短い答え
神は待たれる必要がありませんでした。かれは赦すために決して死を必要とされなかったからです。クルアーンは、アダムは木から食べた後に悔い改め、神は彼の悔悟を受け入れられたと言っています。どんな犠牲も必要とされず、誰も他の者が彼の罪の代価を払いませんでした。キリスト教の説明では、神はアダムの時代から人々が罪を犯すことを知っておられたのに、その救済策は数千年後に来ました。聖書自身が、キリスト教徒の語る十字架よりずっと前に、神がかれのもとに立ち返った人々を赦されるのを示しています。そして全能であられる神は、ただかれの意志だけによって赦すことがおできになるのです。
詳しい説明
アダムは悔い改め、赦された
クルアーンはアダムの物語を、待たされたままの負債なしに語っています。アダムとその妻は自分たちの過ちを認め、赦しを求めました。神はアダムに悔悟の言葉を教え、彼に向き直り、彼を選び、彼を導かれました。罪はそれが始まった所で終わり、誰も他の者がその代価を払うよう求められませんでした。
“二人は申し上げた。「我らが主よ、私たちは自分自身に不正を犯しました。そしてあなたが私たちをお赦しになり、ご慈悲をかけて下さらなければ、私たちは間違いなく損失者の類いとなってしまいます」。”
“それからアーダムは、彼の主から御言葉を授かった。そして(その御言葉で悔悟し)、かれらはその悔悟をお受け入れになった。本当にかれこそは、よく悔悟をお受け入れになるお方、慈愛深いお方なのだから。”
“それから、かれの主は彼(アーダム)をお選びになり、彼の悔悟をお受け入れになり、お導きになった。”
帰り道はあらゆる民に開かれていた
クルアーンは、地上のあらゆる民に警告者がいたと言っています。あらゆる使徒が同じ呼びかけを携えて来ました。アッラー(﷾)に仕え、悪から離れよ、と。ですからアダムとイエスの間のどの民も、神のもとへの帰り道なしに残されはしなかったのです。
“本当にわれらはあなたを、吉報を伝える者、警告を告げる者として、真理と共に遣わした。そして、警告者が(出現しては、不信仰の結末を警告し、)過ぎ去っていかなかった共同体など、ないのだ。”
“われらは確かに、あらゆる共同体へと使徒を遣わし(て、こう伝えさせ)た。「アッラー(だけ)を崇拝し、ターグートを避けよ」。そして彼らの内には、アッラーがお導きになった者もあり、また彼らの内には、(誤った道に頑迷に従ったことで、)迷妄が確定した者もある。ならば、あなた方は地上を旅し、(使徒たちを)嘘つき呼ばわりした者たちの結末が、いかなるものであったかを見てみるがよい。”
キリスト教徒が言うこと
キリスト教徒は、神はかれが選ばれた時、「時の満ちるに及んで」御子を遣わされたと答えます。一世紀のキリスト教の宣教者パウロは、「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた」と書いています。見のがすとは赦すことであり、忍耐とは辛抱強さのことです。多くの人はこれを、十字架以前に生きた人々のための前もっての赦しとして読みます。苦しみについて、パウロは、信者たちは「からだのあがなわれること」を待ちながら今なおうめいていると言っています。
“しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。”
“神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、”
“それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。”
十字架なしの聖書の中の赦し
もしキリスト教徒の語る十字架なしには誰も赦されえないのなら、イエス以前の世代には何の望みもなかったでしょう。聖書はその反対を示しています。紀元前六世紀のヘブライの預言者エゼキエルは、自分の罪から立ち返る悪人は生きると言っています。ヨナが警告した町ニネベはその悪から立ち返り、免れました。イエスは、憐れみを求めた取税人が義とされて家に帰ったと言っています。どの箇所もそれ自身の理由、つまり罪人が立ち返ることを挙げており、どれもまだ来ていない死に触れてはいません。
“しかし、悪人がもし、その犯したすべての罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したすべてのとがは覚えられない。彼はその行った正義のために生きる。”
“神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らに下すと言われた災について悔い、これを行われなかった。”
“ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。”
赦す力は神に属する
聖書は神を全能者と呼び、かれにとって不可能なことは何もないと言っています。ですから赦しはかれの意志に拠っているのです。新約聖書の福音書は、イエスがまだ宣べ伝えていた間に、中風の人にその罪が赦されたと告げるのを示しています。マタイは、群衆がこのような権威を人々にお与えになった神をあがめたと言っています。
“アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」”
“神には、なんでもできないことはありません。”
“イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。”
“群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。”
神は人身御供を退けられた
キリスト教徒はしばしば、罪の重さのためにイエスの死は苦痛に満ちた恥ずべきものでなければならなかったと言います。けれども聖書の神は、子どもを焼くことを「わたしはそれを命じたことはなく」とされたこととして断罪されました。紀元前八世紀のヘブライの預言者ホセアを通して、かれは捧げ物よりも憐れみを望むと言われました。アブラハムが自分の息子を捧げようとしたとき、神は彼を止められました。「わらべに手をかけてはならない」と。
“また彼らはベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。”
“わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。”
“彼は言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。”
節ごとに
ガラテヤ人への手紙 4:4 — 第4章4節
“しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。”
引用の目的
神は歴史の中のふさわしい時、「時の満ちるに及んで」御子を遣わされた。だからその時期はかれの計画の一部であった。
応答
その教義は、その死なしにはどんな罪も取り除かれえないと言っています。アダムから数千年後に選ばれた時は、世代が救済策の前に生きて死んだことを意味します。それなのに預言者たちは、神が人々をその時代に、彼らがかれのもとに立ち返るとすぐに赦されるのを示しているのです。
結論 — 赦しはキリスト教徒の語る十字架よりずっと前に与えられており、ですから赦しが十字架を待ったことは一度もなかったのです。
ローマ人への手紙 3:25 — 第3章25節
“神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、”
引用の目的
イエス以前に生きた人々は、来たるべき十字架のゆえに、前もって赦されたのである。
応答
ヨナもイエスもその理由を挙げていません。ニネベが免れたのは、彼らが「その悪い道を離れた」からでした。取税人が義とされて家に帰ったのは、「自分を低くする者は高くされるであろう」からでした。どの箇所も罪人自身が立ち返ることを挙げています。エゼキエルは、立ち返る人について「その犯したすべてのとがは覚えられない」と言っています。
結論 — これらの赦しについての聖書自身の理由は悔い改めと謙遜であって、まだ来ていない死ではありません。
さまざまな視点
主流のキリスト教
罪は完全な犠牲を必要とし、神はかれが選ばれた時に御子を遣わされた。十字架以前に生きた人々は、それを見越して赦されたのである。
パウロは、神は「時の満ちるに及んで」御子を遣わされたと書いています。キリスト教徒はこれを、歴史の中で神が選ばれた時として読みます。
反論
パウロは確かに神がかれの時を選ばれたと言っています。けれども、もし赦しがキリスト教徒の語る十字架を必要としたのなら、全世代がそれなしに生きて死んだことになります。それなのに預言者たちは、神が人々をその時代に、彼らが立ち返るとすぐに赦されるのを示しているのです。
パウロは「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた」と語っています。キリスト教徒はこれを、十字架以前の人々のための前もっての赦しとして読みます。
反論
パウロの言葉はそのように読むこともできます。けれどもエゼキエルは、立ち返る人について「その犯したすべてのとがは覚えられない」と言っています。取税人が義とされて家に帰ったのは、彼が自分を低くしたからでした。
イスラームの視点
神はかれに向かう者を誰でも赦され、いつもそうしてこられました。アダムは悔い改めて赦され、あらゆる民に使徒がいました。
クルアーンは、アダムが悔い改め、神は犠牲なしに彼に向き直られたと教えています。
クルアーンは、あらゆる民に警告者がいたと教えています。ですからどの民も、神のもとへの帰り道なしに残されはしなかったのです。
聖書は、人々が自分の罪から立ち返ったときに赦されたことを記録しており、彼らが立ち返ったことをその理由として挙げています。
新約聖書の福音書は、キリスト教徒の語る十字架よりずっと前に、イエスがある男の罪が赦されたと宣言したことを記録しています。それらはまた、群衆がこのような権威を人々にお与えになった神をあがめたことも記録しています。
すべてを知っておられる神は、アダムの時代から人々が罪を犯すことを知っておられました。数千年も遅らされた救済策は、全世代をそれなしに残すことになるでしょう。
全能の神はかれの意志だけによって赦すことがおできになり、ですからどんな死も必要とされませんでした。
エレミヤを通して、神は子どもを焼くことを、かれが命じられなかったこととして断罪されました。アブラハムが自分の息子を捧げようとしたとき、神は彼を止められました。