を通してのみ来る。
レビ記17:11は、あがないをするのは血であると言う。
反論
認めよう。祭壇の上で血はあがないをするが、その節がそう言うのは、なぜ血を食べてはならないかを説明するためである。それは決して血が唯一の道だとは言っていない。同じトーラーは、最も貧しい人を麦粉のささげ物で赦した。ほとんどの故意の罪にはそれ自身のささげ物がなく、預言者たちは悔い改めによって罪人たちを呼び戻した。
ヘブル人への手紙9:22は、血を流すことなしには罪のゆるしはありえないと言う。
反論
ヘブル人への手紙自身が、「律法に従い」血によってきよめられるのは「ほとんどすべての物」だけだと言っている。律法自身の例外は貧しい人の麦粉であり、それについてトーラーは「彼はゆるされるであろう」と言う。まだ宣べ伝えていたとき、イエスは中風の者に「あなたの罪はゆるされた」と告げた。神によって、血を流すことなしに赦されたのである。彼はまたホセアを引いた。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」。
イスラームの視点
アッラー(﷾)はかれに立ち返る者を誰でも、血も仲介者もなしに、かれの慈悲だけによって赦される。ヘブライ語聖書とラビたちも同じことを教え、クルアーンがそれを確証している。
ヘブライ語聖書は、貧しい人の麦粉のささげ物とニネベにおいて、血なしに赦された罪を記録している。ソロモンは祭壇から遠く離れた捕囚たちのために赦しを求めている。
クルアーンは、アッラー(﷾)はかれのもとに立ち返る者たちにすべての罪を赦されると教えている。
クルアーンは、アッラー(﷾)は悔悟する者の悪い行いを善いものに変えられると言う。レシュ・ラキシュは、悔い改めは故意の罪を功徳に変えると言った。
クルアーンは、ささげ物の肉も血もアッラー(﷾)に届かず、ただ敬虔だけが届くと言う。
預言者(ﷺ)は、イスラームはそれ以前のすべてのものを消し去ると教えた。同じように、エルサレム・タルムードは、改宗者はそのすべての罪を赦されると言っている。