短い答え
いいえ。そして新約聖書そのものがそう言っている。多くのプロテスタントのキリスト教徒は、「一度救われたら、いつまでも救われている」と教えている。彼らは、まことの信者は決して失われることはないという意味で言っている。キリストがまだ犯されていない罪でさえ、すべての罪の代価を前もって払ったからである。彼らは、まことの信者は罪を犯し続けないと付け加える。しかしヘブル人への手紙は信者たち自身に警告している。もし私たちが真理を知った後にことさらに罪を犯すなら、罪のためのいけにえはもはや残っておらず、ただ裁きを恐れつつ待つことだけが残る。イエスは、彼を主と呼ぶ者が誰でも天に入るのではなく、彼の父の御旨を行う者が入ると言った。それで信者が何をするかは、なお彼の最後にとって重要である。イスラームは行いが数えられることに同意する。救いは、信じて善い行いをする者たちへの神の慈悲によって来るのであり、神は悔悟する者たちを何度も赦される。
詳しい説明
キリスト教徒が教えること
キリスト教徒は、キリストの死はただ一度で永遠に献げられた一つのささげ物であったと考える。彼らは、それがきよめられる者たちを全うすると言う。神は彼らの罪をもはや思い出さないと約束される。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、救いは行いによらず、恵みにより信仰を通してであると言う。彼は、イエスを主と告白し、神が彼をよみがえらせたと信じる者は誰でも救われると言う。キリスト教徒は、これは罪を犯す許可ではないと付け加える。パウロは「断じてそうではない」と答え、信者は善い行いのために造られていると言う。多くのプロテスタントはさらに進んで永遠の保証を教える。彼らは、まことの信者は決して失われることはないと言う。まだ犯されていない罪でさえ、すべての罪が十字架の上で代価を払われたからである。
“彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。”
“もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない。”
“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。”
“すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”
“では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。”
“わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”
ことさらな罪のためにはいけにえが残っていない
一つのささげ物が永遠にと語るヘブル人への手紙の同じ章が、信者にも警告している。真理の知識を受けた後にことさらに罪を犯す者には、いけにえは残っておらず、ただ裁きだけがある。それから書き手はこれを、モーセの律法を軽んじてあわれみを受けることなく死んだ人と比べている。それでそのささげ物は、信者が後に何をしようとも彼を覆うのではない。彼の最後はなお、彼が信じた後にどう生きるかにかかっている。
“もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。”
“モーセの律法を無視する者は、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられる。神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。”
善い行いはなお求められている
ヘブル人への手紙は信者たちに、互いに愛と善い行いとを励ますよう告げる。新約聖書のもう一つの手紙であるヤコブの手紙は、行いのない信仰が何の役に立つのかと問う。それは、人が義とされるのは行いによるのであって、信仰だけによるのではないと答える。旧約聖書の預言者エゼキエルはすでに、正しい人が罪に転じるなら、彼はその中で死ぬと言っていた。彼の以前の正しさは覚えられない。
“互に愛と善行とを励むように心がけ、”
“わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。”
“これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。”
“しかし義人がその義を離れて悪を行い、悪人がするもろもろの憎むべき事を行うならば、彼は生きるであろうか。彼が行ったもろもろの義は覚えられず、彼が犯したとがと、彼が犯した罪とのために、彼は死ぬ。”
イエスが言ったこと
イエスは、彼を「主よ、主よ」と呼ぶだけでは十分でないと言った。彼の父の御旨を行う者だけが御国に入る。ある人が彼に永遠の命をどうすれば得られるかと尋ね、彼は答えた。いましめを守りなさい。彼は、最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教える者は、御国で最も小さい者と呼ばれると警告した。これらのどれも、信仰だけが人の将来の罪を前もって片づけるという約束には合わない。
“わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。”
“イエスは言われた、「なぜわたしをよい者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。”
“それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。”
信じた後の人生はなお試しである
信者は最初に信じた後も何年も生きる。なぜかについての聖書自身の答えは、人生はなお試練だということである。ヤコブは、命の冠は試錬を耐え忍ぶ人に、彼が試されたときに来ると言う。なお試練の下にある人生は、その最後がまだ決まっていない人生である。クルアーンも同じことを言う。アッラー(﷾)は、あなた方のいずれがより善い行いかを試すために死と生を創られた。人々は、「私たちは信仰した」と言うだけで、試練にかけられることもなく放って置かれることはない。
“試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。”
“(人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびないお方、赦し深いお方であられる。”
“一体人々は、「私たちは信仰した」と言うことで、試練にかけられることもなく、放って置かれるとでも思ったのか?”
イスラームが教えること
クルアーンは救いを信仰と正しい行いの両方に結びつけている。それはムスリムにも啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)にも、彼らの夢想は通らないと告げる。悪事を行う者は誰でもその報いを受ける。誰も他人の重荷を負わず、各人には自分が努めたものだけがある。悔悟の扉は開かれたままである。アッラー(﷾)は、悔悟し、信仰し、正しいことを行う者たちを何度も赦される。かれは彼らの悪い行いを善いものに変えることがおできになる。赦しは赦された者の崇拝を終わらせない。預言者(ﷺ)は夜、足が裂けるほど長く礼拝した。アーイシャは、アッラー(﷾)が彼の過去と未来の過ちを赦されたのに、なぜそうするのかと尋ねた。彼は、自分はアッラー(﷾)の感謝する僕でありたいのだと答えた。その約束は神からかれの預言者(ﷺ)へ、啓示によって来たものである。それはすべての信者の将来の罪を覆う支払いではなかった。
“(ムスリムたちよ、アッラーのお約束とは)あなた方の夢想によるものでもなければ、啓典の民の夢想によ(って得られ)るものでもない。悪事を行う者は誰でもその報いを受けるのであり、その者はアッラーの外に、自分にとってのいかなる庇護者や援助者も見出すことがないのだ。”
“そして男性であれ女性であれ、誰であろうと信仰者で正しい行いを行う者、それらの者たちは天国に入る。彼らは、斑点一つほども不正に扱われることはない。”
“時間にかけて(誓う)。本当に人間は、まさしく損失の中にある。信仰し、正しい行いを行い、真理(の固守とアッラーへの服従)を勧め合い、忍耐を勧め合う者たち以外は。”
“(罪の)重荷を背負う者は、他者(が犯した罪)の重荷まで背負うことがない、ということを(、知らされなかったのか)?また人間には、自分が努力したもの(の報い)しかない、ということを?”
“本当にわれは、悔悟し、信仰し、正しい行いに励み、そして導かれた者に対し、実に赦し深い者なのである。”
“但し、悔悟し、信仰し、正しい行いを行う者、それらの者たちはアッラーがその悪行を善行に換えて下さる。アッラーはもとより、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだから。”
“(使徒よ、われがこう言っている、と言え。)「自分自身に対し、(罪という重荷を)背負いに背負った、わが僕たちよ。アッラーのご慈悲に絶望するのではない。本当にアッラーは、罪を全てお赦しになるのだから。本当にかれこそは、赦し深いお方、慈愛深いお方なのだぞ。”
アーイシャによれば、預言者(ﷺ)は夜にあまりに長く礼拝したので、その足がひび割れた。アッラーは彼の過去と未来の過ちを赦されたのに、なぜそうするのかと彼女は尋ねた。彼は答えた。私はアッラーの感謝するしもべであることを愛さずにいられようか。
節ごとに
ヘブル人への手紙 10:17 — 第10章17節
“もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない。”
引用の目的
神は信者の罪をもはや思い出さないと約束されたので、過去と未来のすべての罪はキリストにおいてすでに赦されている。
応答
九節後に同じ書き手は、真理を知った後のことさらな罪のためにはもはやいけにえはなく、ただ裁きだけがあると言う。17節の約束は、後の節が否定することを意味することはできない。
結論 — ヘブル人への手紙は、信者が何をしようとも前もって赦されていると教えてはいない。
ヘブル人への手紙 10:26-27 — 第10章26-27節
“もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。”
引用の目的
多くのキリスト教徒は「ことさらに罪を犯し」を、信者の日々の罪ではなく、キリストから完全に離れることとして読む。彼らは、29節が神の子を踏みつけることについて語っていることに注目する。
応答
その読み方によってさえ、警告は「わたしたち」、つまり信者たちに向けて書かれている。それは離れる者に対する火の裁きで終わっている。書き手は、人が信じた後に何をしようとも十字架が彼の最後を決めたとは扱っていない。ある者は、離れる者は決してまことの信者ではなかったと答える。しかし書き手は「わたしたち」と言い、「自分がそれによってきよめられた」血について語っている(10:29)。彼は彼らをきよめられた信者として扱っている。
結論 — ヘブル人への手紙は信者たちに、イエスとクルアーンが教えるように、信じた後に彼らが何をするかが彼らの最後にとって重要であると警告している。
エペソ人への手紙 2:8-9 — 第2章8-9節
“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。”
引用の目的
救いは行いによらず、恵みにより信仰を通してであるので、行いはそれに何の役割も果たさない。
応答
次の節は、信者は善い行いをするために造られたと言う。ヤコブは行いのない信仰が救いうるかと問い、人が義とされるのは行いによるのであって、信仰だけによるのではないと答える。イエスは、父の御旨を行う者が御国に入ると言った。
結論 — 新約聖書は全体として、信仰が行いから離れて立つことを許さない。
さまざまな視点
主流のキリスト教
キリストの一つのささげ物は、恵みにより信仰を通して信者を救う。善い行いはまことの信仰に続くが、それは救いを稼ぐのではなく、恵みは罪を犯し続ける言い訳ではない。
ヘブル人への手紙は、キリストのただ一つのささげ物が、きよめられる(聖とされる)者たちを永遠に全うしたと言う。
反論
ヘブル人への手紙は確かにこう言っている。しかし同じ章の後の方で、ヘブル人への手紙は、真理を知った後のことさらな罪のためにはいけにえは残っておらず、ただ裁きだけがあると警告している。それで「永遠に」は、信者が何をしようとも彼の最後が決まっているという意味ではありえない。
パウロは、救いは行いによらず、恵みにより信仰を通してであると教えている。
反論
パウロは確かにこう言っている。しかしヤコブは、人が義とされるのは行いによるのであって、信仰だけによるのではないと言う。そしてイエスは、彼の父の御旨を行うことを御国への道とした。
多くのプロテスタントは、十字架はまことの信者の過去と未来の罪を覆うと考える。神は、と彼らは言う、それらをもはや思い出されない。
反論
ヘブル人への手紙10:17は確かに、神は彼らの罪をもはや思い出さないと言っている。しかし九節後に同じ書き手は、ことさらな罪のためにはもはやいけにえはなく、ただ裁きだけがあると言う。エゼキエルもまた、正しい人が罪に転じるなら、彼はその中で死ぬと言っている。
イスラームの視点
救いは、信じて善を行う者たちへの神の慈悲によるものである。どのいけにえも罪を前もって覆わず、誰も他人の罪を負うことはできない。悔悟する者は誰でも赦される。
ヘブル人への手紙は、真理を知った後のことさらな罪のためにはいけにえは残っておらず、ただ裁きだけがあると言う。
パウロもまた、恵みは罪を犯す許可ではないと言う。
イエスは、御国に入ることは父の御旨を行い、いましめを守ることにかかっていると言った。
ある者は、どの信者の将来の罪も、彼が何をしようとすでに代価が払われていると教える。それは、聖書が彼を抑えるために用いる裁きへの恐れを取り除いてしまう。
ヤコブは、命の冠は試されたときに耐え忍ぶ者に与えられると言う。それで信者が信じた後の人生はなお試しである。
クルアーンは、人は夢想によってではなく、信仰と行いによって裁かれると教えている。アッラー(﷾)は悔悟する者たちを赦される。