短い答え
いいえ。ヨハネによる福音書17:5で、イエスは祈っています。「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」。キリスト教徒はこれを、イエスが創造の前に神として生きていたこととして読んでいます。けれども聖書はしばしば、神の計画をまるでそれがすでにそこにあるかのように語っています。黙示録はイエスを「世の初めからほふられた小羊」と呼んでいますが、彼は創造の前に殺されたのではありません。ペテロは、キリストは「天地が造られる前から、あらかじめ定められていた」と言っています。パウロは、信じる者たちも世の前に選ばれたと言っています。ユダヤ教の教師たちは、メシアの名は世界の前に造られたと言いました。同じ祈りの中で、イエスはこの栄光を弟子たちに与えています(17:22)。そして彼は父を「唯一の、まことの神」と呼んでいます(17:3)。クルアーンは、イエスはアーダムのように創られたと言っています(3:59)。
詳しい説明
その節が言っていること
ヨハネによる福音書17章は祈りです。イエスは天を仰ぎ、父に語りかけています。5節で彼は求めています。「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」。多くのキリスト教徒は、これはイエスが創造の前に神と共に、神として生きていたことを示していると言います。問題は、ここで「持っていた」が何を意味するかです。聖書の残りの部分は、ありふれた語り方を示しています。神が計画されたことは、すでにそこにあるものとして語られるのです。
“父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。”
世の前にほふられた、しかし実際にではなく
黙示録は「世の初めからほふられた小羊」について語っています(13:8)。キリスト教徒は、イエスが創造の前に殺されたとは信じていません。彼らはそれを、初めから定められた神の計画として読んでいます。一部の現代の聖書は、代わりに「世の初めから」を書の中の名前に結びつけています。けれどもペテロはそれをキリストについてはっきりと言っています。ペテロはキリスト自身について同じことを言っています。彼は「天地が造られる前から、あらかじめ定められていたが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れた」のです(ペテロの第一の手紙1:20)。あらかじめ定められたとは、前もって計画されたことを意味します。ですからキリストは世の前に計画され、後に現れたのです。
“そして、地に住む者で、世の初めからほふられた小羊のいのちの書に、その名がしるされていない者はみな、彼を拝むであろう。”
“キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ定められていたが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。”
世の前に選ばれた信じる者たち
パウロは同じ言葉を普通の信じる者たちについて用いています。神は「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」(エペソ人への手紙1:4)。恵みは「世の始まる前に、キリスト・イエスにあって、わたしたちに賜わった」のです(テモテへの第二の手紙1:9)。イエスは、御国は「世の初めからあなたがたのために用意されている」と言っています(マタイ25:34)。神はエレミヤに告げられました。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り」(エレミヤ書1:5)。これらの人々の誰も創造の前に生きていたのではありません。彼らは神の知識と計画の中にあったのです。ですから「世の前に」は、誰かがその時に生きていたことを証明しません。
“すなわち神は、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、愛のうちにみまえにきよく傷のない者となるようにして下さった。”
“神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画と恵みとによるのである。この恵みは、世の始まる前に、キリスト・イエスにあって、わたしたちに賜わったものであって、”
“そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」”
“わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。”
ユダヤ教の教師たちはどのように語ったか
ユダヤ教の教えの大きな集成であるタルムードは、世界の前に造られた七つのものを挙げています。それにはトーラー、悔い改め、エデンの園、そしてメシアの名が含まれています。メシアについて、それは詩篇72:17を引いています。ユダヤ教の教師たちはこれを、メシアが神であったという意味には取りませんでした。それは、神が初めから彼を計画しておられたという意味でした。ヨハネによる福音書17:5も、同じように自然に読めるのです。
ある教えは、七つのものが世界より前に創造されたと言う。トーラー、悔い改め、エデンの園、ゲヘナ、栄光の御座、神殿、そしてメシアの名である。メシアについては、それは詩篇72:17「その名は太陽より先にあった」を引いている。同じ一覧はネダリーム39bにもある。
同じ栄光が弟子たちに与えられた
神が「わたしはわが栄光をほかの者に与えない」(イザヤ書42:8)と言われるので、これは神ご自身の栄光に違いないと言う人もいます。けれども同じ祈りの後の方で、イエスは言っています。「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」(ヨハネ17:22)。ですからその栄光はイエスに与えられたものであり、彼はそれを弟子たちに渡したのです。もしそれが神だけに属する栄光であるなら、弟子たちもそれを共にすることになるでしょう。どのキリスト教徒もそうは言いません。24節で、彼は再び、自分の栄光は自分に与えられたものだと言っています。「天地が造られる前からわたしを愛して下さって」と。
“わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。”
“わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。”
“父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。”
同じ祈りが唯一のまことの神の名を挙げている
イエスはこの祈りを、神が誰であるかを言うことから始めています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。彼は父を唯一のまことの神と呼び、自分自身を遣わされた者と呼んでいます。彼は祈り、栄光を与えられることを求めています。神は祈られず、誰もかれに、かれが欠いている栄光を与えることはありません。クルアーンは言っています。「アッラーの御許におけるイーサーの状況は、まるでアーダムのようなもの」(3:59)。アーダムのように、彼は創られ、そして尊ばれたのです。
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”
“本当に、アッラーの御許におけるイーサーの状況は、まるでアーダムのようなもの。かれ(アッラー)が土から彼(アーダム)を創造され、それに「(人間と)なれ」と仰せられるだけで、それは(そう)なるのである。”
節ごとに
ヨハネによる福音書 17:5 — 第17章5節
“父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。”
引用の目的
イエスは世界が存在する前に父と共に栄光を持っていた。だから彼は創造の前に子なる神として生きていたのだ。
応答
聖書は同じ「世の前に」を神の計画について言っています。小羊は「世の初めからほふられた」のであり、キリストはその時「あらかじめ定められていた」のです。信じる者たちもその時選ばれました。同じ祈りの中で、イエスは自分の栄光を弟子たちに与え、父を「唯一の、まことの神」と呼んでいます。
結論 — 聖書の中の「世の前に」は、神が計画されたことを示しています。それはイエスを神にはしません。
さまざまな視点
主流のキリスト教
キリスト教徒はヨハネによる福音書17:5を、イエスが父と共にしていた栄光を思い起こしているものとして読んでいます。彼らは、彼は創造の前に子なる神としてそれを持っていたと言います。
ヨハネによる福音書17:5で、イエスは世が造られる前に父と共に持っていた栄光について語っている。だから彼は創造の前に存在していた。
反論
聖書は神の計画をすでにそこにあるものとして語っています。キリストは「天地が造られる前から、あらかじめ定められていた」のです(ペテロの第一の手紙1:20)。小羊は「世の初めからほふられた」のです(黙示録13:8)。信じる者たちも世の前に選ばれましたが(エペソ人への手紙1:4)、彼らはその時に生きていたのではありません。
神はかれの栄光を誰とも共にされない(イザヤ書42:8)。イエスは父と共に栄光を持っていた。だからイエスは神だ。
反論
同じ祈りの中で、イエスはその栄光を弟子たちに与えています。「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」(ヨハネ17:22)。ですからそれは彼に与えられた栄光であって、神がご自身のために保っておられる栄光ではありません。
イエスは「みそばで」と言っている。だから彼は計画においてだけでなく、人格として父と共にあったのだ。
反論
神が計画され愛されるものは、それが存在するようになる前にかれと共にあります。イエスは、父は「天地が造られる前から」自分を愛してくださったと言っています(17:24)。神はエレミヤを母の胎に形づくられる前に知っておられました(エレミヤ書1:5)。その節は決してイエスを神と呼んでいません。同じ祈りの中で、彼は父を「唯一の、まことの神」と呼んでいます(17:3)。
イスラームの視点
イエスは造られた使徒でした。ヨハネによる福音書17:5は、聖書のいつもの仕方で、神が彼のために計画されたことについて語っています。同じ祈りは父を唯一のまことの神と呼んでいます。
黙示録はイエスを世の初めからほふられた小羊と呼んでいます。キリスト教徒はこれを出来事ではなく計画として読んでいます。
ペテロは、キリストは天地が造られる前からあらかじめ定められており、終りの時に現れたと言っています。
パウロは、信じる者たちは天地の造られる前から選ばれたと言っています。
タルムードは、メシアの名は世界の前に造られたと言っています。
イエスは、自分は与えられた栄光を弟子たちに与えたと言っています。
同じ祈りの中で、イエスは父を唯一のまことの神と呼んでいます。
クルアーンは、イエスは神の命令によって創られたアーダムのようであると言っています。