短い答え
はい、それ自身の説明によれば。キリスト教徒は、何世紀も前のインカやマヤの子供の生贄のような人身御供を正しく断罪している。今日自分の息子を献げた父は殺人で裁かれるであろう。それでもキリスト教徒は、神はご自身の子をほかの者の罪のための献げ物として死なせるために渡されたと信じている。パウロは、キリストはご自身を「神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえ」としてささげたと言う。それは奇妙な矛盾である。トーラーは息子や娘を焼くことを忌むべきことと呼んでいる。神はアブラハムが自分の息子を傷つける前に彼を止められた。預言者ミカは、神は人の罪のためにその長子を望まれるのかと問う。彼の答えは、公義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことである。イスラームでは誰もほかの者の罪のために死なない。クルアーンは言う。「その血と肉が、アッラーに届くということでは、断じてない。しかし、あなた方の敬虔さが、かれに届くのである」。
詳しい説明
キリスト教徒は十字架をどう描いているか
新約聖書はイエスの死を神殿の犠牲の言葉で描いている。パウロは、キリストは私たちのためにご自身を「神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえ」としてささげたと言う。彼は彼を「わたしたちの過越の小羊」と呼び、私たちのために屠られたと言う。ヘブル人への手紙は、彼は「ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために」現れたと言う。バプテスマのヨハネは彼を、世の罪を取り除く神の小羊と呼んでいる。そしてパウロは、神は彼を、彼の血への信仰によるなだめの供え物、怒りを退ける献げ物として立てられたと言う。それでキリスト教の中心的な信仰は、神が一人の人の死をほかの者の罪のための献げ物として受け入れられたということである。
“また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。”
“新しいこねかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。”
“もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。”
“その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」”
“神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、”
奇妙な矛盾
キリスト教徒は人身御供をどこで見いだしても正しく断罪している。クスコの司祭クリストバル・デ・モリーナは、インカがすべての州から十歳ほどの少年少女を首都に連れて来たことを記録した。そこで「子供たちは絞め殺され…埋められた」のであり、インカの神々への献げ物としてであった。フランシスコ会の修道士ディエゴ・デ・ランダは、困難の時にマヤの祭司たちは人身御供を命じ、ある人々は献身から自分自身の幼い子供を差し出したと書いた。今日、献げ物として自分の息子を殺した父は殺人で裁かれるであろう。それでも新約聖書は、神は「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために渡された」と言う。それは神は「そのひとり子を賜わった」と言う。どの父においても犯罪であろうことを、キリスト教徒は神の最大の愛の行いとして賛美している。
クスコの司教のために書いたモリーナは、インカの支配者パチャクテクが始めた生贄カパック・コチャを描いている。各地方は各系統から十歳ほどの少年少女を一人か二人、布、家畜の群れ、金銀とともにクスコに連れて来た。彼らが創造主、太陽、雷、月の像の周りを歩いた後、インカは供物を諸地方の主な聖所に分け与えさせた。「こうして子供たちは絞め殺され、羊の銀の像とともに埋められた」。遠くの聖所では、「子供たちはまず絞め殺されてから、羊、子羊、布とともに生贄として焼かれた」。支配者は統治を始めるときにこれらの生贄を捧げ、聖所が彼に健康を与え、その地を平和に保つようにした。
ユカタンのフランシスコ会修道士ランダは、動物が生贄にされる祭りのほかに、祭司は何かの困りごとや必要のために人を生贄にするよう命じたと書いている。奴隷を買えるように皆が出し合い、あるいは信心から幼い子供を差し出す者もいた。その子らは祭りの日まで大事にされ、逃げないように厳しく見張られた。彼は、犠牲者が丸い石の上に仰向けに寝かされ、四人の男に押さえられ、生きたまま心臓を抉り出されて祭司に渡される様子を描いている。彼はまた、人々が生贄として人を生きたまま投げ込んだチチェン・イッツァの泉についても描いている。
“ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。”
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”
トーラーは人身御供を禁じている
モーセの律法は、カナン人の神モレクに子供をささげることを禁じている。それは、カナンの諸国民は自分たちの神々のために息子や娘を火で焼いたと言う。そしてそれはこれを主が憎まれることと呼んでいる。エレミヤを通して、神は、民は息子や娘を焼くために高き所を築いたと言われる。「わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった」。トーラーでは、罪のための献げ物は動物であり、貧しい者には小麦粉でさえある。どこにおいても神は、ある人の罪を赦すためにほかの人の死を求められない。
“あなたの子どもをモレクにささげて、火の中を通らせてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。”
“あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々に行い、むすこ娘をさえ火に焼いて、その神々にささげたからである。”
“また彼らはベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。”
“もしまた山ばと二羽、または家ばとのひな二羽にも手が届かないならば、罪を犯した者は、その供え物として麦粉十分の一エパを罪祭として携えてこなければならない。罪祭であるから、その上に油を注いではならない。またその上に乳香を加えてはならない。彼はそれを祭司のもとに携えてこなければならない。祭司はその一握りを取り、記念の分としてこれを祭壇の上で、主の火祭の上に焼かなければならない。これは罪祭である。こうして祭司は、彼がこれらの一つについて犯した罪のために、彼のあがないをしなければならない。そうすれば彼はゆるされるであろう。その残りは素祭と同じく祭司に帰する。”
神はアブラハムを止められた
アブラハムが自分の息子をささげようとしたとき、神の御使が彼を止めた。「わらべに手をかけてはならない」。その話は、神が人の献げ物を受け入れられることではなく、拒まれることで終わっている。何世紀も後に、預言者ミカは、自分の咎のために長子を、自分の魂の罪のために体の実を与えるべきかと問う。彼は、神はすでに何が良いかを示されたと答える。公義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことである。イエス自身、パリサイ人たちに、神はいけにえではなく慈しみを望まれるということが何を意味するかを学べと告げた。
“彼は言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。”
“主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか。人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。”
“「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。”
聖書が記録している人身御供
聖書は人身御供を記録しており、それらを恐怖をもって扱っている。士師エフタは、自分の家から最初に出て来るものを何でもささげると誓い、それは彼の娘であった。彼女自身が彼に誓いを守るよう告げ、彼はそうした。モアブの王は戦いに負けそうになったとき、町の城壁の上で長男を燔祭としてささげた。進んでささげることは、そのような献げ物を正しくはしない。エフタの娘は同意したが、それでもトーラーは息子や娘を焼くことを忌むべきことと呼んでいる。
“エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰る時に、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。”
“娘は彼に言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。”
“二か月の後、彼女は父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。これによってイスラエルに一つのならわしができた。”
“そこで彼は自分に代って王となるべき長子を取り、城壁の上で燔祭としてささげた。その時イスラエルに対して大いなる憤りが起ったので、彼らは彼を離れて自分の国に帰った。”
“あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々に行い、むすこ娘をさえ火に焼いて、その神々にささげたからである。”
誰もほかの者の罪のために死なない
クルアーンは、重荷を負う者は誰もほかの者の重荷を負わないと言う。アブラハムが息子をささげる用意ができたとき、アッラー(﷾)はその少年を大いなる犠牲、一匹の動物によって贖われた。それで人の血は流されなかった。クルアーンは自分自身の子供を殺した異教徒を咎めている。それは、愚かさから自分の子供を殺す者たちは失われていると言う。イスラームにおける動物の犠牲でさえ罪の支払いではない。「その血と肉が、アッラーに届くということでは、断じてない。しかし、あなた方の敬虔さが、かれに届くのである」。聖書自身の預言者も同じことを言っている。子は父の咎を負わない。
“(使徒よ、)言ってやるがいい。「一体、私がアッラー以外を(、崇拝の対象である)主として欲することなどあろうか?かれは、全てのものの主であられるというのに。いかなる者も、自分で(その罪を)背負うことなしに、(悪行を)稼ぐことはない。また(罪の)重荷を背負う者は、他の者(が犯した罪)の重荷まで背負うことはない。それから、あなた方の主の御許にこそ、あなた方の帰り所はあるのだ。そしてかれは、あなた方が(宗教上のことで)意見を異にしていたことについて、あなた方にお告げになる。”
“そしてわれらは彼(イスマーイール)を、この上ない犠牲で償った。”
“同様に、彼ら(がアッラー)の同位者(としたもの、つまりシャイターン)たちは、シルクの徒の多くに対し、自分たちの子供を殺すことを魅惑的に見せた。(それは)彼らを(破滅に)転落させ、彼らに自分たちの宗教を紛らわしく見せ(て迷わせ)るためであった。そして、もしアッラーがお望みであったなら、彼らはそのようなことをしなかったのだ。ならば彼らを、彼らが捏造したもの諸共、放っておけ。”
“愚かにも、知識もなく自分たちの子供を殺し、アッラーに対する捏造ゆえに、かれが自分たちのお恵みになったものを(勝手に)禁じた者たちは、確かに損失したのである。彼らは確かに(真理から)迷い去ったのであり、導かれた者の仲間ではなかったのだ。”
“その血と肉が、アッラーに届くということでは、断じてない。しかし、あなた方の敬虔さが、かれに届くのである。そのようにかれは、それ(ラクダ)をあなた方のために仕えさせられたのだ。(それは)自分たちを導いて下さったことに関し、あなた方がアッラーの偉大さを称揚するためである。(預言者よ、)善を尽くす者たちに吉報を伝えよ。”
“罪を犯した魂は必ず死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。”
さまざまな視点
キリスト教
キリスト教徒は、十字架は異教徒のもののような人身御供ではないと言う。イエスは進んで自分自身をささげた。彼は子なる神であった。そして動物の献げ物は前もって彼を指し示していた。
イエスは進んで自分自身をささげたので、彼の死は異教徒の人身御供のようではなかった。
反論
エフタの娘も父に、誓ったことをするよう告げたが、それでもトーラーは息子や娘を焼くことを忌むべきことと呼んでいる。そしてゲツセマネでイエスは祈った。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。
イエスは子なる神であったので、十字架の上で神はご自身を与えられたのであり、単なる人がささげられたのではなかった。
反論
キリスト教徒はまた、彼は完全に人であり、死んだのは人間の体と人間の血であったと言う。聖書は「神は人のように偽ることはなく」と言う。そしてエゼキエルは、子は父の咎を負わないと言う。神のどの律法も、ほかの人の罪を償うために一人の人の死を求めていない。
律法の動物の犠牲は前もってキリストの犠牲を指し示していた。
反論
預言者たちは犠牲から離れる方を指し示したのであって、人の犠牲へと指し示したのではない。ミカは自分の罪のために長子を与えることを拒み、ホセアは神はいけにえではなく慈しみを望まれると言い、イエスはその言葉を繰り返した。
アブラハムも自分の息子をささげる用意があり、ムスリムはそのことで彼を敬っている。
反論
神はアブラハムを止められた。「わらべに手をかけてはならない」。かれはその少年を動物で贖われたので、人の血は流されなかった。その話は神が人の献げ物を拒まれることで終わっている。キリスト教の話は死が実行されることで終わり、それを救いへの道としている。
イスラームの視点
キリスト教は、ほかの者の罪のために神にささげられた一人の人の死の上に立っており、トーラーの律法はそれを禁じている。イスラームでは、誰もほかの者の罪を負わない。アブラハムの息子は動物で贖われた。そしてアッラー(﷾)はご自身に立ち返る者を赦される。
新約聖書はイエスの死を、ほかの者の罪のための神への犠牲と呼んでいる。
キリスト教徒はほかのすべての信仰における人身御供を断罪している。今日自分の息子をささげた父は殺人で裁かれるであろう。それでも彼らは、父がご自身の子を渡されたと信じている。
トーラーは息子や娘を焼くことを忌むべきことと呼び、神はそれを一度も命じたことがないと言われる。
クルアーンは、誰もほかの者の重荷を負わず、アブラハムの息子は大いなる犠牲によって贖われたと言う。
クルアーンは、アッラー(﷾)に届くのは献げ物の肉や血ではなく、敬虔さであると言う。